21.円舞
第139話 21-0.
「7年ぶりのニューヨーク、殿下はさぞ、お楽しみになさっておられたのでは? 」
侍従長の声が響いて、マヤは膝の上に置いた本から顔を上げた。
「石動大佐とも2年ぶりの再会ですからな」
イブーキ王立国際航空の特別機の機内、真向かいでニコニコと笑っている彼に、マヤはクス、と笑って反撃を試みた。
「勿論! 夜も眠れないほど、楽しみにしておりましたわ! ……だけど、じいだって」
彼の古風な、けれど仕立ての良いダブルのスリーピースのチョッキから覗いている銀の鎖を指差す。
「ほら。その、懐中時計の鎖はなあに? 」
侍従長はゴホンとわざとらしい咳払いをして、窓の外へ視線を逸らした。
そんな侍従長の様子がまた可笑しくて、クスリと笑ったマヤは、再び視線を膝の上の書物へ戻す。
本は、バイロンの詩集だ。
シヨン城にサマンサと一緒にドライブに行った、と言う涼子の手紙が切欠で求めた。
18世紀イギリス・ロマン主義を代表する、と言われるだけあって、上品且つ激しく、そして倦怠感と切ない憧憬を彷彿させる内容は気に入りはしたけれど、今、マヤが視線を落としているのは、それではない。
詩集に挟んだ、一枚の手紙。
涼子から届いた、一番新しい手紙だった。
『親愛なるマヤ
お元気ですか?
ええと。
申し訳ございませんでした。
涼子は先に謝ってしまいます。
以前、”毎月必ず1回はお手紙を交換いたしましょう”と約束して始めた殿下との文通、先月はとうとう、涼子から出す事ができませんでした。
お許し下さい。どうにも、仕事が詰まってしまい、徹夜徹夜の連続で……。
ああ、言い訳はやめましょう。
ついでに、杓子定規な文体も。
とにかくごめんね、マヤ。
……私も、軍服を脱いでそろそろ、2年が経とうとしています。
シビリアンの生活になって驚いたのは、その組織や人間関係が、封建的且つ非民主的、しかも所属する人々が皆、昔の日本人の如くよく働く事でした。
やっぱり世の中、実際に体験しないと判らないことは多いと、つくづく思いました。
ですけど、早いものですね。
ピカデリーサーカスのあの晩、まるで夢の様!
あの時の写真、私のオフィスのデスク上にちゃんと飾っています。
マヤは飾ってくれてますか?
(これは内緒ですけど、艦長の写真すら、飾っていませんのよ! )
そうそう、3月の国連総会、マヤ殿下にも度々ご尽力頂きました、いわゆる”世界連邦準備機構”発足決議総会で、非常任理事国イブーキ王国の特別代表としてステートメントを頂ける事になり、ありがとうございます。
私も、国連に出向して2年間、日夜成立を目指して頑張ってきただけに感慨が深いものがあります。
まして、その仕事の総仕上げをマヤが飾ってくれるなんて!
しかも、マヤと再会できるなんて!
今から楽しみです。
ああ、総会準備でお忙しければ、お返事は結構です。
代わりに、当日は、マヤの元気な、美しい顔を拝見させてください。
それでは、お元気で。
二人にとって思い出深い街、ニューヨークでお待ちしております。
涼子。
P.S.
男爵閣下には内緒で、またニューヨークでお忍びしましょうか? 』
マヤは、ふぅっ、と溜息を吐いて、瞼を閉じる。
眼を閉じれば、ピカデリー・サーカスの夜を彩ってくれた涼子の姿が、まるで昨夜の出来事のように鮮やかに蘇える。
そっと封筒を詩集のページとページの間に挟み、続いて裏表紙を開く。
そこには、1枚の絵葉書。
涼子が、昨年療養センター退院直前に送ってくれた。
写真の中の涼子は、ピカデリー・サーカスお忍びの夜、マヤを驚かせたファッションに身を包んで、まるで子供のようなあどけない笑顔を浮かべている。
その隣には、ダーク・スーツ姿の、小野寺。
レマン湖のほとりでのスナップを絵葉書にしたらしい、その写真の中の二人は、マヤが昔、ニューヨークの涼子の官舎で見たのと同じ、幸せそうな笑顔の涼子と、苦虫を噛み潰したように無愛想な小野寺だった。
その、笑顔で判る。
涼子は、過去を乗り越えたのだ、と。
深く、哀しい、きっと今でも時折疼くだろう傷痕を抱えながら、それでも涼子は、小野寺との愛を確かなものにしたのだ、と。
2年前なら、そんな写真を見たら、嫉妬に狂うだけだったろうけれど、今は、心の底から素直に、二人を祝福できる。
まるで自分のことのように、喜ぶ事ができる。
そんな自分が、たったひとつ、最後まで諦められなかったこと。
それがもうすぐ、叶うかも知れない。
侍従長にも誰にも、涼子にすら言ってはいないけれど。
今回の訪米は、それが一番の楽しみなのだった。
数時間後、国連本会議場に響く万雷の拍手の中、演壇に立ったマヤは、事務局席の正面中央、マクドナルド国連事務総長や副総長に並んで、事務総長付きエグゼクティヴ・スーパーバイザーとして、じっとマヤを見つめている涼子の姿を発見した。
”涼子様だ! ”
涼子は随分と髪が伸びた。
キラキラと輝くミラクルストレートは肩を越えて伸びていて、藍色の大人ッぽいスーツに薄い緑のスタンドカラーのブラウスという、いかにもキャリア・ウーマンらしいスタイルによく似合っている。
少しだけ小首を傾げて、時折目尻をハンカチで押さえながら、じっとマヤのステートメントを聞いていた。
”涼子様、ほんとうに、お元気そう。スーツもよく似合ってらしてよ”
鼻の奥が、つん、とする。
いけない、泣いては駄目、と自分に言い聞かせつつ腹筋に力を込めて、ステートメントに集中する。
”マヤは、涼子様のご忠告通り、父上の名代として一所懸命頑張ってます”
230以上の国と地域の代表が集う、おそらくは人類史上に輝く記念すべき今日、大会議場を埋め尽くす人々も、彼等の興奮も拍手も、数十台のテレビカメラも数百のストロボも。
そのどれもが、マヤにとってはこれっぽっちも重要ではない。
唯一人、涼子に自分の姿を見て欲しくて、自分の声を聞いて欲しくて。
ただ、その為だけに、今、自分はここに立っている。
そして実際、今の涼子はマヤだけを見て、そして優しい表情に奇麗な涙を溢れさせて、真剣に見、聴いてくれているのだ。
こんな嬉しい事はない。
「……この度の、世界連邦制度準備機構発足が、各国の勇気ある、そしてヒューマニズム溢れるご決断により無事決議される事を……。そして、それが宇宙平和建設の第一歩として、地球人類の、この宇宙の生きとし生けるもの全てへの愛の現われとして、後世にまで記念すべき決断と称えられる事を、心より祈念しております。……ご静聴、ありがとうございました」
マヤが最後の言葉を言い終えて、安堵の吐息を零した途端、本会議場は大きな拍手と歓声に包まれた。
スタンディングオベーションの嵐の中、マヤは、両手を顔で覆って肩を震わせている涼子から目を離せなかった。
続く本会議でも、世界連邦制度準備機構が一年後に発足することが全会一致で採択されると、マヤのステートメント以上の歓声が会議場の広大な空間に渦巻く。既に安全保障理事会でも理事国全会一致で機構発足は可決されており、手続きとして総会後にもう一度理事会が開催されるものの、この総会決議が事実上の、地球人類としての決断となった訳である。
実に、紀元後2400年を経て、地球と言う星が、初めて平和的~語弊があるのは否めないが~に統一されようとする、記念すべき大きな一歩なのだ。
人類史に残る巨大な決断が、この日漸く実現した、その原動力。
マクドナルドの70歳を越える老齢に似合わぬ情熱と理想実現への闘争心、そしてUNDASNから現職出向した涼子の、実務処理能力と外交能力、小手先だけではない、しっかりと地に足をつけた上で、誠心誠意、相手と心中する程の包容力と疲れを知らぬハードでヘヴィな粘り腰の交渉力、クールで怜悧な上に野生の勘が加わった天才的な戦略眼が、たった2年間で、国連加盟の230以上の国と地域を全会一致にまで纏め上げたという事実は、世界中の外交官や政治家、学者が口を揃えて賞賛するところであったし、マヤ自身も、今回の訪米前に受けた自国の外交アナリストからのレクチャーで知っていた。
本会議場はまさに、この歴史的な決断の場に居合わせた人々の興奮の坩堝と化しており、その中心で国連首脳や各国首脳から握手攻めに会っているマクドナルドの陰で、皆に背中を向けて肩を震わせている涼子の姿が、とても彼女らしく、マヤには印象的だった。
そんな歴史的な会議の場に立ち会いたことによる興奮さめやらず、事務総長席に殺到する会議参加者への応対に忙殺されていたマクドナルドが、やがて、ふと、握手を求め賛嘆の声を上げる各国首脳、各国代表に背を向け後を振り返り、何事かと驚く国連事務局スタッフの人垣を掻き分けて歩き出した。
何事だろうと、マヤやその場の全員が注視する中、マクドナルドは演壇の片隅へ早足で歩いていく。
その先には、涼子がいた。
皆に背中を向け、両手で顔を覆って肩を震わせる涼子の背後に立ったマクドナルドは、静かに、けれど万雷の拍手と歓声で沸き返る中でもはっきりと聞き取れる声で、語り掛けた。
「石動君。……いや、涼子ちゃん」
「ふぇ? 」
涙で頬を濡らした涼子が、しゃくりあげながら振り向く。
「じ、事務総長? 」
マクドナルドの声は、あくまで静かで、けれど力強い迫力に満ちているように、マヤには感じられた。
「ありがとう。この日を無事に迎えられたのも、君が国連へ来てくれたお蔭だ。よく……、本当によく、今まで頑張ってくれたな。ありがとう」
涼子は掠れる声で首を横に振る。
「や、やめて下さい、事務総長。わ、私なんか、そ、そんな」
マクドナルドは涼子の言葉に被さるように、大きくはないが力強く言葉を継ぐ。
「君がなんと言おうと、私は知っているさ、涼子ちゃん。君は、全身全霊でもって、今日、この会議を、いや、このプロジェクト全体を成功させた。大変だったろう? よく、頑張ったね」
涼子の瞳からボロボロと、大粒の涙が溢れだす。
「もう、泣かしちゃいやです。私、泣き虫なんですからぁ……。ううっ、うええ……。また、艦長に怒られちゃうよぉ」
「君の様な素敵で格好良いヒロインを叱る男なんかいないよ、涼子ちゃん。大丈夫。私が守ってあげるから」
「う、うえぇ……。うわああっ! 」
涼子はとうとう子供の様に泣きじゃくって、マクドナルドの胸に顔を押しつけた。
老人と孫を描いた1枚の絵画のようなその光景に、本会議場にいた人々は再び、感動の拍手を贈った。
本会議終了後の夕方、本部ビルで機構発足決議記念晩餐会が催された。
会場は、マヤにとっても思い出深い、大会議場『水晶の間』がその舞台である。
マヤはメインテーブルに案内された。マクドナルドとは隣同士の席であることも、あの夜と同じだ。
「マヤ殿下。先程の本会議は、お疲れ様でございました。大変立派なステートメントに、感銘を受けました」
「まあ、事務総長閣下。お褒めに預かり光栄にございます」
優雅に挨拶を交わしながら、マヤはゆっくりと同席の人々に笑顔を向け、最後に、マクドナルドとは反対側の自分の隣が空席である事に気付いた。
「? 」
あれ、どなたがいらっしゃるのかしら?
そんな表情が顔に表れたのか、マクドナルドが横から、どことなく楽しげな口調で言った。
「ああ、その席の主でしたら、もうそろそろ……。ああ、参りましたな」
マクドナルドが微笑みながらそう言った瞬間、会場から大きなどよめきが上がった。
「! 」
驚いたマヤが、何事とばかり視線を巡らし、全員がエントランスを注視しているのに気付いた。
視線を向けて、今度こそ、マヤは心の底から驚いた。
まるで、童話のシンデレラ姫か白雪姫の挿絵から抜け出したような、この世のものとは思えない程、美しく輝いているドレスの女性がゆっくりと入場してきたのだ。
マヤは思わず立ち上がり呆然と呟く。
「嘘! ……りょう、……こ、さま? 」
艶やかに纏め上げられた黒髪にはティアラかと見紛うような煌めく宝石を鏤めた上品なヘッドドレスをいただき、頬を赤く染めた涼子が、スカートの裾を持ってゆっくりと歩いてくるのだ。
思わず立ち上がってしまったマヤに倣い、出席者全員が立ち上がり、拍手で迎える中、涼子は照れ臭そうに頬を赤く染めながら、ゆっくりと歩いてくる。
涼子はとうとう、マヤのいるメインテーブルにやってきて優雅に、可愛く礼をする。
そしてマヤの方をみて、にっこり微笑んでペロッと舌を出した。
薄っすら、桜色に染まった頬が、ドレスによく似合っていた。
「マヤ殿下、おばさんがなんて格好、なんて笑わないで下さいましね? 」
そして席についてから、開口一番事務総長に噛みつく。
「もう、事務総長! パーティドレス貸してくれるっていうから私、ワクワクしてたんですよっ! なのに、もうすぐ33才になっちゃうってのにこんなフリフリ、ましてや、本物のお姫様の前で着せられるなんてもう、これじゃぁまるでピエロだわっ! 」
マクドナルドは悠揚と笑いながら答える。
「いやいや、涼子ちゃん。よく似合ってるよ。だいたい、以前涼子ちゃんはボヤいてたじゃないか? UNDASNの礼装キライ、みんなが着てる可愛らしい豪華なドレスが着たいって」
「うぐ」
「それにこのドレスは私と妻が二人で選んだのだが、そうか、涼子ちゃんが気に入らないと聞いたらきっと」
「さすが奥様、素敵なセンスですわ、私も一目でこのドレスの虜になっちゃいました」
綺麗に掌を返して可愛らしいドヤ顔を見せている涼子に、傍らからマヤは話しかけた。
「涼子様……。私、びっくりしました。素敵。まるで、ヴィーナスのよう」
「ま、マヤ殿下ったら! おばさんをからかうものじゃありませんことよ! 」
パーティが始まると、まるで2年のブランク等始めからなかったかのように、涼子とマヤは話が弾む。
文通のおかげでもあり、そしてお互い、基本的な人間関係が出来ているからでもあった。
「で、涼子様。閣下とは仲良くしてらっしゃるの? 」
「えー……? まあまあ、かな? 」
「まあまあって……」
苦笑いを浮かべていた涼子の表情が、まるで拗ねた子供のようにぷぅっ、と膨らんだ。ふっくらと可愛らしい唇が、アヒルみたいに突き出されていた。
「だって艦長、忙しいんだもん! ……今日だって、急な出張だって、冥王星に行ったまま帰ってこないし」
マヤが驚きの声を上げる。
「帰ってこない……、って! まさか、涼子様? 」
「ちちちち違います! い、家は別々よっ! 」
「嘘くさーい」
「ほんとです、まだ別々なんですってば! 」
「ほうほう、『まだ』なんですのね? 」
「あうぅ、い、意地悪だもの! ……そう言うマヤこそ、そんな想像するなんてオバサンくさいわっ! 」
「まあ! 涼子様こそ酷いわ! 」
賑やかなものだ。
宴も進み、ダンスタイムとなる。
マヤと涼子にダンスの申し込みが殺到し始めた。
涼子も、国連出向後、ますますこういったパーティの機会が増え、昔ほどダンスも苦手ではなくなったし、今日だって12cmピンヒールだが、ステップもしっかりしたものだった~後で聞いたら、やっぱり時々、転ぶらしい~。
宴も半ばを過ぎ、ダンスも一段落し始め、マヤは吐息を零しながら席に戻ってきた。
「あー、疲れた! ……ねえ、涼子さ……、ま……。あれ? 」
マヤが隣りの席の涼子を見ると、マヤとは逆に立ち上がっている。
「どうなさったの? 」
涼子はマヤにウインクを送って答えた。
「誘われちゃった! こんなおばさんでもいいんですって! 」
涼子の隣で、マクドナルドが悠揚と微笑んでいた。
「涼子ちゃんとでないとイヤだ、と駄々を捏ねてみました」
悪戯小僧のようなマクドナルドの笑顔が、可愛く見えた。
チャイコフスキーの”花のワルツ”が始まり、会場は涼子とマクドナルドの独占になる。
出席者の全員が、今回の世界連邦制度準備機構発足の立役者二人のダンスを温かい視線で見守る。
実の孫を見るような慈しみ深いマクドナルドの表情、尊敬する祖父を労わるような涼子の美しい表情、後で出席者の某国高官の1人は、陶然とした表情を浮かべてコメントしたものだ、「あれはまるで、神と天使の聖なる祝福の舞いの様だった」と。
マヤは2人のダンスを、出席者同様、これまでの2人の情熱的な”戦い”と思い合わせて微笑ましく見守ると同時に、複雑な思いも感じていた。
”私だって、バッキンガム宮殿でラストダンスのお約束をしていたのに……。でも、今日の、お姫様のような涼子様とじゃ、踊れないわね”
溜息にちょっぴり悔しさを混じらせて密かに零し、反面、実際に元気な涼子と会えて、楽しく談笑できただけでも良いか、という諦めにも似た思いで自分を慰めながら2人を見ていた。
曲が終わり、会場中の温かい拍手を浴びていた2人だが、涼子はそのまま、オーケストラの指揮者のところへ行って、何やら耳打ちしてる。
「? 」
そして、涼子はそのまま、会場を出て行ってしまった。
”どうしたんだろう? 涼子様……。また、急なお仕事かしら? ”
10分程して、再び涼子が現れた時、マヤは心臓が止まるのではないか、と思う位驚いた。
再び会場に姿を現した涼子は、UNDASNの零種軍装をその身に纏っていたのだ。
「涼子様」
マヤは思わず立ち尽くし、呟く。
その黒い瞳から大粒の涙が零れて頬を濡らした。
確かに、女性同士である涼子とマヤがペアでダンスするには、涼子のUNDASN礼装がまさに騎士の様でピッタリなのだ。
そして、それは涼子とマヤの記念すべき出会いの時の服装だった。
そして、同時にマヤは気付く。
しかし、涼子にとっては、それは同時に悪夢の記憶の服装ではないのか?
ロンドンの、あの舞踏会の日、涼子はバッキンガム宮殿からあの礼装のまま拉致されズタズタに引き裂かれ、挙句の果てに、命の危機まで冒して隠し続けてきた屈辱の過去を汚れた手で引きずり出され、それが為に地獄の療養生活を送る羽目に陥る切欠となった、呪うべき服装ではないのか?
涼子様は、いったい。
マヤは、涙と涼子への想いで息を塞がれたような苦しさを感じながら、思う。
涼子は、マヤとの約束を果たす為に、どんな思いであのドレスを着たのか?
マヤは改めて、涼子の強さと、相手を包み込む大きな愛を感じた。
手術室前の暗い喫煙コーナーでの彼の言葉が脳裡に浮かんだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、涼子様! ……私、涼子様のそんな気持ちも考えずに、我侭な事を」
止めど無く溢れる涙を拭おうともせず、マヤはゆっくりと近付く涼子を呆然と見ている。
ついに、涼子はマヤの前に立ち、ニッコリと微笑んで言った。
「どうしたの、マヤ? ……私の泣き虫がうつったのかな? 」
そう言ってハンカチを出し、マヤの涙をそっと拭ってやりながら言葉を継いだ。
「ごめんね、マヤ。いつも待たせてばっかりで……。でも、今日でやっと約束が果たせるわ」
そして、目も醒めるような鮮やかな敬礼で~たぶんそれは、涼子自身にとっても2年振りの”敬礼”だったろう~口調を変えて言った。
「マヤ・ハプスブルク・ゲンドー・シュテルツェン2世殿下。不躾ながら、ラストダンスのお相手を願えませんでしょうか? 」
マヤはとうとう、両手で顔を覆って泣いてしまった。
声を殺そうとするが、堪えきれずに嗚咽が洩れる。
涼子は優しくマヤを抱き締めて耳元で囁いた。
「さあ、もう泣かないで。マヤ、笑って? ……私の、本当の再出発のお祝いだから、ね? 」
マヤは涙で濡れた顔を上げる。
「再……、出発? 」
涼子は肯いて言葉を継ぐ。
「そう……。私、ニューヨークに来てからも、やっぱり時々夜中に魘されて……。自分で自分を抱き締めて寂しさと恐怖と悔やんでも悔やみきれない過去を呪う事もしばしばだった。そんな私を癒してくれたのは……。艦長と、マヤ、あなたよ? さあ、だから一緒に踊って? 私の可愛い妹」
マヤは涼子に抱きついて暫くは肩を震わせていたが、やがて決然とした表情で顔を上げ、そして涙を拭って頷いた。
「お姉さま、踊りましょう。いざ」
涼子はニッコリと微笑んで手を差し伸べた。
その瞬間、7年前のあの曲、ヨハン・シュトラウスⅡ世の”青く美しきドナウ”が始まる。
それまで2人を注視していた出席者から温かい拍手が起こる。
会場中央で円を描き始めた2人は、まるでその場に彼女等以外の人々がいないかのように、華麗に舞い始める。
踊りながら涼子がマヤの耳元で囁いた。
「マヤ」
「なあに、お姉さま? 」
涼子は、婉然と微笑んで囁いた。
「お楽しみはこれからよ! 」
ニッコリ笑って頷くマヤの輝かしい表情を見ながら、涼子は胸の内で、愛しいひとに囁きかける。
そうだよね、艦長?
お楽しみは、これから、なんだよね?
だって、二人で決めたんだもん、ね?
囁き続けながら、まわる。
円を描く。
ああ、私と艦長、二人と同じだわ、としみじみ思う。
二人、出逢って、離れ離れになって、だけど結局、ここで二人の円は重なる事が出来た。
同じところ、遠く離れた違うところ、お互い勝手な円を描き続けてきたように思えたけれど、だけど。
それもこれも全部、全部。
二人が繋がり、そして最後には重なる同じ円を描く為に回り続けてきたのだとしたら。
哀しかった日々、辛かった日々も、そんな長かった時間も全て、大切な、大切な、煌く宝石だったと愛惜しくさえ思える。
私、恋、してて良かった。
私、生きてて、良かった。
だってこれからは、二人、どんなに回り続けたって、艦長と同じだから、同心円なのだから。
そうして生きていこうと、二人だけで決めたんだから。
「私、幸せだよ? ……艦長? 」
思わず零れた涙と吐息にマヤは気付いたようだったけれど、それでいい、と涼子は思った。
踊り続ける円運動の中で、微かに動く唇が、ちょっぴり照れ臭い『ラブソング』を口ずさんでいることまでは、気付かれてはいないようだったから。
そう、それは。
二人だけの、ラブソング。
幸せだよ。
幸せだ……、と、リフレイン。
さすがに、冥王星までは生中継はされていないだろうけれど。
会場内に林立している、世界中のマスコミのテレビカメラが、今、自分達を捉えているんだから。
きっと、きっと、艦長にも届くはず。
音声までは拾えなくたって。
きっと、きっと、艦長に、このラブソングは届くはず。
だって。
マヤの背中に回した手で、私は歌詞を『口ずさんでいる』のだから。
二人の、いつもの、言葉で。
照れ屋さんで、無愛想で無口な彼が、その言葉なら普段より饒舌になってくれるから。
だから私は、口ずさむ。
モールス・コードで。
私の、指で。
二人だけの、ラブソングを。
モールス・コードで、愛を。
幸せだよ。
幸せだ……、と、リフレイン。
このラブソングはけれど。
けっして、フェードアウトすることなど、ありませんように。
心より、心の底より、希い、祈る。
~Fin~
モールス・コードで、愛を ~地球防衛艦隊の職場恋愛~ おだ しのぶ @oda_shinobu
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