5匹
夏が過ぎ、真夏日が過ぎ、残暑は無く、昨晩からは冬が始まった。今日も一日、雨であるらしい。しかし満員電車の湿度、不快感は一年を通してあまり変わりがない。季節は寿司詰めの乗客の衣服から、あるいは隙間風から臭う程度で、濡れた不特定多数の足が、革靴の中で冷たく蒸れている。
私は通勤リュックを腹側に負って、ネクタイを締めて吊り革に掴まる。両脇と後ろから肉体的な圧迫がある。
「このような場所で急に大声を出すと、どうなるのかなって時々思うんです。それについて、あなたはどう思いますか」
不意に声がした。涼やかな高い声、女性だ。
「満員電車の中で例えば、全ての服を脱いで床に倒れ込んだとして、そうすればもう会社に行かなくて済むじゃないですか。そういったことを一度でも、考えたことがありますか。私はいつも思います。一度思いついてから、絶対に頭から離れない。全部完璧に大丈夫になるか、ダメならもう全部ダメになりたい。でも全部ダメにしたとして、私はしばらく沈んで過ごして、その更に先のことが、まだ上手く想像できません。それについて、あなたはどう思いますか」
列車の揺れに従って、我々は頷く形に揺れている。ウン、ウン、ウンウン。声は若々しく、甘える響きを含んだ。ウン、ウン。ひょっとすると美人なのではないか。
私は裸の若い娘が、靴元に倒れ込む想像をした。大変興味を惹かれたが、しかしここでは誰もが俯き揺れている。この場所には他人の目があった。人が二人いれば社会は発生し、言葉を通して評価が伝染する。隣のコートの男の、ヒゲの剃り残しが気になった。
全てのスマートフォンが振動した。取り出すとAir Dropの通知、画像の着信で、文字が書いてある。差出人名は“佐々木重吾郎のiPhone”
『お嬢さん。何か悩みがあるのですね、お辛いのでしょう。しかし自分を大切にしなければなりません。多くの人の前で裸になろうなどと何ごとです❕ 貴女は若い、そしてきっと美しい。声だけで、僕にはわかります。僕が責任を持って貴女の話を聞きます。僕には社会的地位と、金銭的余裕があります。僕のメールアドレスは――…』
列車はトンネルへ入った。
暗い車窓に我々の顔が、ぎっしり並んで鮮明に反射する。目に生気は無く、唇は青黒い。誰もが無関心な表情で、吊り革に掴まって無言で頷く。無関心は他者へのマナーで、マナーとは相手を尊重することであるという。私は俯いた上目遣いで、車窓に映る若い女性を探した。私の右肩斜め後ろに、つむじが綺麗なロングヘアの後ろ姿があった。
直後、世界が揺れる。爆撃の音を確かに聞いた。
『急停車します、ご注意ください。急停車します、ご注意ください』
金属的な声でアナウンスが流れる。我々は小刻みに頷き、列車は減速をする。私は燃えるように不快になった。列車の遅延など、誰が責任を取るのか。
『急停車しますご注意ください、このままでは本当に急停車してしまいます、ご注意ください』
「このままって何だよ」 誰かが声を上げる。
車内スピーカーからガタガタと、
『えー……乗客の皆様。私共は、皆様の安全と快適さを、守る覚悟を新たにして参りまして、しかし現在、厳しさを増す状況に直面し、えー、抜本的な解決が求められており、えー。このままでは停車してしまいます。えー、つきましては。乗客の皆様に運賃の値上がりをご理解頂きたく』
ほう、と溜息が響いた。また値上がりだ。窓に映るつむじの綺麗な女性が、頭を上げて辺りに叫んだ。
「ねぇ佐々木さん、さっきの佐々木重吾郎さん! お金あるんでしょ寄付してください!」
特徴的な低い声で、さっきの声の娘とは別人であった。
「佐々木さん、佐々木さんお願い!」 つむじの女性は次第に叫んだ。我々は頷く。老人じみた声が凄んだ。「おい女、煩ぇぞ」 我々は頷いた。
「電車で叫ぶなんて迷惑です、迷惑行為です……」 気弱そうな声が加勢をする。「そうだぞ、金が欲しいんなら脱げよ!」 明らかに佐々木ではない誰かが怒鳴る。
私はスマートフォンを開いた。
『大物演歌スターが死去。地方市街地にクマ出没。犯罪増、移民増に関連か』
先ほど確かに爆撃の音がしたが、ニュースはいつも通りで安堵する。
『B級絶品グルメ。アイドル女子Mのスキャンダル』
画面をスクロールすると、制服じみた服の娘が字幕付きで泣いていた。
『ご迷惑をぉお、お掛けじてぇ、申し訳ございませぇんでしたぁ! ご期待をぉ裏切ってぇ、申し訳ございませんでじたぁ!』
不意に車内が騒然とした。我々はスマートフォンをスクロールする。怒号が上がった、ゴムの焼ける臭い、ペンが飛び、本が投げられ悲鳴が上がる。がくんと電車が加速し、我々は大きく頷いた。
『乗客の皆様のご理解、ありがとうございます。お陰さまで当電車は、目的地に向けて無事、走行いたします。つきましては更なるご理解とご協力を……』
列車の揺れと速度に、蒸発するようにイライラが消えていく。私は安堵した、電車は前進している。大切な時間をロスせずに済んだのだ。
「このような場所で急にナイフを出して、自分や誰かを刺したらどうなるのかなって、私時々思うんです。でも、例えそれをしたとして、一体何を変えられるんだろう。私達は一体どこへ行くのでしょう。どこへ向かっているのでしょう。それについて、あなたはどう思いますか」
甘く囁く声が、耳元で続いている。私は目だけを動かし、上目遣いで車窓を見た。さっきのつむじの女性は、両手で自分の服を押さえたまま下を向いて動かない。カメラアプリのシャッター音がした。じき列車はトンネルを抜ける。
私はニュースアプリを開いて、匿名になり発言を開始した。
『我々の行き先は、権力者が話し合って決める』
花火の後によく似た、火薬の臭いが車内に充満する。外から爆撃の音がした。
―――
『準急』
金閣寺の池を泳いで渡り (短編集) なんようはぎぎょ @frogflag
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