光の色

 薄暗いところにいた。どうやら、一面紫の中にいるらしい。何度か目を瞬かせると、紫は紫でも場所によって色味が違うのが分かってきた。目の前のちょっと濃いのは、どうやら人の形を象っている。また何度か瞬いた。厚ぼったい瞼に縁取られた、気だるそうな目が浮かび上がった。


「目が覚めたかい?」


 しわがれ声だ。どこかで聞いたことがあるような気がする。さらに数回瞬きを重ねると、その人物に見覚えがあることに気がついた。どこで見たかな。ざっと記憶を探ったが答えは出てこない。


「どちら様……え?」


 手っ取り早く聞いてみようとしたが、出てきた声に驚いた。これは私の声ではない。高すぎる。思わず喉を押さえた。指が冷たい。もう一度、恐る恐る声を出してみた。確かに声帯は震えているのに、出てくる声はやはり全く別人のものである。


「驚いたようだね。無理もない。だがまずは落ち着きなさい。名前と生年月日は?」


「いや、まずはこの状況を説明して欲しいんですけど」


 声に強烈な違和感を感じながらも、私は聞いた。不思議なのは何も声だけではない。目の前に座る人物、この全身紫の明らかに怪しい人物は一体誰で、そして私はどうしてこんな変人と対面しているのか。分からない、何も分からない。早く教えて欲しいのに紫の変人はため息で口布を揺らすと、悠長に座り直した。


「いいから答えるんだ。名前と誕生日は?」


 このままでは一向に話が進まない。だからと言って不審者に個人情報を易々と渡すわけにもいかない。私は考えた。偽名を使うこと、おそらくそれが一番の名案だった。ぱっと浮かんだ友人二人の名前と誕生月日を組み合わせてみる。


「えーっと、山本晴香です。誕生日は九月二十日」


「嘘つくんじゃないよ」


 ぴしゃりと言われる。かなり上手くやったはずだがなぜ嘘だとばれたのか。紫の変人はしかめっ面で二度目のため息をついた。組んでいた指を解き、怪しげな道具が一杯載ったテーブルの隅から一枚のカードを取って、私の前に置いた。


「あんたは川崎要。誕生日は五月十四日、年は……十九。血液型はA型、家族は両親に妹一人。間違いないね?」


 差し出されたのは私の運転免許証だった。写りが悪くて人前に出すのは極力避けていたものだ。なぜこの人が持っているのだろうか。どこかに落としたのを拾われたのか。まさか。それに、おかしい。免許証に載っていないはずの血液型や家族構成まで知られている。声がおかしくなったこともあるし、もう訳が分からない。それでも私の頭は何とか納得のいく理由を探し出そうとして孤軍奮闘している。


「あんた頭が良いらしいけど、それも考え物だね。もっと素直に言うことを聞いてくれないかい?」


「見るからに怪しい人物の言うことを素直に聞く人が、どこにいるんですか」


「仕方がないね。じゃあ、これを見てごらん。自分の目なら信じられるだろう? 驚いて落っことすんじゃないよ。高いんだからね」


 手渡されたのは、どうやら手鏡のようだ。茨のような怪しげな装飾に縁取られている。趣味が悪い。しかし、なぜ鏡を。疑問に思いながらも、とりあえず大人しく鏡を覗き込んでみた。


「え?」


 直後、驚きに鏡を取り落とした。悪趣味な鏡は紫のクロスを掛けたやっぱり悪趣味なテーブルにぶつかって、ゴトリと重い音を立てる。一体今ここで何が起こっているのか。本当に分からない。私は本格的に混乱した。


「落っことすなと言っただろう。割れたら弁償してもらうからね」


「なんで? なんで?」


 思わず立ち上がって、自分の身体を見下ろす。まず飛び込んできたのは紺のプリーツスカート。そこから視線を上げると白スカーフが、視線を下げると茶色いローファーが見えた。制服だ。それも妹の高校の。慌てて再び鏡を手に取る。指で頬を触って見たがちゃんと感触がある。鏡にも頬をぺしぺしと触る手が見える。それなのに写っている顔は妹のものだ。


「……新手のドッキリか何かですか?」


 思いつくのはそれくらいだった。そうでなければ説明がつかない。しかし紫の変人は喉をくっくと鳴らして笑った。意地悪な魔女みたい。


「ドッキリねえ。うだうだ考えたってロクな答えは出やしないんだから、大人しく私の言うことを聞きなさい。鏡に映ったのは誰だった?」


 観念した。しざるを得なかった。椅子を引いて、座り直す。驚いた所為で心臓がうるさい。質問に答える前にもう一度確認しておく。結果は同じだったけれども。


「妹です」


「名前を」


「彩音。川崎彩音です」


「うむ」


 唯一見えている目だけで満足そうに笑んで、紫の変人は私から鏡を取り上げた。小声で私が失敗するわけがないだとか、やはり私は天才だなどと自賛しながら、何かを私の前に置いた。運んできた手がどけられた瞬間、またもや驚かされる。諭吉さん。諭吉の札束だ。この厚さならおそらく百万はあるだろう。


「ごらん。これをあんたの妹が用意したんだよ。百万。まだ高校生だってのに、あんたのためにね。いい妹を持ったもんだ」


 彩音がこれを? アルバイトなんてしていなかったはずだが。一体何のためにこんな大金を。ああ、駄目だ、全く分からない。


「あの、最初から順を追って説明してくれませんか」


「最初から?」


「まずあなたが誰で……とにかく、分かりやすく説明してください。何が起こってるのかさっぱりなんです」


 私の要求に、紫の変人はもう何度目か分からないため息をついた。よほど私にうんざりしているらしいが、そんなこと知ったことではない。


「最近の若者はせっかちでいけないね。しかたない、じゃあまずは私をゆっくり見てみるといい。知っているだろう?」


 じっくり見ろと言われても、見られるところといったら目だけだ。しかしこの目は絶対にどこかで見たことがある。幾重にも重なった瞼は特徴的だ。こんな年配の女性に会うことはそう多くない。もちろん身内ではないし、大学の教授や昔の恩師でもない。とすれば、どこかの店員か何かだろうか。いや、それも違う。


「あ。神無月和江?」


 降参しようとした間際、閃いた。テレビで霊能力者としてよく出てくるあの人だ。胡散臭い衣装を着て、胡散臭い言葉を呟いて、胡散臭いパフォーマンスを芸能人とグルでやって帰っていく、あの変人。言い当てられると、神無月和江はしてやったり顔で笑んだ。目だけで、だが。


「ようやく分かったかい? そうさ、私はかの有名な霊能力者、神無月和江。今回はあんたの妹に頼まれて、あんたの魂を現世に蘇らせたのさ」


 そんな突拍子もないことを言われても、到底理解できない。やっぱり胡散臭いなあと思いながら見ていると、顔に出ていたのか、神無月和江は数回目のため息をついた。


「ここまで手の掛かる子も久しぶりだね。じゃあ、次にこれをごらん」


 今度は机の下から何かを取り出してきた。新聞だ。渡される。まずは日付を見てみた。二〇××年三月十七日。今日は何日だったか。三月なのは間違いないから、つい最近のものだろう。それにしては古びているような気もしたが、広げてみる。大きな見出しが目に飛び込んできた。


『通り魔 刺され女子大生死亡』


 痛ましい事件だ。これがどうしたと言うのだろう。いったん顔を上げると、神無月和江は先を読めと目顔で私を促してきた。仕方なく読み進める。


『十六日午後五時十八分ごろ、○○県○○市○○区の○○駅付近に』


 驚く。地元だ。こんな事件が起こったなんて記憶、どこにもない。食い入るように続きを目で追った。


『ナイフを持った男が現れた。男は通行人を次々と刺し逃走した。刺された五名のうち、同○○町の大学生川崎要さん(十九)が死亡』


 目を疑った。私が死んだ? まさか。だって今ここにこうして。いや、でもこれは妹の身体だ。なら私の身体は? そして妹はどこへ? 分からない分からない分からない。新聞を持つ手が震えた。救いを求めて、目の前の人物に縋る。


「どういう……ことですか?」


 私が出した彩音の声は、ひどく脅えていた。和江は哀れむような光を目に宿した。なぜそんな目で私を見るのか。分からない。教えて、早く教えて。でも怖い。心臓が膨らんだように大きく鳴っている。無意識に身体を抱えていた。


「いきなりだったからね、可哀想に。でもあんたは立派だった」


「立派?」


 声はかすれていた。今にも消えてしまいそう。


「川崎要、あんたは狙われた妹を守って刺された。結果あんたは死んでしまったけど、妹は助かった」


「私が……刺された? 私が、死んだ?」


 無理に声を出すと、身体の芯が鈍く痛んだ。まるで締め付けられているように。頭を抱える。銀の閃きがちらりと過ぎったが、見えないふりをした。私は知らない。私は、何も、知らない。息が乱れた。思考を閉ざして呪文のように自分に言い聞かせる。耳に狂った笑い声が蘇った。聞こえない。そんなものは聞こえない。どうしようもないくらいに身体が震えていた。とても、寒くて。


「落ち着いてお聞き。あんたは死んだけれど、まだ生きられるチャンスがある。あんたの妹がその機会を作ってくれた」


「どういう、ことですか」


「あんたの妹は、私にあんたを蘇らせるよう頼んだ。むろんそっくりそのまま生き返らせるような真似はできないが、魂を呼び戻すことならできる。見合う器があれば定着させることもね。川崎彩音の身体はあんたの魂にぴったりだった」


「どういう、ことですか」


「しっかりおし。今から重要な話をするからよく聞くんだよ。あんたは今、川崎彩音の代わりにその身体の中に居る。今日は二〇××年の三月十五日。明日の日没までに再び私のところへ来たら、その身体に彩音の魂を戻してあげよう。期限を過ぎたら頼みを聞き入れることはできない。もう一度百万を持ってきたとしてもね」


「どういう、ことですか」


「彩音は今、あんたの代わりに死んでいる。明日までに私のところに来なければ彩音は永久に死んだままで、代わりにあんたの魂が川崎彩音を生きることになる。そういうことさ」


 分からない。全然分からない。どうしてこんなことになっている? ああ、そうか、これは夢なんだ。なんてひどい夢。膝に爪を立てる。痛い。違う、違うんだ、これは夢。夢だから痛くないはずなんだ。指先に力を加えるとさらに爪が食い込んで、薄っすらと血が滲んだ。痛い。夢では、ない。頭の中でまた銀が、今度は赤に塗れてきらめいた。違う違う違う。頭を振ると髪が頬を叩いた。混乱を極めた脳が端からボロボロと崩れていくような気がした。駄目だ、しっかりしないと。深呼吸する。この身体は、彩音のもの。私のものじゃない。


「もう、いいです」


「いい?」


「これは彩音の身体なんでしょう? 私は死んだのなら、死んだままでいいです。もういい。彩音に返してあげてください」


 怖い。もう怖い。楽になりたい。解き放たれたい。和江は哀れみのまなざしで私を見て、それから身を乗り出す。左腕が取られた。顔の前まで持ち上げられる。


「今川崎彩音の魂を戻したら、あの子は死ぬよ」


 セーラー服の袖が捲くられる。露になった手首に、赤い筋がいくつも走っていた。呼吸を忘れる。リストカットの痕。こんなもの、なかった。なかったはずだった。なんで。彩音が自分で? 心臓が捩れる。もう、分からない。頭が軋んだ。どうしてこんなことになっている? なぜこんな目に遭わなければならない? どうか、夢にして。祈りは届かない。


「よく考えるといい。死ぬくらいなら、あんたが生きてやったほうがいいだろう」


 和江は無表情で、淡々と言った。判決を言い渡す裁判官さながらに。


 ◇


 何も考えられなかった。和江が呼んでくれたタクシーの中で、私はただぼんやりと景色を見ていた。喉から下が一杯に膨らんでしまって、破裂してしまいそうなくらいに息苦しい。泣くか叫ぶかすれば楽になれたかもしれないけれど、そんな気力はどこにも残されていなかった。左手首に触れて、私は小さく呟いた。彩音。俯くと、首に掛かっていたものに気がついた。ネックレス? ずいぶん昔、お揃いで買ったもらったプリズムのネックレスだ。窓からの光を受けて、制服に七色を映している。私はどこにやったっけ? 彩音はずっと持っていたのか。


 タクシーには、例の駅の前で降ろされた。和江の払った金額では足りなくなったらしい。現場を見ると嫌でも記憶は蘇った。感情がすり減ってしまったのか、既に恐怖も憎悪も怒りも感じなかった。映像だけが頭の中で繰り返される。ふらふらと家を目指して歩き始めると、すぐそこの路肩に花束がいくつか供えられていた。まだ冷たさの残る風に吹き晒され、凍えるように揺れている。その様をじっと佇んでみつめる人物がいた。あれは。


「周!」


 一瞬、全てを忘れて叫んだ。叫んで、耳に聞こえた声に再び現実を思い知らされる。駆け寄りかけた足を止めた。止めるしかなかった。しかし周は弾かれたように振り返って、忙しなく目を動かして誰かを探した。真剣な目で周囲を何度も何度も探して、探し物が見つからないことを悟ると、この距離からみても分かるほどに落胆した。見えた顔はひどくやつれている。ああ、周、周。私はここにいるのに。ただ見ていることに耐えられなくなる。理性の制止を振り切って、足は勝手に動いた。


「しゅ、周、さん」


 周は私を見ると首を傾げた。彩音と周は初対面のはずだった。


「川崎要……の妹です。彩音と言います」


「ああ。こんにちは」


 疲れ果てたような目だ。記憶の中の姿とは違いすぎて、ずきりと胸が痛んだ。


「……姉のために?」


「もう一年になるんだよな。一年も経つのに……気付けばここに立ってる」


 周の目が遠くなる。小さく動かされた唇が、かなめ、と音のない言葉を作った。周、周。触れたい。抱き寄せられたい。こんなに近くにいるのに。周、ああ、周。私よ。私は要なの。気付いて、周。


 ◇


 一年経っても、私が死んでも、家は何にも変わっていなかった。靴を脱いで上がる。まだ父も母も帰っていない。静かだった。階段を上る。かつて私のものであった部屋。扉を開いた。机もベッドも本棚も、全てそのまま残されていた。けれども綺麗になりすぎたその部屋には、温度が無かった。机の上のカレンダーを手に取る。二〇××年、三月。空気と一緒に時間も凍り付いている。それが妙に生々しくて、ああ本当なんだとやっと実感した。実感したら、全身から力が失せた。へたり込みながら、私は泣いた。ようやく泣けた。泣いても悲しいだけで、ちっとも楽にはならない。左手で涙を拭うと傷ついた彩音の手首が見えて、また悲しくなって、泣いた。


 私がやったことは一体なんだったのか。十九年間生きても、何一つ残せていやしない。私は、一体、何のために生きたのか。考えれば考えるほど虚しかった。


 ◇


『お姉ちゃんへ


 勝手なことしてごめん。お姉ちゃんに助けてもらったのに、死のうとしたりしてごめん。毎日あの日の夢を見る。駅に近づくと笑いながらお姉ちゃんを刺す犯人を思い出す。血まみれのお姉ちゃんが忘れられない。辛すぎて耐えられなかった。弱くてごめん。


 お父さんもお母さんも、お姉ちゃんが居なくなったことを悲しんでる。毎日駅に来ているあの人は、お姉ちゃんが前に言ってた彼氏かな。お姉ちゃんの友達もよく現場に来てるよ。みんな、お姉ちゃんが居なくなったことを信じられないでいる。お姉ちゃんに帰ってきてほしいって思ってる。彩音もそう。お姉ちゃんがいなくなるなんて考えられなかった。今も考えられない。


 お姉ちゃんより彩音が死ねば良かったのにって、いつも思う。お父さんもお母さんもきっとそう思ってる。お姉ちゃんの代わりにお姉ちゃんみたいになろうと思ったけど、やっぱり彩音には無理だった。何をやってもお姉ちゃんには敵わない。


 なんでお姉ちゃんが死ななくちゃいけなかったのか分からない。犯人は捕まったけど、そんなの関係ないよ。許せない。お姉ちゃんを返してほしかった。どうしてもお姉ちゃんに会いたかった。死ねば会えるかなって思った。だけど、死ぬくらいならお姉ちゃんに生きてほしい。勝手なことをしてごめん。でも、みんなお姉ちゃんに会いたがってる。お姉ちゃんと生きたいって思ってるよ。


 ごめんね、本当にごめんなさい。


 彩音』


 妹の部屋の机の上に、その手紙はあった。間違いなく彩音の筆跡だった。彩音。左手首に触れる。死にたくなかった。死にたくなんて、なかった。出来ることなら生きたい。でもこれは彩音の身体だ。私の身体はもうない。彩音に返されるべきもの。だけど、彩音は生きることが辛いと言う。耐えられないと言う。


 私は、どうしたらいいんだろう。


 ◇


 その日も二人はぶつかり合ったらしかった。玄関扉を開けた瞬間に私は不穏な空気を察知する。リビングが静かだ。食事の匂いがしない。ただいまと言ったのに、おかえりの声が返ってこない。目を遣ると、リビングとダイニングそれぞれについている灯りのうちダイニングの方が消えていた。腕時計を見た。午後七時半。普段なら二人で先に食事をしている時間だ。予感は確信に変わった。ため息を堪えて、今さらだが足音を忍ばせながら二階に上がった。自室を通り過ぎて、妹の部屋の前で立ち止まる。電気が消えていた。ああ、やっぱり。ノックを二つ。返事はない。扉を開く。


「入るよ」


 衝突の後はだいたい、母はリビングで一人缶ビールを飲み、彩音は自室で布団にくるまる。この日も例に漏れず、妹は布団の中でふて腐れていた。こういうとき母は食事を作ることを放棄するから、今日もやっぱり何も食べていないのだろう。彩音はちょっとだけ顔を持ち上げて私を確認すると、ぶっきらぼうに聞いてきた。


「何?」


「ご飯は?」


「いらない」


 そっけなく答えて、寝返りを打つ。強がりもいつものことだ。仕方がないから私もいつもの行動パターンに入る。Uターンして階段を降り、玄関から外へ出た。冬の寒空の下、片道五分ちょっとのコンビニを目指して歩く。何事もなかったら今頃は美味しいご飯にありつけていただろうになあ、と頭の中で愚痴を零しながら。いくらアルバイトをしているとは言っても、学生にとって二人分の食事代は馬鹿にならない。でも一通り零し終えて満足した後には、別のことを考える。今日は何を買って帰ろう。この前は濃厚チーズのカルボナーラにしたから、今日はミネストローネ風海鮮パスタにしようかな。新商品が発売されているならそれも見てみよう。飲み物は何にしようか。リプトンのミルクティーか、小岩井のカフェオレでもいい。そうだ、サラダも買おう。彩音の好きなツナとコーン入りサラダ。ドレッシングは私の好みに合わせたっていいよね。そうだ、お菓子も買って帰ろう。ちょっと奮発して高めのプリンを二つ買おうかな。この前美味しいって絶賛していたから。


 たいてい帰りは行きより速く歩くことになる。二度目の帰宅。今度も出来るだけそうっと階段を上がった。母はきっと分かっているだろうけれど、コンビニ袋の音を立てるのはなんとなく気まずいのだ。いつも母は自分で適当に何かを作って食べているから、気に病むことはないのだけれども。


「彩音、入るよ」


 二回目はノックはしない。入るなり電気をつけると彩音は眩しそうに布団を持ち上げた。


「いらないって言ったのに」


「せっかく買ってきたんだから、食べてよ」


 言いながら折りたたみ式テーブルを立てて、その上に食事を並べる。全部のラップ包装を破り終える頃に、いつも彩音は起き上がってくる。この日も一緒。まだ光に慣れない目を必死に開いて、私を見る。怒っているときよりも泣いているときの方が多くて、やっぱり今日も泣いている方だった。


「なんでそんなに優しいの?」


「おねーちゃんだから」


 笑って答えながら、私はいつも心を痛めていた。母は私贔屓だと自覚していた。本人にも分かるくらいなのだから、きっと相当だっただろう。昔から割と色々出来た私と、不器用だった妹。母は私を褒める代わりに妹を貶した。母は妹を通して同じく不器用だった昔の自分を貶めていたのだろうけれど、本人にその自覚はおそらくない。最も彩音の方が悪いことも多々ある。言ってはならない一言を口にするし、守らなければならないことを破ったりもする。しかし頻度は違っても、私にだってそういうことはあった。なのに怒られるのはいつも彩音ばかり。時々は理不尽な理由だったりもする。妹だってそういうことが重なると反発したくなるだろう。母が正しいときも、もう正しいのか正しくないのか分からなくなって、つい反発する。反発されれば母も良くは思わない。悪循環だ。


 お互い冷静になれればいいのだけれど、生憎二人とも感情型だった。普段そういう話を持ちかけてみると、そのときはうんうんと頷いてくれても、結局はまた同じことが起こる。喧嘩の最中に割って入るのはもっての外で、火に油を注ぐ結果にしかならない。だから喧嘩が収まるまで待って、その後のケアに集中するのが一番だという結論に至った。けれども、そこに居合わせるたび罪悪感が募っていく。自分だけいつも都合のいい場所に居た。彩音のために食べ物を買って来るのも、本当は罪滅ぼしのためだったのかもしれない。安全地帯で常に一人だけいい人で居ようとする自分が、嫌で嫌で仕方なくなることがあった。彩音に感謝されたときは、特に。


 それでも彩音は笑ってくれる。ただのコンビニ商品なのに、美味しい美味しいと言って食べてくれるし、お姉ちゃんありがとうって言ったり、お姉ちゃんがいてくれて良かったなんて言ってくれたりするときもあった。彩音は考えたことがなかったのだろうか。私ががいなければと。いつも疑問だった。小さいときから両親が共働きだった所為か、私たち姉妹は他の家の兄弟よりも仲がよかったとは思う。年だって二つしか離れていないから、今だって――私が死ぬ前だって――いろんな話をしたり互いに相談に乗り合ったりもした。外では言えないような話だってした。私の中で彩音は確かに特別な位置にいた。絶対に必要な存在の一つだった。けれどももしも立場が逆だったとしたら、どうだっただろう。私なら姉を恨まないでいられる自信がない。もしかしたら、いなければいいのにと願ってしまうかもしれない。実際、私が存在しなければ母と彩音は上手くやっていただろうから。



 だから、妹の机の引き出しからそのときに――私が死ぬ前、最後に彩音と母が衝突したあの日に――私が買ってきたコンビニの食事のセットが一式、洗われて保管されていたのを見つけたときは涙が止まらなくなった。スパゲッティーとサラダのトレーとプラスチックのフォークが、あれから一年経った今も綺麗に残されている。こんなものを置いていてくれるほどに、彩音が私のことを好いていてくれたなんて知らなかった。いや。首を振る。本当は分かっていた。不器用なあの子が学校に通いながらのアルバイトで百万もの大金を稼いで、そして自分と引き換えに私を連れ戻してくれた、少なくともその時点で分かっていたはずだった。ごめん、彩音、ごめん。疑ったりしてごめん。死んだりして、ごめん。ごめんね、彩音。ごめんなさい。


 私は、こんなことをしている場合じゃない。彩音に身体を返さなくちゃいけない。でも、このまま返したら彩音は死んでしまう。どうすれば彩音は生きてくれるだろう。そのために私は、何ができるだろう。


 ◇


 八時半を回った頃、母は帰ってきた。落ち窪んだ目。母もまた変わってしまっていた。


「ご飯、これ」


 ビニール袋を手渡される。中を見ると、出来合いの弁当が入っていた。冷たい。母は料理好きだったはずなのに。いつも美味しいご飯を作ってくれていたのに。


「お母さん、疲れてるから。お風呂入って先に寝るわね。それ、お父さんのも入ってるから冷蔵庫に入れておいて」


「お母さん、彩音は」


 左手首を握る。これに、母は気付いているのだろうか。知っていて欲しいと願いながら見上げたが、母はバレッタを外して髪を下ろすと、背中を向けてしまった。


「お母さん」


「明日は要の命日ね。お墓参りに行かなきゃ」


 母の声が沈んで、震えた。喉を絞められる心地がした。もう呼べなかった。



 父が帰ってきたのは十時前。一年しか経っていないはずなのに、髪は真っ白に変わっていた。


「彩音か」


 父はリビングが明るいことに驚いているようだった。鞄を置いてネクタイを緩め、ソファに座りこむ。ひどく疲れているようだった。


「明日は十六日か」


 いつもみたいにビールを開けたりテレビを点けたりはせず、父はただ黙って虚空を睨んでいる。


「要のところに、行かないとな」


 ぽつりと呟いた父は、とても老けて見えた。手首をぎゅっと握った。痛かった。でもきっと、彩音はもっとずっと痛かったはずだ。私があんな死にかたをしたから、私にまつわる話を聞くたび自分を責めたかもしれない。



 私は一体なんだったんだろう。彩音、周、お母さん、お父さん。ごめんね。私はみんなに悲しみを刻みつけてしまった。一年経った今も残るくらい、大きな悲しみを。私が生きて、それから死んで、残せたものはたったそれだけだ。なんて迷惑な生き様。私は、私とは、一体、なんだったんだろう。


 もう一度、手首を握った。彩音。彩音は死んじゃだめだ。私が彩音を生かしてみせる。


 ◇


 車の中はずっと静かだった。運転席に父、助手席に母、その後ろに彩音。運転席の後ろは空いている。いつもの私の席だ。


 両親は私のために新しくお墓を作ってくれたらしい。こまめに訪れてくれているらしく、綺麗だった。墓石に刻まれた自分の名前を睨む。怒りが湧き上がってきた。壊してしまいたい。私の所為でみんなが苦しむ。いなくなってしまった私のために、もう誰も心を痛めないで欲しい。お父さんも、お母さんも、彩音も。周も、友達も、みんな。


 ◇


「彩音」


 帰りの車の中。全員無言のまま半分くらい家まで近づいたとき、父がそっと彩音を呼んだ。姿勢を正す。私もそっと声を出した。


「なに?」


 父は少しの間沈黙してから、答えた。バックミラーに、辛そうに眉を寄せた父の顔が映っている。


「お前の手首、自分でやったのか」


 心臓が跳ねた。無意識に右手を左手首にやっていた。このとき私はどんな顔をしていただろう。助手席で母がはっと息を飲んで、脅えたように目を伏せる。知っていたのか。


「わ、私」


 不意打ち過ぎて何の答えも用意していなかった。心臓がうるさくて、答え探しに集中できない。赤信号で車が止まった。沈黙が肌に痛い。呼吸を意識する。父が、ゆっくりと口を開いた。


「前にも言っただろう。要が死んだのはおまえのせいじゃない。お前にまで死なれたら、父さんと母さんは」


 けたたましいクラクションが、後ろから襲ってきた。信号が青になっていた。父は慌ててアクセルを踏む。窓の外の景色が飛んでいく。


「彩音」


 今度の声は助手席から。母が手で涙を拭うのが見えた。袖が涙で溶けたファンデーションで汚れていた。


「ごめんね。彩音の方が辛かったはずなのに、ごめんね。お母さん……馬鹿だった。彩音が苦しんでるのも知らずに、自分のことばかり」


 後には嗚咽が続いた。お父さん、お母さん。ひとりでに涙があふれた。彩音が一緒に泣いているのかもしれなかった。


「ごめんね」


 喉の奥から、ようやく声を絞り出した。全部全部私のせいだった。でも。


「ありがとう」


 彩音を守ってあげて。お父さん、お母さん。一緒に生きられない私の代わりに、彩音を守ってあげて。


 ◇


 私がいなくても、彩音は大丈夫だ。お父さんとお母さんがいる。和江に連絡しよう。彩音の携帯に手を延ばしたとき、机の横に立てかけられているものが目に付いた。キャンバス? 持ち上げてみる。深い緑が目に飛び込んでくる。森の中央で熊――というよりかはテディベアと表現した方が正しいだろう――かわいらしいテディベアの親子が、これは眠っている? のだろうか。とても上手く描けているが全体的に色彩が暗いせいで、むしろ死んでいるようにさえ見えるのだが、ふと、思い出した映像があった。机の上のプリズムのネックレスを手に取る。


 あれは何歳のときだっただろう。二人とも小学生だったのは覚えているけれど、ちゃんとした年齢は覚えてない。もう売り払うから最後においでと呼ばれた親類の別荘。途中で買ってもらったお揃いのプリズムのペンダントを首から下げて、私と彩音は二人で森の中を駆け回っていた。人里離れた山の中の空気はすごくきれいで、肌を触る風がとても心地良かったのを覚えている。走って走ってようやくたどり着いた木漏れ日広場――私たちはそう名づけた――で、ちっちゃなテディベアの親子に会った。本当はテディベアではなくてタヌキだったらしいけど、私たちにはテディベアに見えてずっとそう呼んでいた。かわいらしく寄り添って眠るテディベアたちを、二人で息を潜めてじっと見つめた。気持ちよさそうにすやすや眠る様子がすごく印象的で、二人して頭の中に残ったらしく、その年の夏休みの絵日記は一緒に森の中で眠るテディベアを描いた。彩音は絵が昔から上手くて、年が離れているのに出来上がった絵はむしろ彩音の方が上手かったかもれない。木、テディベア、私たち。完成したはずの絵には何かが足りなくて、二人で一生懸命考えた。確か、光だって思いついたのは彩音のほうだったかな。その後私たちはまた頭を悩ませた。光の色が分からなくて。「黄色?」「なんかちがう」「白?」「ちがう」「んー」二人でがんばって考えたけど分からなくて、結局飽きて人形遊びを始めたとき、首にかけていたネックレスが目に付いた。窓から差し込んだ光がプリズムを照らして、七色に輝いていて。「ね、彩音彩音!」急いで彩音を呼んだ。それから二人で机に戻って、一緒に虹みたいな光を絵の中に描き込んだ。帰ってきた絵日記には先生に『虹も出たの?』なんて書かれちゃったけど、あれから私の中で光は虹色で、誰になんと言われようとそう描き続けた。さすがに中学生になってからは恥ずかしくてできなかったけれど、今でも私の中で光は七色だ。彩音も一緒かな。そうだといいな。


 思い立って、絵の具を探す。椅子の下に積まれてあったがこれは油絵の道具だ。私には扱えない。もっと探すと、油性のカラーペンセットを見つけた。最初に赤を手に取る。キャンバスの上面真ん中から斜め下へ、一本、二本、三本、四本。赤のラインができた。同じことを橙、黄、緑、藍がなかったので青を水色に藍を青にして、最後に紫のラインを引いた。キャンバスに虹が出来た。私たちの光の色。


 ねえ、彩音、楽しかったよね。一緒に生きて、楽しかったよね。喧嘩もたくさんしたし、最後だってあんな別れかたになっちゃったけど、楽しかったことのほうがずっと多かったよ。私がいないことを悲しまないでほしい。思い出すならあのころみたいな楽しいときを思い出してほしい。伝わるかな。伝わるよね。彩音、私後悔してないよ。私のたった一人の妹。ずっと一緒に生きてきた妹。彩音を守れたんだから、私、何も後悔してない。だから彩音も悔いないで。


 ◇


 和江に指定された場所は、海浜公園の展望台だった。子どもの頃よく家族四人で遊びに来た。百円を入れて使える双眼鏡が並んでいる。あの頃は身長が足りなくて、お父さんに抱っこしてもらいながら水平線を走る船を見た。彩音が私も私もってねだりながら私のスカートを引っ張ったせいで、大衆の前でパンツを晒してしまったこともあったっけ。懐かしいなあ。何年前だろう。もう十年以上も前の話だ。


 夕暮れだった。小さい頃は家に帰らなきゃならないこの時間が大嫌いだった。大学生になってからはバイトの終わる時間だったから好きになった。今はどうだろう。この世の見納めになる。彩音。やっぱり寂しいや。なんで人は、死ななければならないんだろう。私は答えを見つける前に死んでしまった。彩音は答えを見つけられるかな。



「来たね」


 背中の方から和江の声が聞こえてきた。オレンジの海は穏やかで、遠くに一隻だけ船が見えた。船はゆっくりゆっくり地平線を行く。知らないうちに、涙を流していた。


「あんたなら来るだろうって思ってたよ」


 振り向く。やっぱり怪しげな服装の和江は、しかしほのかに笑んでいた。優しい笑みだった。また新しい涙が溢れた。


「私……私は、生きて、何かを残せたのかな」


 未練はたくさんあったけれど、心残りはこれだけだった。私は生きて、死んで、悲しみ以外の何かを誰かに残すことができたのだろうか。和江は笑んだ。笑んで、そして、和江の目からも涙が零れた。


「あんたは立派だった。だからこそみんなあんたを思って涙したんだ。みんな、悲しみが癒えるまでは辛いだろう。だけど、それからあんたは支えになる。みんなの中で、大きな支えにね」


 嗚咽を堪える。瞬くと、ぱたぱたとタイルに涙が散った。本当は生きたかった。皆と一緒に生きていたかった。でも、私は、後悔はしない。あのとき彩音を庇ったことを、絶対に悔やんだりなんかしない。彩音が生きてくれていて良かった。本当に、良かった。


「ありがとう、和江さん」


「妹に何か伝えることは?」


 首を振る。和江は目を細めて、頷いた。風が涙を乾かす。身体が少し、軽くなった。


「目をつむって。あとは私が上手くやるから。痛くはないし、怖くもない。ただ目をつむっているだけでいい」


 頷く。美しい朱色、綺麗な世界。首もとのネックレスに手を延ばした。かざしてみる。空は赤くても、光はやっぱり七色だった。瞳に焼きつける。彩音はこれからもこの光の中で生きていく。ゆっくりゆっくり、目を閉じた。船の汽笛が耳に優しく響く。友達の顔を、一人ひとり思った。周を思った。父を思った。母を思った。みんなみんな、私の大好きなひと。みんなみんな、生きて。そして、彩音。


 彩音、何も残さずにいくよ。本当は助けてあげたい。頭を撫でて、大丈夫だよって言ってあげたい。あのちょっと豪華なプリンを一緒に食べながら、並んで座って、悩みを聞いてあげたい。一緒に生きられればどんなに良かったかって思うよ。でも、もうできない。だから私は何も言わないでいく。


 彩音。彩音はこれから先も生きていかなきゃならない。死にたくたって、生きていかなくちゃならない。まだ辛いかもしれない。だけど彩音、もう一年も経った。辛かったけれど、彩音はあれから一年、生きることができた。もうちょっとがんばって生きてみて。そしたらきっと、少しずつ少しずつ乗り越えられる。私のいない世界に馴染むことができる。私は怒らないよ。嘆きもしない。それどころか、嬉しい。寂しくないって言ったら嘘になるけど、それでもやっぱり嬉しいよ。


 天国ってあるのかな。一回いったはずなのに、何も覚えてない。いつかしわしわになった彩音を見て笑うために、そこで待ってるよ。あのプリンはあるかな。あったらそれも用意しておくから。それとももしかして和菓子の方がいいのかな。え? だってなんかおばあちゃんのイメージだから、和菓子。


 彩音、がんばって生きて。大丈夫。がんばって。がんばって。


 じゃあ、もういくよ。考えてみたら彩音にばいばいなんて言うの、初めてかもしれない。いつも同じ場所に帰ってきていたもんね。


 ばいばい、彩音、ばいばい。また、会おうね。



 最後に思った彩音の顔は、虹色の光の中で、泣きながら、それでも笑っていた。

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