……那辺?

衞藤萬里

……那辺?

 圧倒的で純粋な明澄が、彼と彼の視界のほとんどを占めて果てるところを知らず、しかし無限に拡がりつつも、どこか不快な矩形の交わりが平衡を失い、ありえない角度で傾いでいるような得体の知れなさがある。

 彼の左手と彼の右手では、作り物めいた太陽――のようなものが、この世界をこんこんと照らし、現実のものと同様にくっきりと彼らの影を刻みつける。

 脚下は硬くひんやりとして、そのくせ肌になじむような感触だった。

 静謐は、はてることがない。

 どこかの誰かがねじれた感覚で、世界の余分なものをすべてとりのぞいた空間を巧妙に真似て、もうひとつ創ったかのようであった。  

 なぜ自分はこんな得体の知れない異様な――と形容するしかないような場所にいるのだろうか。

 自分の他には眼の前にひとりの男しか存在しておらず、何もかもまぶしすぎる中で、互いに彼だけが自分に近い存在に思えた。

 不可解なことに、彼らは身に何もまとっていない。

 両者ともに老年と云っていいだろう。

 まぶたの下や頬はむくみ、メイクで上手に隠していたろう顎のだぶつきも、はっきりと見てとることができる。艶を失った皮膚はぶよぶよと弾力なく、くすんだしみが容赦なくへばりつき、下腹はみっともなくたるみ、その下にぶらさがる陰茎は縮こまっているように見えた。

 彼は眼の前の彼のことを、おたがい世界中の誰よりもよく知っていた。直接、顔をあわせたことはないが、彼のデータはうんざりするほど、頭の中に入っている。

 不快な男だった。彼の容貌が、国籍が、人格が、言動が、信仰が、財力が、服のセンスから女の口説き方、ジョークのセンス、飼っている犬にいたるまで、すべてが気に入らなかった。 何より、彼の職業が彼の神経を逆なでにする。

 理解できないのは、どうしてあの大統領が、ここにいるのかということだ。

 あの――高慢で

 思い上がった

 愚劣で

 卑怯な

 気の違った暴君が

 暗愚な狂人が

 ――どうして

 ――なぜ

 ――私の眼の前に

 ――この私の眼の前に

 ―― いるのだ?

 大統領は互いに、眼前の大統領をねめつける。嫌悪と不満に満ちた視線が絡みあう。なぜか、彼らはお互いに眼の前の男が、自分がよく知っている人物本人であることを疑っていなかった。

 と――絡みあっていた視線がうろたえたように不意にほつれ、別の一点へ推移した。自分たち以外の何物も存在などなかったその場に、何かをみとめたのは、一体どんな感覚だったのだろうか。

  そこに――“それ”はいた。“それ”――としか云いようのない“それ”が。

 今の今まで、そこには“それ”などいなかった。なのに今は、この世界の一部のようにいる。

 若いとも知れない。閲しているとも知れない。男とも知れない。女とも知れない。ただ人の形をして。

『ふたりともようこそ、歓迎するよ』

 “それ”はにこやかにふたりの大統領に微笑みかけた。このまばゆい世界にふさわしい、ほんのわずかの穢れもない微笑みだった。


 思わず顔を見合わせようとしたふたりは、あわててお互いから眼をそむけた。 とたんに、理解できないこの状況に対する怒りがわいた。

 怒りは怒声となった。

「何だ、お前は!?」

「ここはどこだ!」

『ふたりともそんなにいきり立たないで、落ち着いて』

 “それ”は片手をあげて、にこやかにふたりをなだめる。何とも知れぬ“それ”ではあったが、自分たち以外に人の形をしたものが存在している事実は、彼らの心にわずかにゆとりを生じさせた。

「落ち着けだと?私はここがどこなのかと訊ねているのだ」

「それよりも、服ぐらいないのか?」

  もう一方も負けじと貧弱な胸を張る。

『決まりがあってね。ここに来る者は、その身ひとつだけっていう』

「お前は着てるだろうが」

『そりゃそうさ。私は説明役だから、服ぐらい着ていないと体裁が悪いだろ?』

 大統領はふんっと鼻の先でせせら笑う。

「ふざけている場合じゃないんだ。もう帰らせてもらえないかな……そう、服は返してくれ」

『私もふざけてるわけじゃないよ。ちなみに服はないよ』

「私を誰だと思っているんだ」

『わかっている。だから君たちは招かれたんだ』

「招かれた?」

『今から説明するよ。大事なことだから、よく聞いてもらえるかな』

 “それ”の言葉は、どこまでも快活だ。

『まずひとつめ、ここは君たちのどちらが正しいかを決める場所だ。ふたつめ、それは君たちが自分で決めること。みっつめ、君たちはもう元の場所にもどることはない』

 きっと自分は何とも云いようのない顔になっていたに違いない、とひとりは思った。なぜなら眼の前の男がそうだったからだ。

「意味がわからんのだが?」

 ひとりの大統領が戸惑いながら、ようやく口を開いた

『云ったとおりだよ。君たちは――』と、ふたりの胸元を指さす。『互いに神の名を以って、正義を行使しようとして争った』

 彼らはとまどいの表情を浮かべた。

『人は相反する正義を与えられることはないんだよ。だからどちらかが間違っているんだ』

「ぶ、武力制裁のことを云っているのか!」大統領は猛然と叫んだ。「あれは解放の戦いだ、聖戦だ!」

「学校や病院まで爆撃しておいて、何が聖戦だ!大義などあるものか!」

 もうひとりの大統領が声を荒げる。

「黙れテロリスト!」

「貴様のやっていることは虐殺だ、侵略だ!」

 怒りに震える指が互いを弾劾する。

『ほら、話は平行線だろ?』“それ”は困ったように苦笑する。『だから君たちは招かれた。正義を口にするのなら、それを証明しなければならないんだよ。どちらが正しいか、納得するやり方で決めるといい。』

  状況が理解できないとまどいと怒りで、眼がくらんだ。何だこんな訳のわからないばかげた話は。

 しかし、ひとりの大統領が感情を押し殺しつつ、眼の前の“それ”を説き伏せようとするように語りかけたのは、この事態の得体の知れなさだった。

「私はもちろんだが……こいつも自分が間違っているなんて考えるわけがない。こんなことは無意味と思わないか?」

 もうひとりも、苦虫をかみつぶしたような顔でうなずいた。

『そうかい?話しあってみれば?』

「決まるわけがない!」

『民主的に投票してみたら?』

「ふざけてるのか!」

『クジではどう?』

「それで勝って、何の意味がある?」

『そうかなぁ?わりと公平だと思うけど?』

「敗けてもみとめるわけないだろうが」

『じゃ駄目だね……それなら、殴りあいってのは?』

「ばかを云え。そんなこと、できるわけないじゃないか!」

『君たちにお似合いの決め方だと思うんだけどねぇ』

「……もういい、茶番はたくさんだ。四の五の云ってないで、私を帰しなさい」

 話がかみ合わないことへのとまどいが、強くなりはじめていた。

『だからそれは無理だって』

「そんなばかな!とっとと元にもどせ!」

「悪い冗談はよせ。本当はここから出られるんだろ?」

『君たちは二度と、元の場所にはもどれない。ここはどちらが正しいかを決める場だよ。この状況を脱することができるという条件は、君たちが証明すべき正義から純性を奪う』

 “それ”の朗らかな笑みは消えない。

『元の世界にもどることはできないんだから、心置きなく自分の正義を主張したらどうだい?ここなら誰のじゃまも入らない』

 自分の正気が、端から少しずつほころびていくような、理性が自分の手のとどかないところに、漂っていきそうな錯覚をおぼえて、彼らはあわてて引き寄せた。

「ふざけるな!私がやったことは正しい、こんなやつとくらべられてたまるか! 」 「うるさい!」もうひとりの大統領が、ひきつった笑いを見せる。「この狂った独裁者が!貴様のようなばかが支配してる国なんぞ、跡形もなく消し去ってやればよかったんだ」

「本性をあらわしたな、この人殺し野郎が。貴様が死ね!」

 興奮のあまり、声のかぎりにふたりの大統領はののしり合いをつづけた。

 その様はもはや、神の恩寵を受けて世界の秩序を正し、正義の軍隊を統べ、邪悪な敵を討つ神罰の代行者などではまるでない、弱々しい生き物にすぎない。虚飾を剥ぎとられ、強力な権力も財力も武力も何も手にしていない裸の彼らは、ぶざまに老いた、ただの肉塊であった。

『私が決めるんじゃないんだよ。どちらが正しいかを決めるのは、当事者である君たち自身だ』

「そんなことして、私に何の得があるというんだ!」

『君たちどちらかの正義が証明される。純粋に。素晴らしいじゃないか。でも、もうそんなに時間はないよ。あの太陽が沈めば、君たちが正義を証明するためにあたえられた、この世界も永遠に消失する。君たちの世界は、君たちなど初めから存在しなかったことにして均衡をとる』

 太陽――のようなものは、いつの間にか位置をずっと下方に移し、下端はもう少しで、この世界の地平線にふれようとしていた。

 まばゆさはいつの間にか失せ、落陽が彼らの身体をさびた朱色に染めはじめている。均整を欠いたふたりに影が長い。

 “それ”の、そのほんのわずかの染みもみとめられない笑みが、彼らの胸をぞくりと震わせ……その時本当に初めて、ふたりは自分たちがいるその場所が、夢でも幻でもないということを、突然に悟った。

『私の話は以上だよ。さぁ、後はふたりにまかせるよ』

「待て!もどせ、私を元の場所にもどせ!」

「置いていくな、帰せ!」

 ふたりの顔が歪んだが、彼らの懇願など“それ”はまるで意にも留めなかった。

『ふたつの正義の正当性を判断するには、主張している本人に決めてもらう。最良の方法だよ。君たちが望む方法で決めればいい――決めるのは君たちさ』

 その言葉の響きにかき消されていくように“それ”は、もうふたりの存在などほんの少しも顧みることもせず、静かに世界に溶け込み完全に消失し……そしてふたりの大統領のみが、その世界にとりのこされた。

 消失の後に、聲だけがただ、たゆたっていた。


 ふたりの大統領は身動きひとつできず、呆然と立ちつくしていた。二匹の老いた男がそこにはいた。

 最初に訪れた時より、はるかに密度の濃くなった沈黙が、世界に充満している。 太陽の半分はすでに完全に地平に呑みこまれている。

 ふたりの身体も、真っ赤に染まっている。

 影が長く、濃い。

 今はもうはっきりと知覚できる。世界は時――それすらも本物なのか?――に比例して縮みつつあった。日没という形でこの世界が消失するというのは、信じたくないが、きっと本当だろう。

 かつて世界でもっとも富める者のひとりであった彼らは、身にまとう無花果の葉ただ一枚さえ持たない。 世界でもっとも貧しき者よりなお、彼らは何も持たない。

 重苦しい孤独があった。今までの人生で感じたこともない、異質でうすら寒い孤独だ。脂汗が今は肌にまとわりついたまま冷えていく。

『決めるのは君たちさ』

 “それ”の聲が耳から離れない……

 落日の赤はますます濃くなっていくのに、ぞっとするような薄暮の気配が漂いだしていた。もうむこう側はかすみ、この偽りの世界に存在するはずのない夜が訪れはじめている。

 この世界の時の最後の幾雫かが、恐ろしいほどの速さで尽きようとしていた。終焉にむかっている。

 ……すさまじい喪失感。

  眼の前の同じ境遇の男がねめつけている。怒りと憎悪に満ちて、しかしすがりつくような血走った眼で。

 ここには、自分とこの男しかいない。

 ふたりが手に入れることができるかもしれないのは、もうたったひとつのものだけだ。しかし誰も見ていない場所で、まとう意味はない。

 だが……なじみ深く魅力的な感情が、心の奥底から湧き出て身体中に満ちていく。互いが相手の双眸に、それをみとめた。

 そう……

 こいつだけは赦せない。

 そうだ。

 とても簡単なことだった。はじめからそうすればよかったのだ。

 どこか遠くで、人の形をしたものの、絶対にありえるはずのない嘲笑が、高く高く聴こえてくるような気がした。


 どちらが先に動いたのだろうか?

 ……鬼のような形相の大統領が奇声をあげ、見る間に大統領の視界をいっぱいにふさぎ、気がついたら、組み合っていた。

 やみくもに眼の前のたるんだ腹を殴りつけると、顔面に熱い感触があった。ぬるりとしたものが鼻腔から流れ出たのを感じた。

 互いの指がゆるんだ。突き放す。 息が苦しい。

 やつの唇がぱっくり割れ、赤黒い血が染みている。自分も鼻血を流しているはずだ。

 動いた! つかみかかる。

 生ぬるい汗ですべる、畜生!

 眼の前のぶよぶよの身体。

 縮こまった陰茎が、躯の動きに合わせて、股間で激しく動くのが滑稽で、嫌悪をもよおす。

  髪の毛をつかみやがった、つかんで殴ってきやがる。汚ねえ野郎だ。

  ……

 ……口の中で、いやな音がした。舌に妙に固いものがあたる…… こいつ、俺の歯を折りやがった? この野郎……

 一番近いところにあった、やつの身体のどこかにかみついた!

 くそっ!俺がかみついてるのに、何で殴ってくるんだ……神も信じていない、この虐殺者が!

 ひきはがされた。

 でも口の中には、やつの身体の一部がのこったままだ。どこかわからんが、ざまぁみろだ。

 ……

 殴る、蹴りあげる、やつの身体のどこかにあたる、俺の身体のどこかにあたる。

 ……痛っ……鼻が……やつは?

 この地球の上にはびこり、たかだか七十億かそこらの……

 ……何で俺がこんなめに?

 狂ってるのはこいつ……

 ひょっとしたら、これまでもこんなやり方で……?

 喚くな!

 俺は間違っちゃ……

 殺して、こいつ……神は……苦しい、息がつまる……

 手がすべる。何で俺たちがこんな……おかしくないか……

 ……誰だ、俺の上にのしかかって…… ふざけるな、こいつのせいで……

 なんて汚ねえ面してやがる、眼も、鼻も……

 つぶれて……汚ねえ! 血を俺の上にこぼすんじゃ……

 ……眼の前ののどを、思いっきり……

 手の中で、ぬるぬるした、ぐにゃぐ……血?

 ……したくびの感触。

 こいつを思いっきり握りつぶして……

 おい、何でお前の手が、俺のくびをそんなに……苦しいじゃないか、あたまが割れそうだ。

 こいつだけは、絶対に……

 ……

 真っ赤? こいつの顔、真っ赤、あぁ……血?

 太陽、いつの間にあんなに、小さく……畜生、もう沈んでしまうじゃないか?

 ……赤い。

 それまでにこいつ……

 ……息苦しい、世界がせまくなった?肩にまでふれそうなぐらい、せまって……つぶれ……

 だから、こんなに赤い……?

 ……ちがう、この野郎が俺の首を……息が……でき……

 ……

 ……え、何だ? 何か云ったか?

 誰だ、耳元でわめ……うるさ……お前のせい……

 ……神? くそ、喰らえ、だ! 世界……?

 ……正しい……俺? 誰?……こいつ? 何?

 ……意味がない、どうして……俺たちはこんな……なぁ、お前……

 正ぎ……?……滑稽だ。

 ……苦し、世界がこんなに小さくなっ……つぶれ……

 ……太陽。

 もうすぐ、沈……何も、かも真っ赤に染まって……消えていく ……?

 ……あぁ……

 ……俺も、こいつも……世界も……消えて……何も、かもが……

 何もかも、何もかも……何もかも……

 何もかも、何もかも……

 何もかも……

 何も……

 な……

 ……

 ……

 ……

 ……


(了)

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……那辺? 衞藤萬里 @ethoubannri

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