第138話 20-6.
車がレマン湖周回道路を走り出すと、療養センターまではもう、すぐだ。
そう。
もう、すぐ、ね。
自分を納得させるように、小さくコクンと頷いて見せると、隣で小野寺の声が聞こえた。
「へえ……。こいつぁ」
彼にしては珍しい感慨深げな口調に、サマンサは思わず頬を緩めた。
「サナトリウムには持って来いの立地でしょ? 」
サマンサは自分の口調が少しだけ自慢げになっているの気付き、密かに頬を染める。
「私、予備役にでもなったら、ここでペンションでも経営しよっかな」
料理できないけど。
「馬鹿も休み休みに言え、お前の経営するペンションなんて、おっかなくって客なんて来ないだろうよ」
彼が窓の外へ顔を向けたまま、言う。
「私がおっかなくて乱暴なのは、アンタにだけよ! この馬鹿! 」
言ってしまってから、サマンサは後悔する。
そうなのだ。
私は、昔からそうだった。
……そう。
そして、今でも。
今でも、私は、この馬鹿にだけは乱暴で。
この馬鹿にだけは、乱暴な自分を曝け出すことが出来て、そしてこの馬鹿は乱暴な自分を許してくれて。
そんな馬鹿な私を。
今も、昔も。
この、馬鹿は。
「だいたいお前、料理出来ないだろ? 」
彼のこんなぶっきらぼうな、けれど自然な優しさが、こんなに痛い。
だって、判るよ。
あんたはさっきから窓の外ばっかり見てるけど。
ちゃんとガラスに映ってるもの。
アンタの、無表情じゃない、情けなさそうな顔。
自分を責めている時の、表情。
私を思い遣ってくれてる時の、表情。
そんな懐かしい表情は、今となってはもう、思い出の中にしかない。
だから、余計にアンタは優しいんだって、こと。
いつだってアンタは私にだけ優しい、そう思ってた馬鹿な私には、もう後悔することしか出来ない。
だから、本当の大馬鹿は、アンタじゃなくて、私。
療養センターへの曲がり角が見えてきた。
助かった。
これ以上一緒にいたら、私。
ウインカーを出そうとして、その時サマンサは気付いた。
療養センターへ曲がる道の角、なんでもない湖畔の自然公園の片隅。
ウインカーに伸びた手をそのままもう少し伸ばし、ハザードを点灯させる。
小野寺が、已む無く、と言った感じでこちらへ顔を向けた気配がする。
「どうした? 」
もう、仕方ない。
最早ここまで。
サマンサはコツン、と音を立てて、ステアリングに額を乗せた。
「サム? 」
気遣うような、少し戸惑ったような、彼の声。
これも、最後か。
まったく自分らしくない、見っとも無い未練を溜息に込め、その反動を利用してゆっくりと上体を起こす。
「あんたは、ここで降りるの」
言いながら、レマン湖畔に顔を向けた。
彼も釣られてそちらを見る気配。
「行ってあげなさいな」
せめて、引き際だけは、私らしく。
「あの
笑え、私。
それが唯一、アンタの心の片隅に私が残る方法なのだから。
それが唯一、私が私らしく、私が私で居続ける為に必要な手段なのだから。
「それは、あんたとの、ハッピーエンドだけ」
上手く笑えただろうか?
全然自信がなかったけれど、仕方ない。
そう。
それだって、これだって、結局は『仕方ない』で片付けるしかないのだから。
『仕方ない』で片付けられる程度の、ことなのだから。
「サム……」
彼の黒い瞳に映る自分は、照れ臭そうに笑っていた。
「ごめんね、なんか」
思わず微笑む。
今度はちょっと、自信がある。
「ちょっと、らしくなかった……、よね? 」
彼はじっとサマンサをみつめ、優しく微笑んだ。
ああ。
好きで、好きで、仕方なかった、スカル・フェイスな彼が、滅多に見せない、けれどたまに見たら、幸せで涙ぐんでしまいそうなるほど大好きな、微笑。
「……案外、そうでも、なかったけどな」
彼は言い捨てるように、すぐにシートベルトを外し、助手席のドアを開いた。
こんな私を見ないでいようとしてくれる、彼が、好き。
ああ、大好き。
こんな馬鹿で、我儘で、ガサツで乱暴者の私を、理解しようとしてくれて、理解できたところも理解できなかったところも、全部、全部ひっくるめて温かく包んでくれた、アンタが、大好き。
だから。
早く、行っちゃえ。
小野寺は、車の外へ降り立つと、ドアを閉める寸前、手を止めた。
「サム。今回は、お前には本当に世話になった。ありがとう、な」
彼の表情は、見えない。
ああ、もう、この馬鹿!
でもこれだって、彼の優しさなんだわ。
これ以上、甘えてちゃ、駄目。
「この馬鹿野郎! アンタの方が、らしくないっての! 早いとこ、行け行け! 行っちまえ! 」
サマンサは真っ直ぐ前を向いたまま、大声で叫ぶ。
少し湿っぽい声になってしまった。
ああ、格好悪い。
彼がゆっくりと、車の前を回って公園に、涼子に向かって歩き出す。
ああ、行っちゃう。
彼が。
好きで、好きで、たまらなく好きで、あの日からずっと、別れてからもずっと好きだった、彼が。
このまま行かせて良いの?
大好きだった彼は、もう二度と戻らないかも知れないというのに。
ええ、そうね。
だから。
このまま行かせなさい。
それが、サマンサらしい、サマンサなんだから。
鬩ぎ合う二人の私に板挟みになって、胸が痛い、息が出来ない、心が苛立ち、ざわめく。
訳が判らなくなって、サマンサは殆ど無意識のうちに、窓を下ろす。
ゆっくりと下りるガラスの、そののろさに苛立ちながら、サマンサは大声を上げていた。
「あ! 待って! 忘れてた! 」
彼が足を止め、ゆっくりと踵を返す。
しまった、と唇を噛む。
哀しくて、情けなくて、この後がもっと辛くなるのに、切なくなるのに。
だけど、嬉しくて。
この刹那だけは、私だけを見てくれている彼であることが、たまらなく嬉しくて、恋しくて。
ああ、そうさ。
自分でも、嫌になるくらい判ってる。
刹那主義だと、笑う奴は笑え。
「どうした」
大きく一度だけ、深呼吸。
せっかくだ。
人生最高の笑顔を見せろ。
「ごめん。ひとつ言い忘れてたわ」
サマンサは、ドレスブルーのジャケットの内ポケットから、プライベートで買って使っている小型のスケジュール帳を慌てて引き摺り出した。
仕事のスケジュールは携帯端末のスケジューラで副官が管理してくれているから、これは本当のプライベートなスケジュールしか書き記していない。しかもこの歳でこんな立場だ、友人たちとの遊びや飲み会などがそうそう頻繁にある訳でもなく、記入されているのは気になる本の発売予定日だとか公共料金の支払いだとか、そんなのばかり。
それでも、これがサマンサにとっては手許に残された最後の武器となる。
「なんだ? 」
訝しげな彼の声に、サマンサはナムサンと呟き~それこそ、彼が昔よく呟いていた言葉だ、仏教の経典に出てくる呪文で『運を天に任せる』的な慣用句、らしい~適当なページを開いて彼の顔のほうに向けた。
「ここ、ここに書いてあるんだけど」
ちらりと見ると、それは昨年の秋辺りのページ。手書きの走り書きで、自家用車の定期点検やら冷蔵庫の修理やらの文字が見えた。
かまうもんかとサマンサは手帳のページを彼の顔のほうに向けた。
不自然に思われぬよう、彼の顔に近過ぎず、遠過ぎずの位置で。
彼が少しだけ眉を上げ、顔を手帳に近づけた。
よし、いいぞ。
何気なく、さりげなく。
それがせめてもの。
「これは極秘なんだけど、さ。……ちょっと、ほら、ここのこれ、読んでみて? 」
彼はちらりと訝しげな視線をサマンサにちらりと向けた後、無言で頷き、腰を屈めて開いたページにゆっくりと顔を近付けた。
ああ、なんて彼は。
こうも優しいのか。
「見た? 」
「おう……。けどお前、相変わらずの悪筆だな、読めんぞ」
やっぱりコイツ、判ってるんだ。
だって、判るよ。
哀しいけれど。
大好きな、この馬鹿のことだもん。
だって、あんたは、初めて逢った時、悪筆だなとか憎まれ口を叩きながらも、ちゃんと報告書、読んでくれたじゃない。
「これは、ね。ちょっとした暗号なんだ」
「なるほど」
「ここに書かれた、本当の意味、はね? ちょっと、耳、貸して」
彼は今度も素直に、顔をサマンサの方へ寄せた。
最後まで、コイツったら、馬鹿。
馬鹿のふり、最高。
だったら私も、しくじるな。
後がどんなに惨めでも。
今、彼の手向ける最後の花束を、この瞬間だけは格好良く。
サマンサはそっと手帳を下ろし、代わりにゆっくりと窓から顔を出した。
彼は横顔を向けている。
視線は、不自然なほどに真っ直ぐ前を、ドアミラーを見つめている。
ああ。
こんな距離で彼を見ることなど、もう、二度とない。
だから、今、泣くな。
そっと両手を彼に伸ばし、頬に手を添え、顔をこちらに向けた。
これっぽっちの抵抗もない。
不自然だった彼の視線は、今は真っ直ぐと私の顔を見つめている。
頬から手を放し、そのまま伸ばして彼の首に緩く、巻き付けて。
近付く、彼の顔。
彼の瞳に映る、私の顔が、大きくなる。
彼の吐息が頬を、耳朶を優しく撫でる。
ああ、私ったら。
なんて恋、しちゃったんだろ。
思わず自分自身に呆れ、そして苦笑を浮かべてしまう。
苦笑を浮かべた勢いで、サマンサは一気に唇を彼の唇に重ねた。
彼の瞳が、驚いたように見開かれたのを確認しておいて、ゆっくりと、瞼を閉じる。
五感全てを使って、最後の彼を、ゆっくりと味わう。
彼の吐息、私の震える溜息。
彼の鼓動、私の乱れる血流。
彼の香り、私の涙の匂い。
全てのランデブーが、これで、最後。
本当に、最後。
だから、せめて。
せめて、後五秒。
最後の五秒をゆっくりとカウントダウンし、サマンサはゆっくりと彼から離れる。
遠ざかる彼。
さようなら、馬鹿野郎。
アンタより大馬鹿野郎な私より、愛を込めて。
どうか、幸せに。
痺れるような最後のキスは、まるでハイスクール時代のようなそれだったけれど。
最高に感じる、キスだった。
「忘れ物は、以上よ」
彼がゆっくりと瞼を持ち上げる。
黒い瞳に映る私は。
よし。
泣いてない。
よく我慢した、私。
だから、後少し、もう少しだけ、頑張れ。
「アンタ、ほんっとに、馬鹿だねぇ。こんな手になんか、小学生でも引っ掛からないわよ。あは、あはは」
けれど彼は笑わない。
「サム」
笑わない、彼らしい彼に、サマンサは微笑む。
「最後まで目、瞑っていてくれて、ありがと。……アンタ、馬鹿だけど、優しいもんね」
ほんとに優しいわ、アンタって。
だから私が、こんなに馬鹿みたい。
そう思った途端、両目からボロボロッと大粒の涙の滴が零れた。
涙が零れた途端、想いが堰を切って溢れ出した。
堰き止めようとして堰き止めきれず、想いは涙と共に格好悪く、唇から零れる。
「好き……。ほんとに、好きだ……。アンタと別れてからも、今日までずっと……、好きだった……」
なんて、格好悪いんだろう、私。
なんて恋しちゃったんだろう、私。
全部、全部、私が悪い。
サマンサは両手で顔を覆い、言葉を継ぐ。
「ごめんね、こんな時に……、こんな事言って……。キスなんかしちゃって……」
ごめんね、アンタ。
ごめんね、涼子。
そして、ごめんなさいね、私。
「ああ、もしも後で涼子と揉めたら、私に言って。ちゃんと謝るから、だからアンタ、心配しないでいいわよ」
「サム」
サマンサは彼の言葉を遮る様に、手を下ろして、泣き笑いの表情を彼に向けた。
「言わないで! ……だめだよ、言っちゃ」
彼は、サマンサの期待通り、口を噤んでくれた。
今のうちだ。
これ以上は、もう、駄目だ。
そう考えたら、自然と笑顔を浮かべる事が出来た。
「痺れたよ、最後のキス」
サマンサの足は、半ば無意識のうちに、フューエル・ペダルを踏んでいた。
バックミラーに映る彼の立ち尽くす姿に、思わずブレーキへ移ろうとする足を叱りつけ宥め透かすうち、車は漸く療養センターへの曲がり角に到る。
早く彼から遠ざかりたくて、ステアリングを切りながら倒したつもりのウインカーは、普段アメリカで乗っているレクサスとは反対側に位置するワイパーで、忙しなく眼の前で窓が拭かれ始める。
慌てて車を停車させた位置から、幸い彼の姿は見えなかった。
「ほんとに……、あのバカ……! 」
キスの途中、もしも彼が瞼を開いていたら、果たして自分はこんなに素直に彼を手放すことが出来たのか、サマンサは自信がなかった。
だからこれも、きっと。
彼の、優しさなのだろう。
「最後まで優しいんだから……」
ワイパーは動きっ放しだった。
止める気など、なかった。
確かに、柔らかな陽射しが車内にも射しこんで来るけれど。
それでも、雨、降ってんだもん。
だって、視界は、潤んでいるんだもの。
これ、さぁ?
雨、だよね?
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