忘却のかなた

 真昼間の公園には意外と人が居ないもので、独りブランコに腰掛ける高校生を不審に見る目はない。もう一、二時間経てば、幼稚園や小学校から帰ってきた子供達でここも騒がしくなってしまうだろう。どこに行こうか。二時ぐらいまで粘ったとしても、最低あと二時間は家には帰れない。いや、帰りたくない。独りで居たかった。いつもの私を作れる自信がないし、気力もなかった。


 いっそ、このまま姿を消してみようか。確か、部活を引退してから滅多に使わなくなった財布には七千円は入っているはずだった。どこまで行けるだろう。たぶん、かなり遠くまで行ける。見知らぬ地を独りでとぼとぼ歩く。できれば田舎が良い。何も考えず、ただ田園に囲まれた静かな小道を行く。たまらないほどに魅力的だ。でも、私は行かない。臆病で、怖がりな私は。


 現に、今だって。そんな余裕はないはずなのに、私は自分のしでかしたことにおののいていた。学校を、無断早退。友達にも悪いことをしたかもしれない。明日何を言われるかと思うと、憂鬱だった。もっとずっと、深刻な問題を抱えているというのに。




 三時間目の後の休み時間のことだった。いつものように仲良しの四人で机を囲んで、四時間目にお腹が鳴らないように早めにお弁当をつつきながら、色んなことを喋っていた。期末試験のこと、志望校のこと、塾のこと。話題は次々と移り変わって、そして私の妹のことに及んだ。


「そうそう。そう言えばさあ、昨日自習室で綾香の妹に会ったよ」


「まじ?」


「塾行き始めたんだ」


「うん。実は一昨日からなんだけど」


「挨拶されて気が付いてさ、ほんっとかわいいよねー。あんな妹欲しいなあ。えっと、何ちゃんだったっけ?」


「えー。全然かわいくないよ。外では猫被ってるだけ。えっと……え?」


 瞬間。背を、氷が這った。震えが全身に走った。思い、出せない。ずっと一緒に育ってきた、血を分けた妹の名前を。


「綾香?」


「……ごめん。私、調子悪いから帰るね」


「え? 何? どうしたの?」


 そこから先、ちゃんとした記憶はない。気が付いたら、校門をくぐっていた。そして、坂を下りてすぐの公園のブランコに腰掛けていた。




 陽が、じりじり肌を焼くのが解る。これまで必死に日焼け止めを塗りたくっていた自分が馬鹿らしく思えて、笑ってやった。好きなだけ、焼いてくれたら良い。肌が黒かろうが白かろうが、将来皮膚病になろうがならまいが、もう私には関係なかった。どのみち、私は私でなくなる。


 気付いていなかったわけではない。気付かないふりをしていただけで。ちゃんと、解っていた。影のように潜みながらも、それが常に私を追って来ていたことは。だけども、向き合うのが怖くて。怖くて、恐ろしくて。だから、目を背けていればいつかは受け入れられるようになるのだと、勝手に納得した。


 いくら頑張っても、数学の公式や英単語を覚えられない。授業に持ってくるべきものをよく忘れる。新しい友達の名前を中々覚えられない。楽しみにしていたはずの遊びに行く約束を忘れる。塾に行くことも忘れる。疲れているだけだとごまかしてはみたけれど、異変にはすぐ気付いた。だから、休みの日にひっそりインターネットで色々調べたりした。行きついたのは認知症、若年性アルツハイマー。やっぱり、間違ってはいなかった。たとえ一瞬でも妹の名前まで忘れるなんて、正気の沙汰とは思えない。


 精一杯、生きてきたと思う。小さい頃から色んな習い事をした。小学五年生からは塾にも通って一生懸命勉強した。高校受験の年は我武者羅に頑張って、学区内トップの進学校に合格した。身体の弱い母を手伝っても来たし、友達も大切にしてきた。部活だって一度も休まずに練習に参加したし、自主練習もよくやった。学校内の定期テストも何とか平均値を保っていた。受験生になってからは睡眠を減らしてまで勉強時間を増やした。凡人よりかは、色々頑張ってきたと思う。それなのに、どうして。一体、どうして。どうして、私が。私だけが。


 努力は報われるなんて、夢は叶うなんて、嘘だ。親も、教師も私にそうやって教えてきたけれど、それならこの状況をどう説明するんだ。善い行いには幸せが、悪い行いには罰が与えられるなどと言ったのは誰だ。教えてほしい、私がどうしてこんな報いを受けなければならないのか。私は、一体、何をしたというのか。一体、どんな重罪を犯したというのか。殺人? 強盗? 何もしていない。全うに生きてきた。それなのに。全部嘘だ。とびっきり残酷な嘘だ。それを信じて生きていた私は、底なしの馬鹿だった。大人になれもしない私の努力は永遠に報われることなく、その夢も叶えられることはない。


 世の理不尽を今頃知ったところで、私に出来ることは何もない。腹立たしさをぶつけることが、できるだけで。私の病が治るわけでもないし、楽にもなれやしない。誰も、何も、私を救ってくれはしない。


 じき、私は壊れる。もう、壊れかけている。ちょうど、古びたオルゴールが、惨めな音で鳴るみたいな。身体を半分潰された虫が、弱々しく足を動かすみたいな。はかなく、哀れな一瞬。私は今、その瞬間を生きている。無意味で、辛いだけの瞬間。どれだけ抗っても、所詮時の流れに勝てはしない。時間は着実に私を壊していく。そして近いうちに私は、生ける死者と成り果てる。身体は生きても、心は死んだ生ける死者。何も考えることのない、何も感じることのない、ただ生きているだけの虚しい存在。魂の抜け殻。ベッドの上に横たわって、生気を失くした目で宙をみつめる自分を想像すると、何かおぞましささえ感じた。


 死ぬより辛いことなんて、ないと思っていた。でも、今死ねるとしたら、それだけの度胸があれば、私は死ぬかもしれない。少なくとも、今死ねば。記憶は持っていけるし、それを失くしていく恐怖も哀しみも感じない。惨めな姿をさらすこともなければ、それぞれの顔や名前すら区別の付かなくなってしまった私をただ生かすためだけに、家族に迷惑と苦労をかけることもない。小さい頃はあれだけ怖がっていた死というものが、急に輝いて見えた。ああ、今、死ねれば。


 ブランコをこいだ。顔をなでた風は生温くて不快だった。立ち並ぶ一軒家の屋根の上に、学校が見えた。ますます不快だった。


 ふと、公園を横切ってくる人影に気付いた。子供じゃない。顔はまだはっきり見えないけれど、背丈からして男だと思われた。どうしてこんなところに? 男は、まっすぐ私のほうへ向かってくる。制服を着ている私は、一目見られただけでサボリ高校生だとばれてしまう。ああ、私を見つけて入ってきたのかもしれない。怒られるかな。思ってブランコから飛び降りた。そもそも、制服を着たまま学校にほど近いところに居たのが間違いだった。逃げた方がいいかもしれない。追いかけてくるだろうか。いや、いくらなんでも、そこまではしないだろう。ひとりで結論づけて、公園の出口に向かった。ちらりと振り返れば、男が進行方向を変えるのが見えた。明らかに私を追っている。てっきり散歩に出てきたおじいさんかと思ったけれど、そうではなかった。まだ若い。働き盛りぐらいだ。平日のこんな時間に、こんなところをぶらぶらほっつき歩くのは不審に思えた。それに、よく見れば服装もおかしい。そろそろ夏を迎えようとしているこの時期に、ニット帽を被って、分厚い長袖の上着を着ている。


 さあっと、血の気が失せていくのが解った。何日か前に担任が言っていたことを思い出す。


「昨日、下校途中の女子生徒が殺すぞと叫ぶ男に追いかけられた。四時前のことだ。中肉中背、黒いニット帽を被っていたようだ。幸い何事もなかったようだが、くれぐれも気をつけるように。帰りは何人かで連れ立って帰れよ」


 勝手に、足が止まった。ちょっと離れたところで男も足を止めた。恐るおそる、視線を上げた。目が合った。男が笑んだ。カチカチッとどこかで聞いたことのある音が鳴った。笑ったまま男が掲げた右手に、握られていたのは。


「あ……」


 ひとりでに喉から漏れた声は、もはや声と呼べないくらいに震えていた。足ががくがくする。変な汗がじっとり額を濡らした。


「ああああああああああっ!」


 絶叫して、駆け出した。既に息が切れていた。男が追いかけてくるのが、砂利を踏みしめる音で解る。


 逃げなくては。逃げなくては。逃げなくては。左折してから学校は逆方向だったと気付く。けれども引き返すことは出来ない。そんなことをすれば捕まってしまう。カッターナイフのあの薄い刃でも人は死んでしまうのだろうか。いや、そんなことはどうでもいい。とにかく、逃げなくては。


「誰か……誰かあっ!」


 家に挟まれた道には、やっぱり人は居なかった。昼時だ、普通の人は食事をしている頃。誰も居ない。誰も助けてくれない。肩の鞄をかなぐり捨てて、ただただひたすらに走った。途中でぶかぶかのローファーの片方が脱げた。それでも後ろは振り返らなかった。もう自分がどこを走っているのかさえ定かではなかった。右に左に、とにかく走りに走った。




「あっ」


 唐突に視界ががくんと落ちた。足がもつれたらしい。転んで、ざざっとアスファルトの上を滑った。肘が痛い、膝が痛い、足の先が痛い。そして、胸のあたりも痛かった。心臓と肺がパンクしてしまいそうだ。立ち上がろうにも、もう無理だった。一キロ走ったか走ってないかだというのに。部活を引退して一ヶ月経てば、体力は相当に落ちてしまうらしい。何度吸っても酸素は足りない。身体が重い、目が眩む。汗で制服がべっとり肌に貼りついている。髪もぐっしょり濡れていた。


 殺される。振り返る勇気はなかった。たぶん、それなりに離してはいたはずだが、これではもう時間の問題だ。地面に無様に横たわったまま、すぐにでも襲ってくるだろう痛みに備えて私は身体を硬くした。どこをやられるだろう。無防備な背中だろうか。いや、あの小さな刃では背中は致命傷にならないかもしれない。利き手を持ち上げて、襟首を覆った。唯一の抵抗だった。


 目をつむった。怖い。怖い、怖い、怖い。死にたくない。死にたく、ない。全身全霊を懸けて祈った。一心に助けを乞うた。




 どれくらい経っただろう。一分か、五分か、それとも三十分だったかもしれない。ぎゅっとつむっていた目を開いた。


 何も、起こっていない。そっと身体を起こしてみた。転んだときにすりむいた両肘と両膝はひどく出血していたし、靴がないままに走ったせいで左の靴下の先が赤く濡れていたが、他はどこも痛くない。慌てて左右を見てみたが、男の姿はなかった。助かったのか。さらに身体を起こして、地面に座ってみた。呆然としたまま辺りを見てみると、赤いランプが目に入った。


「あ」


 交番。今度は確信した。助かった。私は、助かったんだ。立ち上がろうとして、尻餅をついた。今になってまた足が震えてきた。


「どうしました? 大丈夫?」


 聞こえてきた声に顔を上げれば、交番から顔を覗かせたお巡りさんと目が合った。慌てて「大丈夫です」と答えようとして、靴の脱げた左足が目に入った。どう見たって「大丈夫」な状態じゃない。


 でも、ひどい格好だけれど、生きている。私は、生きている。突然、笑いが込み上げてきた。すさまじいまでにみっともない自分の姿にも笑えたけれど、何よりさっきまで死にたいと思っていたのに、こんなになってまで必死に死から逃げた自分がおかしくて。お巡りさんは近寄ると、心配そうな、でも得体の知れないようなものを見るような目で私を見た。


「君、靴は? 鞄はどうしたの? そこの学校の子だよね」


「落としました」


「落とした?」


 半分笑ったまま答えた。お巡りさんは私から日本語を聞けたことに少しは安心したようだったが、まだ眉を顰めていた。それでもやっぱりお巡りさんはお巡りさんだった。私が立つのに手を貸してくれ、交番の中に招き入れてくれた。傷の手当をしてくれるらしく、私に傷を洗うように指示して戸棚を探っていた。 




 傷を洗い終え座ろうとして始めて、先客が居たことを知った。おじいさんだ。すごい格好の私に見向きもせず、パイプ椅子に腰掛けて宙をみつめたままニコニコ笑っている。渋い色のシャツの肩口に、なにやら白い布が縫い付けられていた。そこに何か書き込まれている。失礼かなと思いつつも目を凝らしてしまった。そして、はっとする。大きく書かれた名前の下に、住所と電話番号が奇麗な字で並んでいた。


「谷中さん、奥さんもうすぐ迎えに来るからね」


 救急箱を手に戻ってきたお巡りさんが優しい声で言ったけれど、谷中さんは何の反応も示さない。お巡りさんは気にせずに私に向き直ると、腕を出してと言った。


 傷の手当をしてもらいながら、事情を説明していたら、交番の引き戸が開けられた。優しそうな顔立ちのおばあさんが会釈した。


「こんにちは。いつもすみません。昼の支度をしていたすきに、出て行ってしまったみたいで」


 私の方をちらりと見て、谷中さんの奥さんは二度目の会釈をした。私も会釈を返した。お巡りさんも立ち上がって挨拶を返すと、谷中さんの方へ向かった。


「谷中さん、奥さん来ましたよ」


「さあ、帰りましょう」


 谷中さんは、お巡りさんの言葉には耳も貸さなかったみたいだが、奥さんの言葉には反応した。ゆっくり立ち上がって奥さんを一度見てから、まだ笑ったまま引き戸の方へゆらゆらと歩いて行った。奥さんが腕を取って引き止めて、今度は微笑んで頭を下げた。


「ありがとうございました」


「いいえ」


 谷中さんと奥さんが踵を返した。がたんと椅子の音が鳴った。私は立ち上がっていた。


「あのっ」


 声を掛けるまで、無意識だった。奥さんが振り向いてから、しまったと思う。頭の中が真っ白だった。


「え……えっと」


 言葉に詰まった私を、奥さんは少しだけ目を細めて温かく見守った。


「あの、その……だ、旦那さん、幸せそうですね」


 本当は、どうしてそんなに幸せそうなんですかと尋ねたかった。言えなかった。奥さんの笑った目が、谷中さんの目とそっくりだったから。


「ありがとう」


 奥さんは答えると、今度こそ行ってしまった。




 お巡りさんは、学校と家とに電話を掛けるために立ち上がった。私はまだ、引き戸の方をみつめていた。谷中さんと奥さんのあの優しげな目が、頭の中で重なった。


 違った。違ったんだ。生ける死者なんかじゃない。魂の抜け殻なんかじゃない。谷中さんは、谷中さんの中に、確かに居た、生きていた。そして、きっと、幸せな記憶に囲まれていたんだ。奥さんのことも忘れては居なかったんだ。奥さんの声は、谷中さんまで届いてた。


 何かに打たれたような心地だった。ぼんやりしていると、ポケットの中で携帯が震えた。取り出して、開く。メールだった。三件も来ていた。二件は友達から、一件は母から。


『大丈夫ー? 今日はゆっくり休みね』


『先生にはちゃんと言っておいたから大丈夫。おだいじに』


『学校から早退の電話があったけど、大丈夫? 昼ごはんは食べたの? 早く帰っておいでね』


 じんわり、目頭が熱くなった。ぎゅっと携帯を握り締めた。


 ものごとは、もっと単純だったのかもしれない。私はみんなを忘れたくないし、壊れたくもないし、死にたくもない。だったら男からなりふり構わず必死に逃げたように、病気とも精一杯戦ってみれば良い。勝てずとも、進行を遅らせれば良い。黙って受け入れてなんかやるものか。みんなを、忘れてなんかたまるか。


 よく考えれば、何の予兆もなく、事故に遭ってしまう人もいる。見知らぬ者に刺されてしまうこともある。そして、そのまま死んでしまう人だって居るんだ。けれども私は、そうじゃない。少なくとも、みんなとの思い出を懐かしむ時間はある。


『心配かけてごめん、お母さん。大丈夫だよ。昼はまだほとんど食べてない。色々あってちょっと遅くなるけど、なるべく早く帰るね。それから、聞いてほしいことがあるんだ』


 電話で話せるかもしれなかったが、私はお母さんにメールを送った。帰ったら、悲しませるかもしれないけれど、ちゃんとお母さんに話してみよう。それから病院に行って、どうやって病気と戦ったらいいか聞いてみよう。もしかしたら、そのうち良い治療薬ができるかもしれない。もしかしたら、治せるかもしれない。そういえば受験のときも、絶対無理だと先生に言われたけれど、頑張ってみれば何とかなった。とにかく、まだ諦めるのには早すぎる。


 窓から差し込む陽が、なんだかとても暖かかった。


 * * *


 しらないひとがたくさんいる。わたしのかおをなでているのはだれだろう。むこうでわらいかけているのはだれだろう。しらない。でも、なんでかな、なつかしいよ。




 ねえ、みんな。私はここにいる。私は、幸せだよ。

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