第137話 20-5.
「山と湖の国、スイスへようこそ! 」
スイスの首都はベルン、よってUNDASNの駐在武官事務所もベルンに設置されていて、ジュネーヴには武官事務所管轄下にある監督官事務所しかない。
ボールドウィンから急なスイス出張を命ぜられたときは、何故ベルンじゃなくてジュネーヴなのか、首を傾げながらチューリッヒに降り立ったのだが。
チューリッヒ空港で出迎えのVTOLに乗り継いで、ジュネーブ監督官事務所の屋上VTOLポートに接地した
同時に、何故ジュネーヴなのか、その疑問も解けた訳だが。
ドレスブルー姿の、おそろしくセクシーな美人が、ブロンドを強風に靡かせて立っていた。
そのセクシーな外見には似合わない、腕白小僧のような、それはそれは見事な笑顔が眩しくて、小野寺は思わず憎まれ口を叩く。
「なんだよ、またお前か。それ、お約束か? 」
俺もつくづく、捻くれ者だ。
そして、この
自分と彼女へ向けて大きな溜息を零しながら歩み寄った小野寺を見て、サマンサはこれまた、それはそれは見事なほどに、口をへの字に曲げて見せた。
「なによ、馬鹿。こんな素敵な街に来て、ご機嫌なお天道様の下美味い空気吸って、その上こんな美人に出逢えたってのに、その溜息はないんじゃないの? 」
サマンサの噛み付くような言葉に、小野寺は昔を思い出して苦笑を浮かべる。
「あー、判ったからそう噛み付くな。ええと、それじゃあ、スイス観光省のキャンペーンガールと思った、とでも言っておきゃいいか? 」
への字を上下反転させて大きく頷いた後、サマンサは腕を組み、鼻から太い息を吐き出す勢いで言った。
「似合わない愛想、振り撒くな! アンタみたいな馬鹿、涼子にだけ愛想良くしてりゃいいのよっ! 」
どうすりゃいいんだよ、ったく。
肩を竦めて、そのまま左手をゆっくり上げると、何も言わないのにサマンサはスッと彼の腕の下へ自分の肩を入れて、揃って右足を踏み出した。
声だけ聞いているといつ掴み合いになるかと言うくらいの遣り取りの後、一転、無言で行われたこの行動を見て、例えばこの
そんな未来も、あったのだろう。
けれどそれは、今更考えても詮無い事で、自分だってあの時はそれが一番二人にとってベターな選択だと考えて別れを選んだのだし、それは彼女だってそうだろう。
そして俺は今、違う未来を選び、そして少なくとも現時点では、後悔はしていない。
ただ。
隣で身体を触れ合わせている、この眩しいほどに美しい、そして天才的な医学者で、けれど姉御肌のきっぷの良さと竹を割ったようなさっぱりとした性格、その癖、ふと見せる繊細な女性らしさとあどけない可愛らしさを併せ持つ女性との、『あったかも知れない、日々』を想像する事だって、別に許されざる禁忌、なんてほどのことでもない筈だ。
そう言うことだと、思う。
だとしたら、やっぱり俺はこいつの言う通り、馬鹿野郎なんだろうな。
「もっとチャッチャと歩けないの、馬鹿」
サマンサの声に彼は我に帰る。
「ったく……。なんでお前はそう、いつも喧嘩腰なんだ? 高血圧か? 」
「更年期障害、って言わなかっただけ、誉めてあげるわ! 」
やって来たエレベーターに彼を押し込んだサマンサは、そう言い返してニシシと笑った。
「監督官に挨拶しとくか……」
そう言って停止階ボタンに手を伸ばしかけた彼をサマンサは制止した。
「監督官も監督補佐官もお出掛け。さっき私が総務班長に仁義切っといたからいいわ。だから、すぐに出発しましょ」
まあ、構わないが。
だから小野寺は無言のままでいた。
二人は、それでいい。
レンタカーらしいの型落ちのトヨタクラウンは右ハンドル、その助手席へ彼を乗せた後、サマンサは運転席へ回る。
「アンタ、ちょっと太ったんじゃない? あー重かった」
サマンサはだるそうに言いながら、運転席に収まり、シートベルトに手を掛けた。
「そうか? ……まあ、そうかも知れんな。結局一ヶ月、食っちゃ寝だったからな」
ふふんとサマンサは鼻で笑い、けれど、一向に車を発進させようとはせず、ポソリ、と呟くように言った。
「で? 怪我はどうよ? 」
サマンサは、ステアリングに両腕を凭れかけさせて、チラ、と彼を見る。
彼の怪我は、公式には『正体不明のテロリストの銃撃による負傷』となっており、その真相を知るものは目撃者以外にはマクラガンや新谷達一部の将官とサマンサだけだ~ついでに言えば、涼子も同時に重傷、武官補佐官は殉職、というのが報道発表された内容だった~。
広報部のマスコミ・コントロールは今回も上手く働いているようで、当分の間~数ヶ月か数年か、数十年か、それとも永遠なのか~は安心していられるだろう。
涼子が狼藉を働かれるシーンが、ライブではなく録画だった事が幸いした訳だ。
そんなことをぼんやり考えながら、小野寺は座席を一杯まで後に下げ、背凭れに身体を預けながら煙草を咥える。
「ああ、うん。まだ痛い。左腕が思うように上がらなくてな。胸も、大きく呼吸したら疼くし。それに左足も時々、痺れるんだよな」
サマンサはクスリと笑って、いきなり彼の銃創部がある筈の左胸を略綬の上から思い切り叩く。
「ぐわっ! 何しやがる、バカ! 」
呻きながら罵ると、それに倍する言葉が勢い良く返って来た。
「バカバカ、言わない! アンタよりは賢いんだからっ! 」
そう言ってサマンサは、彼の口からひょいと煙草を摘み取り、自分の口に咥えて言葉を継ぐ。
「ちょっともう、情けなさすぎない? あんた、それでも軍人? 」
シガーライターで火を吸い付けながら、サマンサは怒り口調で続けた。
「普通はさ。どう? って訊かれたら、嘘でももう大丈夫だとかなんとか答えない? 泣き言は涼子にだけ言ってろっつーの! 」
彼は新しい煙草を取り出し、火を吸い付けながら答える。
「お前こそ馬鹿か。撃った本人に泣き言なんぞ言える訳、ないだろ、ったく」
サマンサは、アハハハと短く笑い、確かにそうだわと呟いて、漸く車を発進させた。
そろそろいいだろう、俺が今日、ジュネーヴへ呼ばれた理由を教えてもらっても。
小野寺は、チラ、とステアリングを握るサマンサの横顔を見ながら思った。
VTOLを降りた時にサマンサの姿を見て、だいたいの想像はついていたのだが、やはり、彼女の口から直接、聞きたかった。
「そろそろ本題に入ってもらおうか、サム」
質問に答えず、サマンサは無言のまま、スロープの出口で左右を慎重に確認している。
慎重な割には、指示器を出す出す際、ワイパーとウインカーを間違えて窓を拭いていたが~たぶん、自家用車は左ハンドルなのだろう、そう言えば昔、レクサスが好きだと言っていたのを思い出した~。
こいつがこう言う態度を取るときは、大抵機嫌が悪いんだ、と小野寺は諦めて口を噤む。
道路に出て、巡航に入ってからサマンサは漸く口を開いた。
「ちょっと、
「ハイハイ。姫のご随意に」
サマンサはチラ、と彼の表情を見て、悪戯ッぽい口調に切り替える。
「それとも何かな? 閣下は1秒でも早く涼子に会いたいのかな? 」
流石に彼は憮然とする。
「馬鹿言ってんじゃない」
「そうよねえ? ……わざわざ、このミス医療本部がお出迎えしてやってるんだもん、朝飯くらい付き合ってくれるわよねえ」
「ミス? いつから? ミステイクの間違いじゃねえの? 」
「おーさぶ! オヤジギャグってやあねえ! あはははは」
機嫌がいいんだか悪いんだか。
彼は肩を竦めて、視線を車窓に移す。
車は15分ほどでジュネーブ市街を抜け、レマン湖周回道路に入るとすぐに、脇道に折れた。
白樺の木々の向こうに、チロル風のコテージらしい建物が見えてきた。
背後の白い15階建てほどの建物がホテル本館で、手前のコテージがサマンサの目指すレストランらしい。
「ここの朝ご飯、美味いんだよ。特に焼きたてパンが最高なの! アンタも食べるでしょ? 」
「ん」
二人は、屋根まで拭き抜けになった木造レストランに入り、ブナや白樺の林をのぞむ窓際に陣取ってオーダーした。
時間的に朝食時を過ぎ、客は少なかったものの、ジュネーブでは珍しいUNDASNの制服、ドレスブルーのカップルに店内の視線は自然と集中する。
が、サマンサは頓着せずに健啖ぶりを発揮し、パンもお替りする程の勢いだった。
確かに美味いパンであったが。
「なあ、サム」
小野寺はコーヒーを飲みながら呆れたように声をかけた。
「いつからそんな大食いになったんだ? ……太るぞ」
「いーのよ、太ったって、もう。医学的に見ても私くらいの年齢だったら、も少し太った方が健康にいいのよ! ……あー、食った食った。あ、ちょっとすいませーん! コーヒーお替りねー! 」
サマンサは昔から、なんでも美味しそうに食べる。
今も彼の眼の前で、ブルーアイをきらきらと輝かせて、焼き立てのクロワッサンをほんの二口ほどで消失させてしまっている。
この抜群のスタイルの、何処へあの大量の食物は消えたのだろうか?
「じゃ、俺も……」
2杯目のコーヒーを啜りながら、彼はサマンサをそっとみつめた。
やはり、いつもと違う。
ただ単に、俺を涼子と逢わせようとしている、それだけではない。
しかしそれ以外に、一体何があるのだろうか?
この淡白なくらいにさっぱりとした涼しい気性の彼女が、これほど意味ありげな行動を取るような、『なにか』とは何だろう?
小野寺の疑問を余所に、サマンサは美味しそうにコーヒーを飲みながら、窓の外に広がるエメラルドグリーンの浅い海底のような白樺林の続く風景を眺めていた。
「ほんと、いい景色ね……。仕事抜きで来たいわ」
ポツリ、と呟いた言葉に、普段なら無言でいるところを小野寺はノッて見ることにする。
「どうした? ……ヤンキー娘のお前らしからぬおセンチモードか? 」
サマンサは視線を手許のコーヒーカップに移して、寂しそうな微笑みを洩らす。
「……そうかな? ……そうかも」
小娘のような仕草でサマンサは恥ずかしそうに俯いて、消え入るような声で続けた。
「あはっ。なんでだろ? ……判んないや」
ふぅっ! と吐息を零すと、サマンサは上着の内ポケットから封筒を抜き出した。
「話っていうのは、その事」
口調を、いつものビジネスモードに変え、封筒から書類を抜き出す。
「こっちの12枚が、事後だけど検査・手術同意書、んで、こっちが公務傷病申請同意書、それと、……ええと、ああ、こっちが退院手続きに、今日明日の外泊申請書……」
早口で、捲くし立てるように説明すると、サマンサはそれらをずい、と小野寺へ差し出した。
「はい、これ全部、アンタがサインして」
彼は書類の束を暫くじっとみつめた後、顔を上げて訊ねる。
「……俺のサイン、か? 」
気だるそうに、サマンサは明後日の方向に顔を向けて答える。
「涼子は天涯孤独、三親等以内の身内、いないからね。UNDASN入隊時の身許引受人も遠い親戚だとかなんとかで日本だし。アンタを涼子の身許引受人の代理人に、こっちでしといたから」
「待てよ、サム。退院手続きって、もう良いのか? 」
煩い蝿を追い払うような仕草で、サマンサは言った。
「今日入れて、1週間後には連れて帰っていいわよ。人事局と政務局には連絡済み、統幕本部長にもそう言ってある」
小野寺は大量の書類の中から、さっきから気になっていた一枚を抜き出して指差した。
「こっちの外泊申請って、なんだ? 」
そこでサマンサは、ぴくり、と身体を震わせた。
ゆっくりと視線を小野寺に戻し、それから彼の指先の書類を一瞬睨みつける様に見て、ゆっくりと窓の外へ顔を向け、漸く、掠れた声で呟くように答えた。
「明日の夕食までに療養所へ戻してくれたらいいから」
そして、顔を小野寺に向けて、儚げな、切なそうな微笑を浮かべた。
彼女が滅多に見せない、けれど昔彼が堪らなく好きだった笑顔は、間違いなく、『おんなに支配された』時のサマンサだった。
「今夜は、アンタがリハビリとカウンセリングをしてやんなさいな」
ああ、そうか。
彼は漸く、思い至った。
俺がさっき、武官事務所でふと思った感情は、男の我儘そのもので、やっぱり俺はコイツの言う通り、馬鹿野郎だったんだ。
だから、目を逸らしてはいけない、と思う。
だから彼は、サマンサの笑顔を正面から捉えたまま、ゆっくりと訊ねた。
「……いいのか? 」
サマンサの方から、視線を外し、彼女は小さく叫んだ。
「主治医が言ってんだから、いいのよ! もう、うるさい! 」
窓の外の白樺を睨みつける彼女の目が少し赤いのに気付いて、小野寺は黙って書類にサインを始めた。
大きな窓から射し込む木漏れ日がサマンサの美しい顔に落ちて、まるで、泣いているようにも見えた。
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