恋愛

恋見知り

「恋見知りだよね、香苗は」


 これは、中学生の頃からずっと友人をしている美春の言だ。昔からちっとも恋愛をしてこなかった私を評したものらしい。


「私には、何でそんなに恋しないでいられるか分からないな。そりゃさ、楽しいばっかじゃないよ? 恋をすれば、ちょっとしたことで悲しかったり辛かったり苦しかったりするし、嫉妬したりもするし、あとは振られたりしたら死ぬほど心に来るし。でも、上手くいかなかった恋だって、後から振り返れば結構楽しかったって感想に落ち着いたりするわけ。オシャレして可愛くできたって満足したり、ちょっと話しかけられただけでうきうきしたり。同じように過ぎていくだけの毎日に、ちょいちょい彩り? が生まれるのよね。ほら、世間でも恋愛は刺激って言ったりするっしょ」


 私と違って、美春は恋多き女だった。恋が多いということは、それと同じ数だけ失敗してきたということだ。振られたと言っては、今にも死にそうな顔で涙も涸れるくらい泣きまくる姿を何度も見てきた。そんなに傷ついてまで、よくもまた恋愛する気になれるものだと、その度に私は思ってきた。


「人見知りもさ、食わず嫌いみたいなものじゃん? 相手がどんな人間かも分からず距離を取りたがる。香苗の恋愛嫌いもそれ。だから、恋見知りってこと」


 多分、美春の指摘は半分ほど当たっている。私は恋愛がどういうものか、きっとよく知らないままに諦めている節がある。私は恋愛体質じゃないんだ、なんで好き好んで疲れるようなことをしなきゃいけないんだ、男に夢中になるなんてばかみたい。そんな風に自分で言い聞かせながら。


 でも、きっと、私の恋見知りの理由はそれだけじゃない。



 忙しい仕事をしていた。書店が閉まる前に足を運べることは滅多になかったから、偶に間に合うとついあれもこれもと買いすぎてしまう。その日も案の定、両腕にこれでもかというほど抱えてレジに並ぶことになった。どうして買い物かごを置いてくれないのか。


 だから、そうなったのは、おそらく仕方がなかった。


「す、すみません」


 レジ横の入口から現れた人物の姿を見て、私は酷く動揺した。慌てて隠れようとしたせいで、腕に抱えたものの危うい均衡が崩れ……結果、全てをばら撒くことになったのだ。


 すぐ傍で起こった騒動に、彼が気づかないはずがなかった。


「どうぞ」


 彼が満面の笑みを浮かべながら、拾ったものを私に差し出してくる。礼を言うのも忘れて俯いた。今にも噴火しそうな顔色になっていただろうと思う。


「こういうの読むんだ?」


 続いた想定通りの台詞に、ますます顔を上げる機会を奪われる。私が買おうとしていたのは、中高生が好むような恋愛漫画や恋愛小説ばかりだった。


 考え得る限り、最悪の状況だ。何と言い返したものかも分からない。俯いたまま黙っていると、会計が私の番になってしまったようだ。半分ほど拾って持っていたものを、彼が取り上げて、レジに載せる。


「いいから、もう買わないから」


「何で?」


 容易く返事ができない質問を投げかけられて、私が困っている間に会計が進んでしまった。如何ともしがたいので、支払いを済ませる。差し出された袋を受け取ろうとしたら、横から伸びてきた手の方が早かった。


「何?」


「重いなー。これ持って、歩いて帰んの?」


「そうだけど」


「で、帰ったら、甘々の少女漫画一人で読むわけか」


 一人で、の部分をあえて強調して彼が言う。何も言えなくなった。それと同時に多少の苛立ちを覚えて、思わず睨みつけたら、彼は悪いことを思いつきましたという顔をして笑っている。


「飯。会社の連中には黙ってるから、奢って」


 この野郎。心の中で罵声を浴びせる。食事代も多少は痛かったが、それよりも休みの前の日の貴重な時間を取られることの方が私には大きかった。しかし、彼がそう確信しているだろう通り、私は断れない。こんなことを吹聴されたら、私が必死に職場で築き上げてきたイメージが形なしになってしまう。


「ファミレスでいい?」


「居酒屋で」


 これ、持つからさ。付け足して勝利を信じ切った笑みを浮かべた彼に、内側で今度は舌打ちをして、私は渋々頷いた。



 新藤丈。同期の、やり手の男だ。わが社では、営業で成績を出した者から本社勤務になっていく。上司には、「お前か新藤か、どっちが一番乗りになれるか勝負だな」などとよく言われていた。そんなことを言われたら、どうしたって意識する。彼に負けたくない一心で色んな努力をしてきた。あちらがどう思ってるかは知らないが、私にとっては紛れもなくライバルだった。それがこんなことになるなんて。一番知られたくない相手に、一番知られたくない弱みを握られてしまった。本当に、信じられないくらい最悪の展開だ。


「仕事にしか興味ありませんって感じの崎下に、まさかこんな趣味があるなんてびっくりだ。今年一番の驚きかもしれない」


揶揄からかわないでくれる? 食事まで奢ってるんだから」


「本当に奢ってくれるなんて思ってなかったんだよ。そんなに会社の人間に知られたくなかったの?」


 営業をやる人間にとって、相手の目を見て話すのは必須スキルであるのだが、今の私にとって彼のまっすぐなまなざしは強すぎた。思わず一瞬目を逸らしてしまってから、それが肯定と同じ意味になると気づくが、もう遅い。新藤は運ばれてきた生を三分の一ほど煽ってから、再び私を見つめた。


「自然体でいいじゃん。崎下は、作り過ぎじゃね」


「作り過ぎって、何」


 少々聞き捨てならなくて、つい噛み付いてしまった。私は、女子が男の前で媚びを売ったり、弱々しい振りをしたりするのは昔から嫌いだった。同じにされたくないという思いがあったのだと思う。


 新藤はやや目を細める。嫌な予感がした。彼がそういう目をするときは、たいてい何か鋭いことを言う前兆だった。


「可愛い子ぶるとかそういうのの、逆だよ。自分は可愛くありませんってのを、無理に作ろうとしてる気がする」


「……何、それ」


 声から勢いが失せたのは、自分でも分かった。ごまかすようにジョッキに手を伸ばす。


「前々から思ってたけど、今日のことで余計そう思ったな。別に家で何してようが人の勝手だろ。それも、特別変な趣味って訳じゃない。それなのにやたら気にするから」


 新藤に合わせて頼んだ生は、喉の奥に絡まるようにしながら落ちていく。好んで飲みたい酒ではなかった。本当は甘いカクテルの方が好きだ。だから多分、新藤の言うことはかなり当たっている。


「仕事でも、大勢でやれば早いことを一人で頑張ろうとしてるのよく見るし。仕事できるのは知ってるけど、不器用だなって思ってた」


「人間観察、趣味なの?」


「まあ、結構?」


「ふーん」


 ものすごく、居心地の悪い席になってきた。早いところ食事を済ませて家に帰りたい。本来なら、寝転がりながら漫画でも読む悠々自適な生活ができていた時間なのにと思うと、惜しくて堪らなかった。……そう、そのはずだ。私はそう思っている、きっと。


「どう? 当たってる?」


「自分ではそう考えたことはないから、分からないな」


「素直じゃないねぇ」


 一体、この男は何のつもりでこんな話をしているのだろう。人間観察力に長けているということを見せびらかそうとしているのか、それとも私の弱点を握ったことを遠回しにアピールしてきているのか。全く分からない。


「どうしてそんな話をするの」


 考えることを諦めて聞いてみたら、新藤は微笑んだ。


「どうしてだと思う?」


「質問を質問で返すの、面倒くさい。考えたけど分からなかったから聞いたんだけど」


「ギャップ萌えしたから」


「は?」


 意味不明な答えが返ってきたせいで、素っ頓狂な声を上げてしまった。箸を止めた私をよそに、新藤は「すみませーん、生一つ」と何でもないように店員に声を掛けている。


「全然答えになってない気がするんだけど」


「そのままなんだけどなー」


 釈然としない顔をしていたら、新藤はその後長々と話を始めた。彼も私と同じく上司から「出世したければ崎下に勝ち続けろ」と言われていたこと、それもあって私をライバル視していたこと、観察を続けるうちに私が不器用な人間だと気づいたこと。話しかけても素っ気ない応対しかしない私のことを最初はよく思っていなかったが、それが分かってからは悪い奴じゃないと考えるようになったこと。惜しみなく自分の内側を晒していく彼は、少し羨ましいと思うほど開けっぴろげだった。


「それで、今日のことがあって、やっぱ俺の読みは間違ってなかったって思ったんだ。崎下は可愛くない自分を作ろうとしてる、ってやつな。で、俺に見つかった崎下、すっげー顔赤くしてたろ? それ見て、可愛いなって思ったわけ。だから、ギャップ萌え」


 思わぬ方向に話が向かっていって、終着点が見えたとき、私はずいぶん唖然としていたと思う。一時の空白を経て、思考は目まぐるしく巡り始めた。何、何、どうなっているの。可愛いって何。


「また揶揄ってる?」


「揶揄ってないし、話はもうちょい続くんだけど、いい?」


「まだあるの……」


「ここまで言ったなら、皆まで言った方がいいと思って。さっき言った理由から、俺は崎下と付き合いたいと思いました。あ、別に振っても、報復に今日のこと晒すってことはしないから安心してくれたら。そりゃ、振られない方が嬉しいけどさ」


 人が石になる瞬間があるということを、このとき私は初めて知った。硬直時間は十秒だったかもしれないし、三十秒だったかもしれないし、一分かそれ以上だったかもしれない。とにかく私は、結構な時間、全ての機能を停止させていた。



 私は、究極の怖がりだ。自分が自分でいられなくなることを、とても怖がっている。だから本音を言わない。だからあえて人に好かれる努力を放棄する。本音を言わなかったら、拒絶される心配がない。最初から嫌われていたら、誰にも期待されないし私も期待しなくていい。そうやって多分、周りの人間を勝手にふるいにかけてきた。棘だらけの私の壁を乗り越えてまで来てくれる人なら、信頼できる。そうしてやって来てくれた美春は、私の無二の友になった。


 友情はいい。一つしか許されないというものじゃないから、美春が他に誰と仲良くしていようと、心に余裕が持てる。だけど、恋愛は違う。恋愛は唯一の相手としか許されない。しかもその唯一を決めるための材料は、不安定な感情という代物でしかないのだ。そんな危険なり所を作ってしまったら、果たして私はこれまでの安定した私でいられるのだろうか。そうでいられなくなった自分を見るのが、私には怖くて堪らなかった。


 そんな私とて、全く恋愛に憧れていない訳じゃない。だから恋愛漫画を読み、恋愛小説を読む。どろどろしたものより、爽やかなものが好きだ。主人公に自己投影して、人を想うことや人に想われることの喜びや苦しみを共に感じる。私は恋することのときめきだって知っているし、胸が締め付けられるような痛みだって知っているし、何もかもが輝いて見えるような幸福感だって知っている。それもこれも、本当の自分は安全圏にいることと、最後には報われる展開になることが分かっているからこそ、安心して味わえた。それで満足していた。


 現実世界で恋をしなかったのかと聞かれると、実のところはよく分からない。私はそういう変わった思想の持ち主だったから、恋をしかけたことがあったとしても、それを懸命に気の迷いだと打ち消してきたきらいがあると思う。それを繰り返すうちに、ろくに本当の恋もできないまま、こんな年になってしまった。


 私の恋見知りの原因は、一つは美春の言う食わず嫌いのようなものであり、もう一つはこの臆病さゆえだろう。



 状態異常・石化を乗り越えた後の私は、短い時間でこれだけのことを一気に考えていた。新藤は何も言わずに私を見つめて、返事を待っている。時間をかけて行った思考のいずれもが、彼への返事に直結しないものであったため、私はなおも困ることになった。


 ふと思う。困る? 困るとは、なぜだろう。


 誰かに告白されるという経験は、数少ないながらあった。二度くらいだった気がするが、どちらもすぐに「ごめんなさい」という返事をした。私の内側に居座っていた恋愛恐怖症とも呼べるような理由もあったが、それよりももっと単純に断る理由があったのを覚えている。一人は女子なら見境なくというタイプであったから論外だったし、もう一人は当時の友人の想い人であったため面倒ごとを嫌って断った。それを思い出しながら、目の前の新藤丈と向かい合う。理由、理由。何か理由はないか。


 新藤丈はライバルだ。それは理由にはならない。


 新藤丈は仕事ができる。もちろん、それだって理由たりえない。


 新藤丈は明るく開けっぴろげな人間だ。やはり理由とはいえない。


 新藤丈は人間関係を構築するのが上手い。当然、理由になるはずがない。


 新藤丈はたまに店にやってくる子供に優しい。これも、理由になりそうもない。


 新藤丈はどうやら私のことをよく理解しているらしい。うーん、理由にはできない。


 新藤丈は、新藤丈は。幾つ彼の特徴を思い浮かべてみても、何一つ理由になってくれそうなものはなかった。否定を繰り返すたびに、頬が熱くなってくる気がしたから厄介だ。何となく鼓動が速まってきているような気もしてくる。これではまるで、私が恋をしているみたいではないか。


「即答じゃなくて安心してる。俺、期待していいってこと?」


 結局何も言えずにいた私に、新藤はずいぶん経ってからそう聞いて来た。新しくなっていたジョッキの生は減っていないし、箸も置いたままだ。あまりに簡単に言うから、本気かどうか疑ってしまったが、とても失礼なことをしてしまったのかもしれない。


「あの」


 それだけ言ってから、迷ってしまう。少し頭の中を整理してから、ぽつぽつと言葉を継いだ。


「少し、時間をくれない? 新藤のこと、そんな風に見たことなかった……というか、私自身が恋愛するなんて、考えたこと、なかったから」


 よく分からないから断る、という選択もあったけれど、なんだかそれを選ぶ気にもなれなかった。手札をすべて見せてくれた新藤へ、私なりの誠意で応じたつもりだった。言葉は少なかったかもしれないけれど、私の方も胸に抱えていることを正直に述べた。それを分かってもらいたかったから、本当は目を見て話したかったのに、途中で恥ずかしくなってまたも逸らしてしまう。こんな素振りを見せたい訳じゃないのに、身体が別人のものになったみたいだ。余計に恥ずかしくなってくる。


「了解。それじゃ、期待して待ってる」


 あっさりそう返答した新藤へ、ちらっと視線を戻してみる。彼はいつもの人懐こい笑顔を浮かべていた。落ち着かなくて、それでも今度は顔を背けたいと思わないし……今は、早く帰りたいと思う気持ちだって、どこかに行ってしまったらしかった。それどころか。少し前の私と矛盾した考えが浮かんできて、苦笑をしたい気分になる。



 恋愛をするということは、別人になるということかもしれない。


 だから、これまでの自分でいられなくなりそうという私の危惧は、多分当たっている。そうなって初めて、恋をしている言えるもの……のような、気がしてきた。そして、別人になりたくなくたって、なってしまうときにはなってしまうものなのだろう。媚びるとか、ぶりっ子とかじゃなくて、身体が勝手にそういう反応を示すのだ。私はこれまでの女の子たちへの認識を、反省して少し改めなければいけない。これらは、恋愛ものを読んでいるだけでは分からないことだった。


 ソファに置いたままの恋愛漫画に手を伸ばすより、今はこうしてベッドの上に寝転がって、誰かさんのことを考えていたいと思ってしまう私のあまりの変貌のしように、私自身が一番驚いている。


 スマートフォンが震えた。これまでは気に留めることの方が少なかったのに、すぐに手を伸ばしてしまう。通知に期待通りの名前が見えて、知らない間に唇が緩んでいた。


 明日は、買い物に行こう。新しいスーツを見に行って、少し可愛いブラウスも何着か買って。化粧も少し変えてみようか。今まで無難なものばかり選んでいたけど。何色が好きなんだろう。可愛いか綺麗か、どっちが好みに合っているかな。久しぶりに雑誌も読んで勉強してみたい。そうやって頑張ってみたら、新藤は気づいてくれるだろうか。明日が早く終わって、すぐに明後日になってしまえばいいのに。



 恋見知り脱却は、もしかしたらもうすぐ傍まで迫っているかも、なんて。

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