弓鳴川心中

 由良がやってきたのは、小太郎が十三になったばかりのときだった。


「由良ですっ。十になりますっ。よろしくお願いしますっ」


 耳の下で切りそろえた髪を波立たせながら、由良はぺこんとお辞儀する。緊張で真っ赤に上気した顔が小太郎の方を向き、やがてにこりと笑ったのを見て、小太郎は理解した。


 ――こいつは、何も知らないんだ。


 小太郎の家は、決して裕福ではない。みなしごになった由良を、わざわざ遠い村まで出向いて引き取ったのには、むろん、訳があった。小太郎は、何から何まで知っている。


 ――へらへら笑って、ばかなやつ。


 由良は、今度水の月が満ちたら、弓鳴川に流される。水神さまの怒りを鎮める贄として。


 ◆


「小太郎くんっていうの? 仲良くしてね」


 普段より少しばかり豪勢になった食事は、歓迎という名を被ってはいても、実際は罪滅ぼしのためのものだったに違いない。小太郎は察していたが、由良には分からない。由良は、無邪気にはしゃいでいる。


「吾郎さんも、多恵さんも、いい人だね。あのね、わたしのお父さんとお母さんも――」


 由良の何気ない言葉は、小太郎自身すら知らないうちに抱いていた両親と自分への嫌悪感を呼び起こさせる。しかし、その嫌な感情の正体を小太郎は掴みかねた。


「うるさい。ついてくるな」


 苛立ちをそのまま由良へぶつけ、小太郎は無愛想に席を立った。


「あ、待ってよ小太郎くん!」


 小太郎は振り返らなかった。


 ◆


 由良が来てから、数日経った。両親は小太郎に由良から目を離さないよう命じていた。不慣れな土地は危ないからと適当な理由をつけていたが、由良が逃げ出さないよう見張っていろと言うのが本音であるのを、小太郎は悟っていた。


「小太郎くん、小太郎くん」


「なんだよ、鬱陶しいな」


「見て見て、うさぎさん描いたの」


 拾った木の枝で、由良は地面に絵を描いていた。着物の袖を強引に引っ張られ、小太郎が仕方なく見ると、存外上手い。


「……まあまあかな」


「ほんと? 褒めてもらったの、初めてだよ」


 由良は明るい少女だった。どんなことがあっても笑っている。小太郎はそれが気に入らず、冷たくあしらってばかりいた。悪いとは思わなかった。どうせ由良は、もうすぐ死ぬ。仲良くしても意味なんてないのだ。


 それなのに由良はめげなかった。小太郎が両親の命令を守ろうとせずとも、由良の方が小太郎につきまとう。由良は小太郎がうんざりするほどうるさく、いつでも一人で賑やかだった。


「わたしね、お父さんがお役人で、村のみんなに嫌われていたから、お友だちひとりもいなかったの。だから、ずっとひとりでお絵かきしてたんだ。でも今は、見てくれる人がいて、嬉しいな」


 笑うとき、由良は唇の両端をいっぱいに吊り上げる。歯茎まで見えてしまって、見目がよいとはとても言えないが、このときのものには淋しさがわずかに溶け込んでいた。それは小太郎の目に強く焼きつき、さらにこう思わせる。


 ――少しだけなら、仲良くしてやってもいいかな。


 その日から小太郎は、由良の話を聞くようになった。


 ◆


「おまえ、木登りもできないの?」


 由良は大木を身軽に登っていく小太郎を、羨ましそうにただ見上げていた。


「だって、だれも教えてくれなかったんだもん」


「簡単だからやってみろよ。てきとーに登ればいいんだ」


 助言を受けて、由良は少し木に手を伸ばしたが、すぐに首を振った。


「小太郎くん、わたし、分かんないよ」


 由良が寂しそうな顔をするので、小太郎は仕方なく半分ほど下りる。人差し指で場所を示してやった。


「しょうがないな。最初はそこのこぶ。手はそこのうろ。次にそっちの足を枝まで上げて」


「あっ、小太郎くん、小太郎くん。蜘蛛がいたよ。ほら!」


 少し登ったところで、由良は目の前を横切った蜘蛛を捕まえようとした。木から両腕が離れて、小さい身体が不安定に傾ぐ。小太郎の腹からさっと血の気が失せた。


「ばか、手を離したら――」


「きゃっ」


 案の定、由良の身体は地面に墜落した。幸い高さはなかったので、尻餅をつくだけで済む。小太郎はほっと息を吐き出した。


「手離したら落ちるに決まってるだろ。由良はばかだな」


「痛くないから、だいじょうぶ。小太郎くん、もう一回教えてよ」


 由良は尻をはたくと、意気込んで木登りに再挑戦した。


 ◆


 小太郎の絵は、それはそれはひどい出来だった。


「あははっ、小太郎くん、何それー」


「蛙」


「えー、熊じゃないの?」


 言われてみれば確かに熊にも見えると小太郎は思った。どちらにせよ、下手であることに変わりはない。


「じゃ、熊でいい。くそ、由良みたいにうまくは描けないな。由良はさっきから何描いてるんだ?」


「じゃじゃーん。小太郎くんとわたし。どう?」


 細い枝で、由良は丁寧に二人の顔を描きあげていた。二人とも楽しそうに笑っていて、よく描けている。小太郎は負けを認めるしかない。


「……うまい」


「お絵かき勝負はやっぱりわたしの勝ちだね。じゃあ次はなにする?」


「かけっこ」


「かけっこは前にやったよ。けんけんにしようよ」


「それじゃあ、けんけん勝負だ。あそこの家まで競走な」


 宣言するなり、小太郎はけんけんを始めた。どんどん遠くなっていく背中を見て、由良は焦って立ち上がる。


「あ、待ってよ小太郎くん! ずるいよ!」


 ◆


「雄二おじさんもね、紀江おばさんも、佳奈おばさんも、喜重郎くんも、紗枝さんも、みんなみーんな、わたしはいらないって」


「なんだそれ。由良も怒ればよかったのにさ」


「食べさせてあげられないんだ、ごめんねって言われたの。そうしたら、怒れないよ」


「……おまえ、いつもあんまり食べないのは、おれたちに気を遣ってるのか?」


「ちがうよ。全然ちがう」


 小太郎の家では、家族皆並んで眠る。由良はいつも小太郎の隣で眠っていた。薄い布団越しに、何度か由良の腹が鳴っているのを小太郎は聞いたことがある。


「由良はうそつきだな」


「わたし、うそなんてつかないよ」


「やっぱりうそつきだ」


 由良は唇を尖らせた。


「じゃあ、小太郎くんは絶対うそをつかないの?」


 うそなんてつくもんか。答えようとして、小太郎は声を失った。


 ――水の月、まだ昇らないのね。


 昨晩、食糧庫で母親がそうこぼしたのを、小太郎は聞いていた。腰かけていた枝がぽきりと折れたような錯覚が、突如小太郎を襲った。


「ほらー、小太郎くんもうそつきさんだ」


 小太郎を覗き込んだ由良の笑顔は、あまりに眩しかった。


 ◆


 由良が寝息を立ててから、小太郎はそっと寝床をぬけ出した。


「母ちゃん」


 母親は、台所で明日の食事の用意を始めていた。


「どうしたの、小太郎。眠れないの?」


「おれ、これから食事、半分でいい」


 母親は作業の手を休めて、怪訝な顔で小太郎を振り返った。


「お腹でも痛いの? 駄目よ小太郎、ご飯はちゃんと食べないと」


「おれの分の半分を、由良にあげてよ。だから母ちゃん、由良を水神さまのお供えにするのはやめよう」


 困った顔をして、母親はしばらく答えなかった。


「……由良ちゃんの分の食事ね、村のみんなが助けてくれてるのよ」


 ようやく口を開いたかと思えば、そんなことを言うので、小太郎は首を傾げた。母親はしゃがんで小太郎と目の高さを合わせる。母親の手から、青い野菜の匂いが漂った。


「小太郎は、もう大きくなったから、分かるわね。水神さまに由良ちゃんをお供えしなかったら、由良ちゃんだけじゃなくて、村のみんなが死んでしまうのよ」


 小太郎は、きっと母親をにらみつけた。こみ上げた怒りに耳を真っ赤にしながら、小太郎はほとんど怒鳴るように言い捨てた。


「おれ、分からない。全然分からない!」


 ◆


 何かをするには、小太郎は幼すぎた。父も母も一度として頷かず、痺れを切らして長老に訴えても、何も変えられなかった。


 そうしている間に、ついに水の月が昇った。今はまだ細いが、満ちるまでにそう時間はない。月が満ちれば由良は流される。


 小太郎は決めた。全て由良に話すことを。


「小太郎くん?」


 いつもの木の上だったが、由良は小太郎がいつもとは違う深刻な面差しをしていることにすぐに気がついた。


「小太郎くん、どうしたの?」


「由良、おまえは、水神さまのお供えのために、おれの家に引き取られたんだ」


 由良は分からないというように何度も瞬いた。


「水神さま? お供え?」


「水神さまは、この間いっしょに行った、弓鳴川の主なんだ。最近弓鳴川は水が増えてる。イケニエを差し出さないと、水神さまが怒って、もうすぐ溢れてしまうって、おばばが言ったんだ。だから、父ちゃんと母ちゃんは、由良を引き取った。イケニエにするために」


「わたし、イケニエになるの? イケニエになったらどうなるの?」


「弓鳴川に流される」


「死んじゃうかな」


 小太郎が黙って頷くと、由良は、「そっかあ」と言った。自分の命の危機であるにもかかわらず、由良は無頓着だった。


「ねえ、小太郎くん、今日は何して遊ぶ?」


「由良は、このままだと死んじゃうんだぞ。水の月が満月になったら、ギシキが始まって――」


「わたし、べつにいいの」


 必死な小太郎をよそに、由良は常以上に落ち着いている。由良は小太郎が見たこともしたこともないような、ひどく大人びた顔をした。


「みんな、わたしをいらないって言った。でも吾郎さんと多恵さんはいるって言ってくれたし、今日まで優しくしてくれたよ。だから、それでいいの。それに」


 由良は笑った。歯茎をむき出しにする、あの笑い方だった。


「おかげで、小太郎くんに会えたよ」


 だから、いいの。それより遊ぼうよ。今日はきれいな石を集めよう。足をぶらぶらさせながらそう言う由良は、元気だった。少しも無理なんてしていなかった。だからこそ、小太郎は悔しかった。


 そのとき、小太郎はふと思いついた。


「由良」


「なあに?」


「逃げたらいいんだ」


 由良は、きょとんとした顔で小太郎を見上げた。


「逃げるって、どうして?」


「逃げれば、流されなくて済む。おれもいっしょに行くよ。だから」


 真面目な顔になった由良が、静かに小太郎をみつめた。


「イケニエが逃げたら、水神さまは、きっと怒っちゃうよ」


「でも、おれは、由良が死ぬのはいやだ。だから逃げよう」


 由良は一瞬だけ微笑むと、ばっと小太郎に抱きついた。


「小太郎くん、ありがとう。わたしね、小太郎くんが、大好きだよ」


 小太郎も、由良が大好きだった。しかし、小太郎が今一番欲しかったのは、「逃げよう」への頷きだった。しかし由良は頷かない。この先由良がずっと頷かないだろうことも、小太郎には分かった。


 小太郎は泣いた。小太郎自身、理由がよく分からないのに、涙が止まらなかった。


 隣で由良も、泣いていた。


 ◆


 水の月が、満ちようとしていた。


 数日前から長老の家に引き取られていた由良を、小太郎は毎日訪れ、ついにその日、二人だけで過ごせる時間を与えられた。


 小太郎の懐には、父親の帯が一つ、入っていた。家から黙って持ち出したものだった。


「外で遊べるのは、久し振りだね。ねえ、小太郎くん、何する?」


 由良は小太郎の名前をよく呼ぶ。その日も同じだった。日暮れまで色んな遊びをしながら、何度も何度も、由良は小太郎の名を呼んだ。


「由良」


 刻限は、陽が沈むまでだった。小太郎は、由良を弓鳴川まで連れてきていた。弓鳴川は夕陽の紅をにじませて、きらきら輝きながら流れている。


「由良、おれも、イケニエになるよ」


 由良と離れ離れになってからも、小太郎は考え続けていた。どうすれば由良とずっといっしょにいられるか。そうして至った答えが、これであった。


「駄目だよ。小太郎くんも、死んじゃうよ」


 ぶるぶる首を振った由良を見て、小太郎は微笑んだ。小太郎は、あのときの――生贄になることを「べつにいい」と言ってのけたときの――由良よりも、ずっと大人びた顔で笑っていた。


「前に、ここに、シタイが流れてきたことがあるんだ。二人組のシタイで、離れないように、身体を帯で縛ってた。おれたちも、これがあれば、いっしょにイケニエになれると思う」


 小太郎が取り出した帯を見て、由良は息を呑んだ。


「駄目だよ、小太郎くん……イケニエは、わたしひとりでいいんだよ」


「由良は、ひとりで、こわくないのか?」


 由良は震えて泣きそうになった目を伏せる。弓鳴川の流れる音にかき消されそうなほど、か細い声が続いた。


「こわいよ。本当は、すごくこわい」


 小太郎は、帯を握ったまま、由良を優しく抱きしめた。


「ふたりなら、こわくない」


 小太郎は、解いた帯の片端を、由良に差し出した。由良は戸惑って、戸惑って、そうしてついに手を伸ばす。


「……いっしょにイケニエになったら、小太郎くんと、ずっといっしょにいられる?」


「たぶん」


「小太郎くんは、イケニエになっていいの?」


「由良といっしょなら、いい」


 小太郎が、先に帯を身体へ巻きつけた。促されて、由良も帯を巻きつける。小太郎が受け取って、両端を括った。何重にも括った。


「小太郎くん、本当にいいの?」


 由良がひとりで川に飲まれていく夢を、小太郎は何度も何度も見ていた。白い手が水の筋の中へ消えていくたびに、泣きながら跳ね起きた。


 ――ああやって見送るくらいなら、いっしょにいくほうがいい。


 小太郎の心はとっくに決まっていた。




 幼い二人が身を投げた瞬間は、奇しくも、水の月が顔を出したのとちょうど同じときだった。


 ◆


 その後、二人の死体は見つからず、二人の姿を見た者もない。


 ある者は二人は海まで流されてあぶくとなったのだと言い、ある者は二人は豊かな村に流れ着き幸せに暮らしたのだと言い、またある者は二人は新たな水神さまになったのだと言った。


 いずれにしても、以降、弓鳴川が増水することはなく、生贄が捧げられることもなくなったらしい。

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