【短編集】はてなしの空

If

現代ドラマ

夜明けにワルツを

 まるで別世界。県内有数の高級居住地だとは知っていたけれど、ここまで違うとは。一軒一軒の敷地が信じられないくらいに広いし、建物の大きさだって、比べ物にならない。


 本当に、ここで合っているのだろうか。下りる停留所を間違ったのではないか。祖母直筆の地図をまた広げた。花西三丁目下車、交差点右直進、三つ目の角左。やっぱり間違っていない。あとは五つ目の列に入って、『高町』の表札を探すだけだ。いや、『TAKAMACHI』かな。ここの表札は、ローマ字のほうが圧倒的に多いから。


 生まれてから、伯母に会ったのはたった二回だけだ。二歳のときと、二年前。両方ともお葬式だった。一回目のときは全然覚えていない。二回目の父のときも、伯母についての記憶はない。なにしろ姿すら知らないものだから、すぐ傍に居たのだとしても、伯母その人と分らなかっただろう。あのときの私は憔悴しきっていて、半分錯乱しているような状態だったから、きちんと会わなくてよかったのかもしれないけれど。私が持っている伯母の情報は、お中元やお歳暮でやたらと豪華なお菓子を贈ってくれたり、入学祝や卒業祝をすごく弾んでくれたりする、気前の良い人ということだけだった。向こうだって似たようなものだろう。知っているのは私のお礼の手紙の字と、歳だけなはず。もしかしたら二年前の姿を知っているかもしれないけれど、たぶんその程度だ。


 母も祖母も、私が伯母と会うことを極力避けているようだった。話をさせることすらさせなかった。お礼だって電話にすればいいのに、わざわざ手紙を書かせたし、お祝いをもらうときも、いつも母か祖母を通じてだった。ずっと伯母には嫌われているのだと思っていた。だけども違ったらしい。嫌っているのなら、わざわざ私を引き取ってくれたりするはずがない。でも、それならどうしてこんなに疎遠な関係だったんだろう。



 いつの間にか五つ目の列まで来ていた。折れる。小型のスーツケースをころころ転がして歩きながら、表札を探した。『SHIRAISHI』、『TANAKA』、『新垣』ときて、ようやく『TAKAMACHI』を見つけた。


 時間を確認する。約束の六時より八分早かった。まだ呼び鈴は押せない。出際の祖母の忠告が蘇る。


「いいかい? 絶対に時間ぴったりに呼び鈴を鳴らすんだよ。遅れても早すぎても駄目だからね。六時零分ぴったりに、だよ。分かったね?」


 胃に腫瘍が見つかって入院せざるを得なくなった祖母は、私を送り出すときにそう言った。電車の時間が迫っていて理由を尋ねることはできなかったけれど、守った方が賢明だろう。祖母の表情は真剣そのものだった。伯母は時間に厳しい人なんだろうか。八分、四百八十秒。一人で突っ立って過ごすには少し長すぎる気がしたが、問題ない。辺りを囲む家々は、もう芸術品とさえ言ってしまえるような壮麗さだ、じっくり鑑賞するのも悪くない。


 『TAKAMACHI』の家は、他に負けず劣らず豪勢な家だった。円錐の帽子を載せた円柱が高く伸び、両脇を挟むようにして横長の直方体が立っている。全ての壁が煉瓦造りで、等間隔に設えられた窓はかわいらしく、一つひとつに取り付けられた柵も洒落ている。三階建てなのだろうことは解ったが、部屋の数は見当がつかない。あの円柱の内側は一体どうなっているんだろう。想像すると心が躍った。今日から私は、こんな豪邸に住むのだ。


 もちろん、浮かれてばかりはいられない。伯母の姿も人柄も全く知らないのだ。当然、伯父のことも。もしかしたら、二人ともとてつもなく気難しい人かもしれない。今は嫌われていなくても、後々嫌われてしまうことだってあるかもしれない。礼儀正しく、愛想よく。多少無理をしてでも、良い子を演じなければならない。養ってもらうのだから、それぐらいは当然だ。



 時間は思いのほか早く進んだ。もう一分前になっている。インターホンの前まで行く。六時ちょうどになって、十秒経ったら押そう。腕時計の正確さには自信があった。今朝テレビに表示されていた時計でちゃんと直してきたのだ。


 ああ、今になって緊張してきた。心臓がどきどきを通り越して、ばくばくし始めている。最初に何て言おう? やっぱり挨拶かな。こんばんは。それから? 名前を言おうか? いや、初対面じゃないんだからそれはおかしいか。お邪魔します、も忘れないようにしなくては。それで、ちゃんと靴は揃えないといけないし、そう、お世話になりますとも言った方がいいかな。うん、それで行こう。こんばんは、お邪魔します、今日からお世話になります。笑顔を添えたら完璧だ。


 六時十秒前。ボタンに人差し指を添えた。反対側の手で髪を整える。六時ちょうど。深呼吸をした。さあ、五秒前、四秒、三、二、一。


 リリン、カラン。鳴った音はハンドベルの和音みたいだった。綺麗だ。足を揃えて気をつけの姿勢を取る。私は固唾を呑んで大きな扉を見守った。ドアノブが下ろされる。さあ、笑顔、笑顔。


「いらっしゃい」


 かちゃっと鳴って開いた扉の奥から、細身の女の人が出てきた。高価そうな淡い色の花柄ワンピースを着ている。少し赤の入った茶色に髪を染め、結い上げている。顔は整ってはいないけれど、崩れてもいない。目元が母にそっくりだ。向かい合うのは初めて。けれどもさっきまでの震えるような緊張は、ちょっと緩まった。伯母さんは笑顔だったから。


「こんばんは。お世話になります」


 こちらも笑顔で言ってから、頭を下げた。伯母さんは一層にっこりすると、出てきて門を開けてくれた。どうぞと言われる。お邪魔しますと答えて、敷地の中へ入った。私が引いていたスーツケースを、もう一人家から出てきた人が代わりに持ってくれる。


「家政婦の中野さんよ」


「こんばんは」


 中野さんは伯母さんとは対照的でふくよかだった。この人も笑顔だ。随分気が楽になった。二人とも良い人そうだ。良い暮らしができるかもしれない。現金かもしれないけれど、早速そんな予感がしてきた。


「ありがとうございます」


「いいえ」


 促されるがままに家の中へと入る。玄関もやたらと豪華だ。天井からシャンデリアがぶら下がっている。ちゃんと靴を揃えて、なぜか良い匂いのする下駄箱にしまってから、上がらせてもらった。中野さんが三階に用意されているらしい私の部屋に荷物を持って上がってくれ、身軽になった私は伯母さんにリビングへと通された。壁が遠い、と思う。それほどに広い部屋だった。空間は役割ごとに三つに分けられているようで、見るからに高価な家具が分類されて置かれている。ひとつは食事用。テーブルの上には、美味しそうな料理が一杯並んでいた。もうひとつは休憩用。大きな液晶のテレビと、淡いピンクのソファー、スタンド、観葉植物なんかが置かれている。最後のひとつは娯楽用か。壁には絵画が飾られ、蓄音機と飾り棚とが置かれていて、それから。


「中野さんが戻ってきたら皆で一緒に食べましょ。好き嫌いはあるかしら?」


「いえ、特に。……あの」


「なあに?」


「伯母さん、ピアノ弾かれるんですか?」


 娯楽用スペースの中央には、白いグランドピアノが置かれていた。立派なピアノだ。たいそう高価なのだろう。どんな音が出るんだろうか。


「違うのよ」


 伯母さんは小さく笑うと、鍵盤の蓋を開け、その右下の辺りを触った。途端、独りでに鍵盤が動き出す。ショパンの幻想即興曲だ。


「聞くのは好きなんだけどね、弾けないのよ。あなたのお母さんと一緒に習っていたんだけど、私には才能がなかったみたい。見ての通り、これは自動演奏装置付きのピアノよ。もちろん、普通に弾くこともできるけど」


 ピアノは難易度の高い曲を、淡々と弾いている。演奏装置のついたピアノは前に一度見たことがあったけれど、グランドピアノは初めてだった。音は澄んでいて、すらすら軽やかに流れていく。


「そうだ、弾いてみる? お母さんからピアノ、教わってない?」


「……止めちゃったんです」


 思わず表情を陰らせてしまった私を見て、伯母さんは心配そうな顔をした。


「聞いてはいけないことだったかしら。ごめんなさいね」


 慌てて微笑みを戻した。


「いいえ。気にしないでください」


 ちょっと気まずくなってしまったところに、中野さんは最高のタイミングで戻ってきた。伯母さんもぱっと表情を変えると、食事にしましょうと言って私をテーブルへ促した。


 母のことにも、ピアノのことにも触れない談笑をしながら、私たちは食事を楽しんだ。その間中ピアノは絶え間なく、さまざまな曲を引き続けた。シューベルトのアヴェ・マリア、バダルジェフスカの乙女の祈り、メンデルスゾーンの春の歌、リストのラ・カンパネラ、ベートーベンの月光の曲。どれもとても綺麗だった。常人には弾けない完璧な上手さがあった。だけど、いや、だからこそ逆に、何にも残らない。何となく物悲しいような、虚しいような旋律は、耳を滑って流れていった。


 順調すぎるほど順調な始まり。豪華な家に美味しい食事、素敵な部屋、親切な家政婦さんに、優しげな伯母さん。さっき帰ってきた伯父さんも、とても良い人だ。しかし、気になることがあった。嫌われているでもなく、気難しいわけでもないのに、母や祖母はどうして私を高町夫妻から遠ざけたがったんだろう。気のせいか? いや、気のせいなんかじゃない。二人の態度は明らかに不自然だった。私の知らない何かがある。たとえば……そう、絶縁したとか? 駆け落ちか何かで、伯母さんが勘当されたとか。いや、ない。勘当されていたなら、祖母は私のことを頼んだりするはずがない。じゃあ、どうして? 駄目だ。さっぱり分からない。


 ふと、部屋に案内してもらったとき、中野さんに言われたことを思い出した。


「美紗ちゃん、明日は八時に朝ご飯だから。それまでにきちんと身支度して降りてきてね。できるだけ八時ぴったりにリビングに着くようにしてくれる?」


「八時零分ぴったりに、ですか?」


「そう。お願いね」


 祖母は六時ちょうどに着くようにと言ったし、中野さんは八時ぴったりに降りて来いと言った。そう言えば、伯父さんが帰ってきたのも九時ぴったりだったっけ。お風呂に入るよう言われたのは十時ごろ。もしかしたらちょうどだったかもしれない。高町夫妻は、極度に時間に几帳面なのかな。分単位の規則正しい生活を心がけているとか。でも、なぜ? 健康のために? 性格? いやいや、いくらなんでもやりすぎだ。


 ふかふかで雲みたいに柔らかい布団に包まれていると、睡魔がやってきた。ああ、もう何でも良いや。眠たい。思考の主導権が睡魔に奪われる。


 眠れ眠れと囁く声に紛れて、ピアノの旋律が小さく響く。これは子犬のワルツの旋律だ。鮮やかな緑の上を、艶やかな毛並みの子犬が楽しそうに踊ってる。その隣で足をもつれさせた子犬が、惨めに転がっていた。私の子犬は、遂に踊れないままだった——


 高町家での生活は最初と変わらず、順調だった。高校まで二時間近くかかるのと、分刻みの異常なまでに規則正しい生活を省けば、快適そのものといえた。だが、前者はともかく後者には相当な努力が必要だった。だいたい、人間にそこまで精密な生活ができるわけがない。


 一度だけ、中野さんに聞いたことがあった。どうしてこんなに規則正しい生活をするんですか、と。中野さんは困ったように笑って、答えをはぐらかした。その笑みに、暗に境界線を示された気がした。ここから先は、私の入るべき場所ではない。そう感じざるを得なかった。だからもう聞けない。推測や憶測ならいくらでもできたが、それはあくまで想像でしかなかった。事実を知ることは許されない。けれども、それでも、従うしかない。それがもらわれ子の定め。高町夫妻と同じ時間は共有しても、同じものを全て共有することはできない。本当の家族ではないから。だけど、それなら中野さんだって同じじゃないのか。それなのに中野さんは良くて、私は駄目なのか。もやもやした気分で思うが、そんなことを考えていると、もう一人の私がいさめてくる。何を言っているんだ。預かって養ってもらって、それに親切に接してくれる。それだけで十分だろう。些細なことに、どうしてそんなにこだわる必要がある。それ以上求めるのは欲張りだ。……うん、そうだ。確かにそうなんだけれど。頷いても腑に落ちきらない。別に中野さんに嫉妬してるわけじゃない。でも、でも……そう、淋しい。私は淋しいんだ。何を幼稚園児みたいなことを、と思うけれど、自分はごまかせない。淋しい。結局は伯母さん伯父さんを何も知らなかった頃と変わらないような気がして。私は蚊帳の外。二人を深く知ることも、私のことを知ってもらうこともできないのだろうか。



 この家に住み始めて一ヶ月と三日経った日。伯母さんが風邪を引いた。ただの風邪のようだったけど、熱が高い。


「奥さん、寝てて。家のことは私がしますよ」


「伯母さん、そうしてください。私も手伝いますから」


 中野さんと二人で説得を試みたけれど、伯母さんは休もうとしなかった。伯母さんは、自分が眠るのは平日の夜十二時から六時、休日の夜十二時から七時だけだと決めていると、頑なに言い張った。


「駄目、駄目なのよ……。中野さん、今何時かしら?」


「奥さん!」


「美紗ちゃん、何時?」


 熱のせいか、伯母さんの目は少し充血して潤んでいる。じっとみつめられた。


「えっと……四時三十六分です」


「美紗ちゃん!」


 伯母さんの真っ直ぐなまなざしに負けて、言ってしまった。中野さんが金切り声で私を呼ぶ。びっくりして中野さんを見たけれど、またすぐに伯母さんに目を戻すことになった。伯母さんが悲鳴を上げたのだ。


「三十六分!」


「……伯母さん?」


 伯母さんはもう一度短く悲鳴を上げると、鈍い音を立ててその場にくず折れた。きちんと結った髪が、伯母さん自身の手によってかき乱される。取れたバレッタが落ちて、カシャンと鳴った。


 何がなんだか分からない。中野さんが慌てて駆け寄って、震える伯母さんを抱くように腕を回す。


「ああ……ああ……雅也……」


「奥さん、落ち着いてください」


 まだ髪をかき乱しながら伯母さんはうわ言を言う。中野さんは伯母さんに優しく声を掛けながら、立ち尽くす私に言った。


「美紗ちゃん。あそこの棚の右から二番目の引き出しに入ったお薬、取ってきてくれるかな。あと、水も」


 こっくりと首を落としてから、私は我に返った。棚まで走って右から二番目の引き出しを開ける。中に入っていた病院の薬の袋をつかみ取って、今度は台所まで走る。食器棚からガラスのコップを取って蛇口を捻った。コップを満たして、二人のところまで戻る。


「ありがとう」


 中野さんは先に薬の袋を受け取ると、中から白い錠剤を取り出した。続いて水を受け取り、伯母さんに含ませ、錠剤を飲ませる。伯母さんは何とか嚥下したけれど、震えとうわ言は治まらない。


「雅也……雅也……」


「奥さん、ちょっと休みましょう。さあ」


 中野さんは冷静だった。私にまだ水の残ったコップを返して、伯母さんを立たせて連れて行く。たぶん、寝室へ。独り取り残されて、ようやく事の重大さに気づいた。足が震えだす。恐怖が波のように襲い掛かってきた。


「ごめんなさい」


 泣きながら、誰に言うともなく、呟いた。中野さんがなだめる声が、遠ざかっていきながら、まだ微かに聞こえた。二人が居た場所に、薬の袋が残っていた。心療内科らしい診療所の名前が載っていた。


 中野さんは十五分ぐらい経ってから戻ってきた。


「ごめんなさい」


「いいのよ。気にしないで。ときどきあることだから」


「伯母さん、大丈夫でしたか」


「ええ、大丈夫よ」


 落ちてあった薬の袋を拾い上げて、私からコップを受け取り、行ってしまいそうになる。私は勇気を振り絞って呼び止めた。


「中野さん」


「なあに?」


「雅也さんって誰ですか」


 中野さんの優しげな笑顔が固まる。しかし、引いてはならないと思った。


「私、ここに来る前、たった二度しか伯母さんに会ったことがないんです。二回ともお葬式でした。一度は父の。もう一度は二歳のときで、誰のお葬式かは覚えてません。でも、男の子の遺影を覚えてます。おぼろげに」


 伯父さんと伯母さんは仲の良い夫婦に見えた。どうして子供が居ないんだろうと思ったくらいに。それから、この家の異常な規則正しさと、それが崩れた時の伯母さんと、心療内科の薬袋と、そして私と伯母さんのこれまでの疎遠。頭の中の疑問の数々が、幼い頃の頼りない記憶によって繋げられていく。


「雅也さんは、伯父さんと伯母さんの息子さんじゃないですか? 雅也さんは私が二歳の頃に亡くなった。あのお葬式は雅也さんのお葬式だった。……違うでしょうか」


 きゅっと唇を結び、眉間に皺を寄せ視線を落として、中野さんは黙っていた。言うべきか言うべきでないのか。中野さんの葛藤が手に取るようにして分かった。困らせている。でも、知りたい。どうしても、知りたい。長い沈黙が続く。じっと待つ私の根気に負けたのか、中野さんは口を開いた。


「奥さんは、雅也くんに自分の夢を託していた。雅也くんの死は、奥さんから子と夢とを同時に奪ってしまった。だから、耐えられなかったのよ」


 絨毯を睨むように一点を見たまま、中野さんが喋る。


「雅也くんが亡くなってから、一時期奥さんは心を病んでしまった。見かねた旦那さまは奥さんに雅也くんのことを忘れさせようとした。お引越しをしたし、お仏壇をご実家に預けて奥さんから隠した。そして長い休暇を取って、壊れた奥さんを連れ色んな場所へ旅行をしたのよ。その間に奥さんは少しずつ自分を取り戻していったけど、普段の生活に戻ると駄目だった。旦那さまはもう仕事を休むわけにはいかなくて、奥さんは取り残された。だけど、奥さんは独りでも立ち直った。毎日を淡々と規則的に過ごすことに集中することで。でも同時に、他のことを考えるのを一切やめてしまったのよ。雅也くんへの愛情も、死の悲しみも、旦那さまや身内の方を想うことも」


 規則正しい生活が崩れたら、現実に引き戻されて壊れてしまうのか。そんなの、人の生活と言えるのか。決められたことを決められたようにこなして、何も考えず、何も思わず。そして想定外のアクシデントが起きたら、対処できずに壊れてしまう。こんな哀しい生き方って、あるのか。これでは母と大差ない、いや、まるっきり同じではないか。ただ在ることしか許されない母と。なんだかよく分からない悔しさがこみ上げてきた。奥歯を噛み締める。鈍い痛みが広がった。


「どうか、聞かなかったことにしてね」


 弱々しく笑うと、中野さんは背を向けた。いつもより小さく見える背中が去ったあと、漂わせたままの視線の先には、白いピアノがあった。窓から差し込む光を受けて、それは、やけに輝いていた。


 二年前の交通事故でお母さんは奇跡的に助かったけれど、頭を強く打ちすぎた。以来、真っ白な病室の、真っ白いシーツの中で、たくさんの機械に繋がれることでどうにか生きながらえている。機械に埋れるようにして横たわるお母さんは、機械の一部と化したように見えてしまう。辛い。腕や頬に触ると温かいものだから、余計に。


 今、私はお母さんと同じように横たわっている。けれど、お母さんの眠るベッドはこんなにふかふかじゃないし、病室にはかわいい家具なんてない。それに、お母さんはこうして考えることさえもできない。お母さんは生きているけれど、空っぽだ。伯母さんは空っぽじゃないのに、空っぽになることを望んでいる。親を失くすことと子を失くすことがどう違うのか、私はまだ知りえない。でも、私だって大切な人を失った。私だって一度は壊れかけた。だから分かる。伯母さんの望みは、贅沢だ。



 窓の外で、闇はすっかり深くなっていた。久しぶりに時間を気にせず食事をし、お風呂に入ったから、時間の感覚が全くなかった。随分遅い時間だろうとは思うけど、何時かは見当がつかない。携帯か腕時計を見ればすぐに解るが、今は見たくない気分だった。


 掛け布団の上で、寝返りを打った。とても眠りたいとは思えないけれど、考えるのはもう億劫だった。考えれば考えるだけ、苦しい。気づかないようにしようとしていたが、気づかざるを得なかった。伯母さんと私とは似ている。伯母さんを見ることは、つまり私を見ることだった。伯母さんは逃げているけれど、私だって逃げているのではないか。ピアノから、つまり、母から。本当はこんなにも弾きたいのに、こんなにもお母さんとの思い出を懐かしみたいのに、向き合うことから逃げている。悲しみや辛さを正面から受け止めることをしようとしていない。見たくないものに鍵を掛けて、そして消去しようとしている。だけど、だからって、完全に消去することはできない。だって私は人間だから。たぶん、伯母さんだって同じはずだ。



 浮いたり沈んだりする意識の中、それは聞こえてきた。軽快な旋律だ。流れて、揺れて、弾ける。前にもこんなことがあったなと、ぼんやり思った。しかし、今日のものはもっとはっきりしている。この調べは、私を誘っている。おもむろに目を開いた。部屋の電気を消した覚えはないのに、真っ暗だ。耳にはまだ、鮮やかに子犬のワルツが流れている。唐突に、行かなくては、と思った。どこに? 決まっている。あの白いグランドピアノのところまで。暗闇の中、私はそろりとベッドから抜け出した。手探りでドアノブを探して、廊下に出る。


 調べは、階下から聞こえてくるものではなかった。その証拠に、音を隔てているものがひとつ減ったのに、ワルツは遠ざかっている。今にも消えてしまいそうなほど、微かな音になってしまった。だが、行かなくてはならない。何の根拠もないのに、強くそう思う。階段の前に立った。窓から差し込むか弱い光は、そう遠くまで照らしてはくれない。奥は黒を固めたような闇に包まれていた。心臓のリズムが狂いだす。恐怖はあったが、それだけじゃない。脇の手すりを、両手でぎゅっと握り締めた。下りよう。


 暗い階段を、一段一段、慎重に下りていく。もうワルツは聞こえない。それでも行きたい。気持ちは変わらない。


 普段の三倍以上の時間をかけて、階段を下り切った。リビングはもうそこだ。足の裏が冷たい。スリッパを履くのを忘れていた。爪先立ちで歩く。リビングの扉から、灯りが漏れ出していた。誰かが、居る。ピアノはやっぱり黙っていたけれど、耳を澄ませば、トントンと鍵盤を叩く音がした。消音ペタルを踏んで、誰かがピアノを弾いている。


 初めて迷いが生まれた。ノブに掛けた手が、そのまま止まる。もう、夜は更けている。少なくとも、普通の人が起きている時間ではない。こんな時間に、独り、ピアノを弾いているのは誰だ? 胸の内で恐怖が膨らんだ。このままベッドに戻って、知らぬ振りを決めこんだほうがいいのではないか。しかし、腕は意に反して動いた。下りるドアノブ。押し開けられる扉。


 そっと、隙間から様子を窺う。灯りはほのか。たぶん、スタンドの。部屋に入らなくては、ピアノは見えない。意を決して、忍び込んだ。見覚えのある背中があった。


「中野さん?」


 ほっとして、思わず声に出してしまった。呼びかけると、背中がびくっとする。振り向いた顔は、紛れもなく中野さんの顔だった。


「……美紗ちゃん」


 中野さんはふっと笑った。夕方、高町雅也の話をした後の笑みとそっくりな笑いかた。力の入っていない、中野さんらしくない笑いかただ。私は何も言わないまま近寄って、立て掛けられている楽譜を覗き込んだ。


「子犬のワルツ、ですか」


 そんな気がしていた。やっぱりだ。小さく溜息をついた。私が最後に見た楽譜。最後に弾いた曲。けれども完成はしていなかった。二年前、完成させないまま放り出してしまった。私の逃げを知る曲だ。


 横一列に繋げられた楽譜は、随分古いもののようだった。セロハンテープに守られているところ以外、紙は茶色く変色して皺が寄っている。一つひとつの音符の下に、カタカナで音の名が書き込まれていた。ラソラドシソラシラドシ。右手はあっているけれど、左手の方はところどころ間違っている。


「笑っちゃうでしょ? 音符も読めないのに、子犬のワルツだなんて」


 中野さんはまた笑う。今度は泣きそうな笑いかただった。


「どうしてこれを?」


「雅也くんの、最後の曲だったのよ」


 高町雅也は、十二歳で亡くなった。彼は小さい頃からピアノが大好きで、十一歳の発表会で子犬のワルツを弾くことになったらしい。天才。先生も、周りも、みんなが高町雅也を認めた。昔、自分には才がなくその道を諦めた伯母さんは大喜びで、必死に彼を応援した。しかし幼い頃から病弱だった高町雅也は、発表会を間近にして病に倒れた。一年間闘病するも敵わず。彼の子犬のワルツも、未完成なままに終わってしまった。


「旦那さまがね、奥さんに雅也くんを思い出させてしまうからと言って、あの子が弾いていたピアノは売ってしまった。でも、奥さんはピアノを欲しがったのよ。だから旦那さまは、前のものとは似ても似つかないこの白いピアノを買った。自動演奏装置つきの。奥さんは毎日のようにピアノを聴いたわ。十二番目に弾かれるはずの子犬のワルツだけは除いて」


 きっと、伯母さんは自分の中の高町雅也の存在全てを消してしまうことを、無意識に拒んだんだ。だから、伯母さんにとっては息子の代名詞であるはずのピアノを、傍に置くことを望んだ。だけども子犬のワルツだけは聴けなかった。辛すぎて。やっぱり、伯母さんは息子を忘れられなかったんだ。たぶん、たったひとときでさえ。


 いつも不思議に思っていた。夕食後、毎日伯母さんはピアノを聞いたけれど、シューマンのトロイメライのあとに必ず立ち上がった。そしてピアノの装置に触れる。たった一度だけ、フラットのラの一音を聞いたことがあるけれど、何の曲かは解らなかった。そのあとピアノは、何事もなかったかのようにモーツァルトのトルコ行進曲を弾き始めたから。


「思ったのよ。奥さんに完成された子犬のワルツを聞かせてあげたいって。もちろん、機械が弾くようなものじゃなくて、人が生きた音で弾く子犬のワルツを。そうすれば、奥さんも本当の意味で立ち直れるんじゃないか、って思ってね。それで奥さんに隠れて練習していたんだけど、わたしは昔からピアノとは無縁の人生を歩んできたから。上手く行ったのは子犬のワルツの楽譜と、初心者用の教本を買ったところまで。半年もしないうちに投げちゃった。だけど、今日、寝る前に子犬のワルツを聞いた気がしてね。やっぱり、このままにしちゃいけないって思った。だから」


 だから、もう一度やってみようと思ってここに来たのよ。中野さんはそう締めくくった。


 お互い目を合わせたままの沈黙が、しばらく続いた。不思議な沈黙だった。重くもなく、軽くもなく。ゆったり柔らかな空気が、何かを待ちながら、静寂を奏でているような。無音の調べに誘われる。自然と声が出た。


「子犬のワルツは」


 すっと鋭く息を吸ってから、今度は明確な意思を持って、私は続けた。


「私にとっても、最後の曲でした」


 中野さんが、小首を傾げる。


「たったさっきまで、最後の曲だったんです、中野さん」


「どういうこと?」


「両親が事故に遭って、私はピアノをやめました。いえ、やめざるを得なかったんです。母は私のピアノの先生だった。ピアノを弾くことは、母を思い出すことだったから」


「……そうだったの」


「そのときにちょうど、私も子犬のワルツを弾いていました。ほとんど完成していたけど、中盤、どうしても苦手な場所があって、いつもそこで流れが止まった。一度止まると、駄目なんですよね。それ以降はどうしてもつまずきながらになってしまう。結局、完璧に弾けたことは一度もありませんでした。今まで」


 中野さんはゆっくり頷いた。私も頷き返して、ピアノの椅子に座ったままの中野さんに向き直る。


「代わってくれませんか」


「え?」


「弾いてみようと思うんです」


 弾いてみようと思う。頭の中で反芻した。弾いてみよう、向き合ってみよう。もう、逃げてはならない。


 じっと、みつめられた。みつめ返す。中野さんが立ち上がった。


「どうぞ」


 鍵盤の前に立って、腰を下ろした。中野さんの残した温かさと、クッションの硬さを感じる。自分の鼓動が身体の中で響いている。鍵盤に両手を載せようとしたまさにそのとき、背後で物音がした。


「伯母さん」


 立っていたのは、伯母さんだった。ネグリジェのまま、裸足で、櫛の入っていない髪を下ろして。自分も同じような格好だったことに気づく。一緒に住んでいるのに、こうして身支度もせずに向き合ったのは、初めてだ。


「雅也が……雅也が、ピアノを弾いていたのよ。そこの白いグランドピアノで、子犬のワルツを」


 息子の名前を口にしたのに、伯母さんの目はしっかりしていた。


「私もです。中野さんも」


 伯母さんは、そっと微笑んだ。その両目に涙が溢れた。


「雅也が呼んだのね、みんなを」


 きっと、伯母さんの言うとおりだ。高町雅也が……雅也くんが、私たちを呼んだんだ。自分にとって、私にとって、中野さんにとって、そして伯母さんにとって、未完成なままの子犬のワルツを完成させるために。大事なものが欠けたままの不完全な生活を、終わらせるために。きっと、そうだ。


「……そうですね」


 答えた中野さんの目にも、涙が光っていた。


 ピアノと向き合った。真ん中の消音ペダルを起こす。鍵盤の上に手を載せた。久しい感触。目をつむって、深呼吸をした。


 今、私は、妙な自信に満たされていた。弾ける。ほとんど二年ぶりに鍵盤に触れるのに、まして一度も完全に弾きこなせたことのない曲なのに、揺るがない自信と確信があった。弾ける。私は、弾ける。これも、雅也くんが手伝ってくれているのかもしれない。


 最初の一音は、フラットのラ。中指で押す。柔らかくて、温かい音が生まれた。機械には作り出せない音。心を持ち、心に振り回される人だからこそ、出せる音だ。


 手は信じられないくらい軽やかに動いた。鍵盤の上で舞うように動く。音が連なり、流れていく。苦手だった中盤に差し掛かっても崩れない。さながら風のように、水のように、ふわりさらりと流れていく。たぶん、私ひとりの力で弾いているんじゃない。雅也くんにはきちんと会ったこともないけれど、彼がとなりで一緒に弾いてくれているような気がする。それに、伯母さんと中野さんの想いが、背中を押してくれる。震えだしそうな腕を、みんなが支えてくれる。


 ふと、頭の中に草原の映像が過ぎった。緑が揺れ、四匹のゴールデンレトリバーの子犬が踊っている。尻尾を振りながら、高く跳ねたり、寝そべってころころ転がったり、二本足で立ち上がったり、くるっと回ったり。楽しさと嬉しさに満ちた踊りだ。ああ、長い間待たせて、ごめんね。よかった。ようやく、踊れた――



 最後の右手の長い音階。一つひとつの音、一つひとつの鍵盤を、しっかり確かめながら弾いていく。そして、左手の和音。これが本当に最後だ。弾いてしまうのが、終わらせてしまうのが、とても惜しいように思われた。


 音が響いた。長く鳴って、消えていく。鍵盤から指を離さずに、最後までその音を見送った。音が去ったあとも、しばらくは立ち上がる気にも、何かを言う気にもなれなかった。手を顔の前まで持ち上げる。まだ、鍵盤の感触が残っていた。


「美紗ちゃん」


 呼ばれて、振り向いた。すぐ後ろに伯母さんが立っていた。涙に濡れた顔で、微笑んでいる。綺麗で、優しい笑みだった。


「美紗ちゃん、ありがとう」


 伯母さんが屈む。腕が背中に回された。そっと身体を引き寄せられる。温かい。人のぬくもり。私も伯母さんを抱きしめて、それから呟いた。ありがとう、雅也くん。


 窓の外は、いつの間にか白んでいた。もう日が昇る。新しい一日が、始まろうとしている。


「少し早いけれど、朝ごはんにしましょうか」


 中野さんが言う。伯母さんがそうしましょう、と答えた。みんな笑顔だ。心の底からの、晴れやかな笑顔だ。



 今度こそ本当に、良い暮らしが、楽しい暮らしができる。まだほんのり薄暗いうちの朝ごはんは、この世のものとは思えないぐらいに美味しかった。

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