週末深夜の君と踊ろう

杜松の実

ダンスフロア

 終電がなくなり町はより一層静かになった。

 腕を抱くようにしてベランダに姿を現した男の手には、湯気立ったマグが握られている。アパートのベランダから見下ろす駅前の住宅街に、明かりは灯っておらず、駅へと続く一本道は薄暗い。車は一台も走っていなかった。今、この世界で動いているのは自分とあの信号だけなんじゃないか、とさえ思えてくるほど静かだった。

 マグを欄干に置くコンッと乾いた音が夜空へ伸びていく。シャワーで火照った身体を冷ますにはあまりに寒く、裸足に伝わるコンクリートの冷たさに小さく身震いをした。体を温めるためにコーヒーを一口飲み、またコンッと置く。

 胸ポケットからマルボロを取り出し、その煙をゆっくり肺へと入れた。そして、一拍ためてから勢いよく吐きだす。この吸い方が男のこだわりなのだ。一口丁寧に吸うと、あとは雑に吸った。身震いしてコーヒーを飲むが、すでにコーヒーは冷めきっており、男を温めることはなかった。

 灰を欄干にかかっている灰皿へ落とす。もとは灰皿ではなく洗濯ばさみなどを入れておくものだったが、男はそれを灰皿として使っていた。向かいの空に揺蕩たゆたう昇ったばかりの半月が、何だか空が笑っているように感じ、またそう感じている自分を面白がった。大きく一息吸ってから見上げ煙を吐き出すと、そこにはオリオン座が見えた。星について詳しくはなかったが、それがオリオン座であることはなんとか知っていた。こうして空を見上げるのもずいぶん久しぶりだったので、星が綺麗だなと素直に感じ、またそれを面白がった。

 週末になれば必ず出かけていた男だったが、この半年間はベランダより外へ出る事は無かった。

 腕を欄干に載せて体重を預けると、下の通りがよく見えた。痩せた街路樹が枝を鳴らす。一匹のねこがゆうゆうと道路を渡っている。昼間であれば、そこは駅へとつながる道で車通りも多いが、今はねこだけの道だった。

「ねこは野良猫が、もっとも完成された状態だな」

 欄干に煙草をこすりつけ灰皿へ捨てると、両手で体を抱きながら部屋へと戻っていった。

 散らかった作業台の時計を見る。マグに残ったコーヒーを一息で飲み、それでもわずかに残ったコーヒーをシンクへ捨てると、スマホを片手に外に出る。玄関の扉を開けて見たその暗闇は、半年ぶりの景色だった。思わずはっと息を飲む。

 錆びた階段を軽快に音を響かせて下り、住宅街のはずれにある駐車場へ足早に向かう。男の車は黒い軽自動車だったが、黄色いナンバープレートを、わざわざお金をかけて白に変えていた。車内は埃っぽく通気口から出る風はかび臭い。スマホを操作しプレイリストからランダム再生させると、車のステレオからずいぶん前に流行ったポップミュージックが流れた。その曲は、鈍い音質のせいなのか、ずいぶん安っぽく、陳腐なものだった。


 一年ほど前から、週末になると時々ミュージッククラブに通っていた。そこである時、一人の女と知り合った。初めのうちは遠くから見ているだけで、時折目が合う程度だったが、そうして何週もするうちに女の方から話しかけてきた。

「こんばんは。よくいらしていますよね」

 ダンスフロアの外にあるバーへ誘ったのは男だった。バーは蛍光灯がてかてかと照るカジュアルな装いで、カクテルもサワーやジントニック、ハイボールなどの簡単なものしか置いていなかった。フロアからは軽快なテクノ音と床を伝って響く重厚な低音が漏れていた。二人はお気に入りのアーティストが同じだったことから意気投合し、会話が弾んだ。行ったライブの話や、最新の音楽、耳にとまったインディーズの曲などの話をしているうちに、あっという間に時間が経った。

「あら、もう一時間も経つわ。ねえ、踊りましょ」

 二曲ほど一緒に踊るとなんとなく二人は別れた。

 AM5時にクラブは閉まり、外に出ると冬の寒さが身に染みた。太陽はまだ出ていなかったが、夜は東側から明けていき、薄明が始まろうとしている。踊りやすいように軽装で来ていた男は足早に車へ戻ると、エンジンをかけることなく助手席から毛布を取り、包まれながら眠った。

 それからは週末になればクラブへ通い、音の中で踊る女の姿を探した。見つければ必ず声をかけ、それからバーに行き話し少しだけ一緒に踊る、を繰り返した。男にとっては踊っている時間がすべてだった。夜に染まって踊れさえすればよかった。

 女はここへいつも一人で来ているようだった。それも毎週末ではなく、二三週続けてくることもあれば、一月近くぱったりと来なくなることもあった。女がどんな仕事をして、どんな生活をしているのかは知らなかった。話すことは決まって音楽の話だけで、週末深夜の、ここでの姿以外は何も知らないでいた。

 出会ってから四か月ほど経った頃、男は出口で女を待っていた。春になり寒さも大分和らいだが、早朝の冷たさは薄着には堪え、手を手で抱くようにこすり合わせながら耐えていた。握った手に吐く白息しらいきからは、煙草の匂いがする。女が薄いラベンダー色のコートに身を包み、階段を下りてくる。

 男が女の前におずおずと立つと、女は笑顔で応じた。車で送ろうかと尋ねた途端、女の顔から笑みが消え、冷えた目にある気配が帯びる。男は胸に刺さるような感覚を覚え、踏み込みすぎたと勘違いした。咄嗟に下心ではないと表明しようと焦るも言葉が出ない。

「乗りません。お酒を飲んで運転するなんて最低です」

 女は駅の方へと去っていき、男は追いかけることができずにその場でたたずんだ。


 半年ぶりにクラブへ向かうなか、どうにも落ち着くことができずにいた。この半年、女に会うのが嫌でクラブを遠ざけていた。気を紛らわせようとステレオから流れて来るポップミュージックを口ずさむが、それも上手く続けられず二三小節歌うごとにぼうっとしてしまう。信号が赤に変わっていることに気付くのが遅れ、やや急ブレーキになる。何度もとおった馴染みの道は、今日ばかりはひどくよそよそしく、街灯や街路樹も男を拒絶するかのように見える。秋にもかかわらず汗をかいていた。

 途中、路肩に車を止め外に出た。煙草に火をつけ、大きく吸い、溜めてから吐き出す。街灯が黄色く照らす道路に男以外の人気はなかった。前も後ろも黄色い光だけが点々とまっすぐと伸び、あとは完全な闇だった。フィルターだけ残った煙草を踏み消し、車へ戻る。

 街に着くと小さな繁華街があり、ちらほらと歩いている人もいた。男はここらで一番安いコインパーキングに車を止めた。パーキングには他にも何台か止まっており、中で人が眠っているものもあった。

 繁華街を背にして歩き出す。立ち並ぶビルはどれも暗く、明りのついているオフィスは一つもなかった。白く弱々しい街灯は間隔が広く、照らされては闇に戻され、照らされては闇に戻され進んだ。月夜の海で、浮いては沈み、浮いては波に飲まれを繰り返しているようだった。

 しばらく歩くとぽっかりと明るい場所が現れた。白色ネオン灯で縁どられた看板には『the classical room』と書かれている。受付でお金を払い中へ入る。ダンスフロアは音と熱気で満ちていた。若い男女が高いBPMのダンスミュージックに合わせ、身体を激しく揺れ動かしている。内臓まで揺さぶるこの重低音が懐かしい。赤や青のライトがフロア中を走り回り、踊れと扇動している。フロア内にあるカウンターでハイボールをもらって、フロア後方に陣取った。DJブースの周りに人だかりができ、ひと塊となって鼓動していた。

 懐かしさはあったが、自分が異物であるような感覚が男の中にあった。そこはかつて男の生活の一部であったし、ここへ来れば再びそうなるという予感があった。しかし、満ち足りない気持ちは残り続けた。

 ハイボールを飲み切るとカップを捨て、フロアの中心まで行ってみようと思った。しかし、大きなひと塊まで近づくとそれ以上中には入らずに、外側に立つ。以前来ていた時も、中心までは行かずにこうして外輪そとわに加わっていた。それでも、当時は溶け込めていたし、ここの住人だと思えていた。今は、どこに居てもよそ者のようで落ち着かない。

 女を探し始めた。いないでくれとも祈っているようだった。DJブースを挟んで反対側から男のことを見ていた女と目が合った。男が気付くと、女は後ろへ下がり人込みに紛れて見えなくなった。

 追うことはしなかった。ただその場で、動くことなく聴いていた。懐かしい場所、懐かしい音、懐かしい人。懐かしいだけでそのどれももう、男のものではなくなっていた。

「みんなっ、まだまだ踊れるっ!?」

 DJがそう促すと、フロア中が奇声をあげ一段と狂ったように踊りだす。男はただ立って外側から眺めるだけだった。以前ここへ通っていた時感じていた、まとわりつく夏の暑さのような熱気はなかった。あの熱気は周りのものではなく、自分の中から湧き上がっていたものなのだろうか、それともよそ者になった今、感じ取ることができなくなったのだろうか。男はそんなことを考えていた。








「こんばんは、お久しぶりですね」

 忘れかけていた声が、後ろから僕に話しかけた。モノクロだったダンスフロアが色めき立ち、響く音楽は僕の内側を跳ね回り、僕ごとかき鳴らす。フロアを満たす音楽と僕のBPMが重なり、胸の中は膨らんだ拍動でいっぱいになった。振り返って見た彼女は、肩を上下に揺らし汗ばむ額はきらきらと輝いていて綺麗で、このステンドグラス色の時間を永遠のものにしたいと思う程だった。しかし、夜は必ず明けて朝が来る。だったら。


 さあ、今夜も染まりながら踊ろうか。

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