とある音楽家の遺言

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とある音楽家の遺言



 音楽の美は、その一瞬の短さにおいて生命に似ている。

 ――三島由紀夫





 七海なつみは誰よりも美しい音を持っていた。


 七海が空き教室で奏でるヴァイオリンの音色は勿論のこと、椅子に座って弾く姿すら美しいと感じた。皆が七海の弾く姿を見て、

「ヴァイオリンを弾くために生まれてきた」と言った位であった。

 音楽とは練習次第で上手くはなるが、七海の音色は常人の努力では決して手に入らないような妬ましい位に才能に溢れた音であった。


 生まれながらにして持つもの。

 一つ腕を動かせば弦の上を滑る弓が絹の様な滑らかな音を生み出す。

 骨ばって痩せた体からは想像のできないような力強い重圧のある低音が出たかと思えば、今度は歌声の様な張りのある美しい高音が流れる。


 俺はそれをずっと尊敬と嫉妬を感じながら横で聴いていた。いつも七海の横にいる俺を、周りは“普通の方”と小声で言ってるのを耳にしたことがある。

 七海と比べれば誰だって凡人なのだ。七海には俺の劣等感が分からないだろう。

 そう思っても尚、一番側で聴いていたいと思うような演奏をする男だった。


 七海と会ったのは、管弦楽部の体験の時だった。慣れない空間にどことなく居心地の悪さを感じて隅の方で先輩らの演奏を聴いていた時にやって来たのが七海だった。

 いつの間に横に居座り、俺が気になって視線を投げかけたタイミングを見計らったかのように話しかけてきた。


「君は何の楽器やるの? 僕はヴァイオリンが弾きたいんだけどさ」


 その言葉に同じくヴァイオリン希望だった俺は興味を引かれ、七海と友達になった。驚いた事に彼は殆どヴァイオリンを弾いたことが無かったという。友人の家に遊びに行った際に、数回弾かせてもらったことがあるだけだと。


 学校でヴァイオリンの貸出の手続きをしていた七海は、それを見ていた俺に笑みを向けて「学校の物でもさ、自分の楽器を持てるのって嬉しいよな」と言った。

 その言葉の真意は分からなかったが、楽器と言うものは高額で、そう易々と購入できるものでは無い。自分のヴァイオリンにふと目をやる。俺はそこそこ恵まれた環境で育ったから楽器を買って貰えただけに過ぎない。ただ七海の演奏を聴く度に、もっと良質なものを購入しない事を心の底から勿体ないと思っていた。

 七海の親は楽器を買い与えるどころか、発表を見に来た事さえも無かった。一度だけコンクールの時に、親は聴きに来ないのか聞くと


「母さんは忙しいからね」


 と寂しそうに笑っていた。演奏を聴けば母親も楽器を買いたくなるだろうに、と俺は勝手に一人で悔しく思っていた。


 七海の実力は、素人目の俺が分かる位なのだから当然顧問も感じ取っていた。

 勿論初心者であるため、難度の高い練習曲は弾けないものの、音階を弾くだけでも七海の生み出す音色は才に溢れた物であったからだ。七海の弾き方に幾度も感心し、人前で褒めちぎっていた。当の本人はというものの、褒められる度に何故か顔を曇らせていたが。

 それもあり、周りは七海に良い顔をしなかった。それどころか嫉妬を隠しもしないで、陰口を叩き、悪質な噂を流した。だが七海は嫌な顔一つせず、


「僕が文句も言われない位に上手くなればいい話だから」


 と言っていた。(性格まで完璧なのか)と少し皮肉に思った俺は、若干の嫌味を込めて


「お前は天才だよ」


 と言っていた。

 七海は誰よりも努力家だった。褒められても決して図に乗らず、一分一秒を惜しむようにしてヴァイオリンを弾いていた。弦も弓も安価な物だろうに、七海の努力に応えるように伸びやかな音を出した。どんな高価な楽器を使おうと、俺は彼よりも綺麗な音色を出した事は未だに無い。


 高校二年生の夏休み。静かな校舎の端にある教室で、七海と俺は自主練習をしていた。日当たりも風通しも良いその教室では、七海の音がより一層美しく聴こえる気がした。

 七海は弓に松脂まつやにを塗りながら、楽譜を整理していた俺に話しかけた。


「やっぱりさ、ヴァイオリンを弾いてる時が一番幸せだよな」

「ふーん」

「違うんだ」

「そりゃあ、一番ではないよ」

「じゃあ、音大には行かないの?」

「行きたい気持ちも無くはないけど、下手だし行かないんじゃね?」


 へえ、と七海は呟くとヴァイオリンのケースに松脂を仕舞った。管弦楽部に入っていたとしても、音大に行く者は少ない。あくまで皆趣味の一環、青春の思い出として練習してるに過ぎないのだ。

 まあ、皆が七海のような才能を持っていたら話は別だろうが。


 つくづく羨ましい奴だとは思う。

 もう嫉妬と言う感情は随分と味わい尽くしたが、それでも偶に舌に残る苦みを感じる。

 劣等感とは無縁であろう七海を見ると、野球部の声が微かに聞こえる窓の方をじっと見ていた。


 そんな流れる様な日々も、高校三年生になると終わりを告げた。引退コンサートを終え、皆が後輩と涙の別れを告げる。

 今日は三年生の為に部室で“お別れ会”が開かれていた。コンクールや練習を共にした時間を思い出し、ジュースを片手に感傷に浸る。


 ふと周りを見ると、七海がいない事に気が付いた。部員にあまり好かれていなかったから、気まずかったのだろうか。少し可哀そうに思い、七海を探しに行こうと出口に向かうと扉の側で談笑していた後輩の話声が聞こえた。


「そういえば七海先輩いないな」

「あれ、本当だ。最後にあいさつしたかったのになあ」

「そういやさ、知ってる? 七海先輩の噂」

「ああ、音大に行かないって奴だろ。勿体ないよな、あんな上手いのに」

「まあ、あの人頭もいいし進路も沢山あるんだろ」


 それを聞いた瞬間、頭が真っ白になった。

 七海が音大に行かない?

 思考がまともに働き始めた瞬間、扉を勢いよく開け廊下を走り出していた。機械の様に足を動かし、無意識にたどり着いたのはあの端の教室。


 戸を開けると、窓際でヴァイオリンを抱いてうずくまっている七海がいた。


「七海」


 俺の声に、窓際で机に伏していた七海はゆっくりと頭を上げた。膝に抱えていた机の上に丁寧にヴァイオリンを置く。

 そんな七海に、俺は不機嫌を隠せないまま詰め寄った。


「なんで音大行かないんだよ」

「あれ、それ言ったっけ?」


 ヘラヘラとした似つかわしくない表情でこちらを見る七海に、俺は無性に腹が立って思わず声が大きくなる。


「七海なら行けるだろ、なんでだよ」


 そう問うと、七海は少し困ったような表情をして押し黙った。言葉を選んでいるのか少し間を開けた後、七海は口を開いた。


「ほら、音楽ってお金がかかるから」


 思わぬ答えに拍子抜けして、間の抜けた声が出る。それは勿論わかっている。七海の家がそれほど裕福で無い事も、薄々気づいていた。それでも、七海が音大を諦める理由として納得のいく返答では無かった。


「でも、今は奨学金とかあるだろ」

「そうだな」

「お前の実力なら、三年間培ってきた力で何とでもなるし」

「褒めてくれるなんて珍しいな、雪でも降るんじゃないか」


 真剣に話をする俺を茶化す様にして笑う七海に、無性に喉の奥から怒りがせり上がってくるのを感じる。


「なんなんだよ、なんで才能をドブに捨てる様な真似ができるんだよ!」


 怒鳴りつける様に大声を出した俺に、七海は驚いた表情をし、そして顔を歪ませた。感情を露にすることがなかった七海の、初めて見る表情だった。


「なんでそんなムキになる必要があるんだよ、関係ないだろ」

「は」


 そう冷たく突き放されるようにして言われ、一気に舌に苦みが広がる。

 関係ない。

 そう自分でも理解してきたはずなのに、湧きあげてくるのは今まで七海に感じてきた嫉妬、劣等感、虚しさ……

 波が押し寄せる様にして勢いよく流れてきたそれに、簡単に理性の壁が崩れ去るのを感じた。


「関係ないってなんだよ。俺はずっとお前を横で見てきたんだ。恵まれてるお前が羨ましかったし妬ましかった!むかつくんだよ、才能があるくせに音楽を捨てるのが!」


 今まで隠してきた感情が枝垂れるように零れていく音がする。

 子供の様な八つ当たりだった。

 でも、俺は羨ましかった。才のある七海が。凡人と天才の違いを一番近くでありありと見せつけられてきた。


 心から七海を尊敬する事なんて、俺にはできなかった。


 言い切って幾分かすっきりした俺は顔を上げると、怒りに顔を染めた七海が目に飛び込んできた。いつもとは全く異なる雰囲気を察し、思わず息を呑む。


「羨ましい……?」


 七海はそう呟くと、怒りを隠す様に下唇をぐっと噛みしめた。彼の唇に血が滲む様を呆然と見ていた俺に七海は震える声を出す。


「羨ましいってなんだよ。そんなに恵まれていて俺が羨ましいって、なんの冗談だ……?」


 聞き慣れない低い声に思わずたじろぐ。空き教室に冷たい空気が一気に流れ込むのを感じた。

 俺が恵まれている? 恵まれてるのは七海の方じゃないか。

 そう混乱する俺を七海は睨み、声を張り上げた。


「君には僕の気持ちが一生分からないだろうな、裕福な家庭で育った君には!僕だって本当は音大に行きたかった。でもそれを周りは許してくれない!」


 七海の言葉に目を見張る。彼の声に浮かぶのは明確な憎悪と哀しみだった。

 手の平に手汗が滲む。目の前にいるのが、いつもの七海なのか分からなかった。


「奨学金とかそういう問題じゃないんだよ……僕が、家族を支えないと」


 七海の頬を幾筋もの涙が伝う。そのまま七海は机の上のヴァイオリンを涙を拭わぬまま見つめた。

 思わぬ言葉に俺は束の間息が詰まる。


「支える?」

「僕の家は片親なんだ、弟もいる。高校を出たら僕も働いて家計を支えなきゃいけない」


 その時に漸く気づいた。

 七海が音楽を捨てた訳では無いことを。

 そもそも大学に行く選択肢さえ与えられていなかったことを。


「僕は……僕は、君達が羨ましかった。楽器も買って貰えて、音大にも行ける。だけど、音大にはいかないんだろ?

 心底君達が憎い」


 

 七海の顔に浮かんでいるのは怒りではなく、自嘲めいた薄笑いだった。それを見て思い出したのは、褒められている時の七海の顔――


 自分の将来を見据えているからこそ、虚しかったのだろうか。

 完璧だと思っていた七海が抱えていた闇がじわりと滲み、浮き出るように姿を現す。

 誰よりも努力し、誰よりも音楽を愛していたのに、学ぶことを許されない環境。


 どんな気持ちで俺を見ていたんだろう。

 ろくに練習もせず自分が焦がれている夢を簡単に手に入れることができる俺を。


「音楽って何なんだろうな。誰よりも努力しても、結局お金がなきゃダメなんだ。

 音楽は金持ちの道楽だって言葉が身に染みて分かったよ」


 その言葉に七海の全てが詰まっていた。

 部活に入るのもお金がいる。大学に行くのも、勿論ヴァイオリンを弾くのにも。七海は呼吸を整えた後、俺の目を見て笑顔を浮かべた。


「でも、僕はヴァイオリンを弾いてる時が一番幸せだった。君と練習した日々も、かけがえのない思い出だよ」


 その言葉を聞いて、俺は踵を返して逃げた。七海の声から逃げる様に走って家に帰った。自分がとてつもなく恥ずかしいものに思えたのだ。小さく安全な鳥籠でぬくぬくと育つ俺の横で、七海は一生懸命に生きていた。自分の環境について文句を言わず、限られた時間を慈しんでいた。

 いくら走っても、七海のヴァイオリンの音色が耳にこびりついて離れない。





 家に帰ってから色々考え、もう一度七海と話そうと思った。謝って許してもらえるかは分からないが、もう一度一緒に弾きたいと言おうと。

 

 


 だが七海はその日からめっきり姿を見せなくなり、俺が七海と話す事は無かった。







 あれからもう五年が経つ。

 俺はあれから必死に練習して音大に進んだ。実力の無さを努力で埋め、挫けそうになる度に七海の言葉を思い出した。それでも努力が足りなくて、下手だと笑われても耐えた。

 それが七海への償いかと言われると、そういうわけではない。

 

 ただ俺は知りたかった。

 七海が愛した本当の音楽と言うものを。

 七海が見ていた世界を。


 音楽には金がいる、夢を叶えるにも。

 だが、才能や努力と言うものは金で買えない事をよく知っている。

 現に、音大に入ってからも七海より美しい音を出す人には出会っていない。

 


 今でもヴァイオリンを見ると七海の音色が微かに遠くから聴こえる気がする。

 もし七海に再会できる事があるならば、高校生の時には心から言えなかった言葉を伝えたい。


 


 「お前は天才だよ」

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