第136話 20-4.


 マヤへの返事を、書いては泣いて中断し、また書き出して再び涙して筆を止め、そんなことを繰り返しながらようやく、最後に自分の名前を書き上げた涼子は、ふぅっ、と短い吐息を零す。

 いよいよ、最後の返事だ。

 暫くの間、瞼を閉じて、心を落ち着ける為にゆっくりと深呼吸を、数回。

 涼子は、昨日サマンサとのドライブに持っていったポシェットの中から、1枚の絵葉書を取り出した。

 まずは葉書を裏返し、写真をじっと、みつめる。

 レマン湖の澄み渡る青い水に、遠くアルプスの山並みが白く雪化粧をして、湖水に姿を映している。

 スイスでは取り立ててなんと言う事もない風景の、なんでもない、観光土産としてどこの店でも売られている、絵葉書。

 昨日、サマンサと街に出たとき、昼食で立ち寄ったフィッシャーマンズワーフの土産物店で買ったものだ。

「へえ。……ふーん」

 二人、ああでもないこうでもないと土産物屋の店頭を冷やかしていたサマンサが、ふと足を止め、その瞳を細めたことに、涼子は気付いた。

「どうしたの、先生? 」

 返事はない。

 姿勢の良いサマンサが、少し猫背になっている。

 そんなに覗き込むほど、なにを熱心に見ているのだろう?

 近寄って見ると、サマンサの瞳は、店先に並べられた絵葉書をみつめていた。

 涼子が横に立つと、サマンサは、こちらを見ようともせず、ぽそ、と呟くように言った。

「私ねえ、しょっちゅうスイスへ来てるのに、お土産って買った事ないのよねえ」

「ごめんね、先生……」

 なにしろサマンサは、アドミラルの肩書きを持ちながら、涼子というたった一人の患者の為に、ケープケネディとジュネーヴを週に数度も往復しているのだ。

 もちろん彼女には、涼子に当てこすろうなどと言う気持ちはこれっぽっちもなかったろう。

 けれど、そんな気持ちが判るからこそ、涼子の胸の中に、余計すまないと言う気持ちが膨れ上がる。

 と、不意に、思いついた。

 そして涼子は、閃いたことを、そのまま口にした。

「そうだ、先生! 私が買って先生にプレゼントするわ、その絵葉書! ね? そうしようよ! 」

 サマンサは驚いた表情を浮かべ、続いて照れた様に頬を赤く染めて、慌てて手を振る。

「そ、そんな、いいわよ! 絵葉書くらい、自分で買うから」

 涼子はサマンサの腕を取って、イヤイヤする様に首を振りながらいう。

「だめだめ、先生。お願い、私に買わせて? ね? 」

 サマンサの困惑まじりの微笑は、ゆっくりと優しい笑顔に変わっていった。

「そお? ……いいの? 」

「うん! いいのいいのっ! さ、先生? 好きなの、選んで? 」

 彼女にしては珍しい、子供のようなあどけない笑顔を浮かべたサマンサは、再び、絵葉書の陳列を覗き込む。

「んー……。じゃあねえ……。これと……、これと……、うーん、これ、よりも……、これ」

 涼子はフランス語で店番を呼び、絵葉書を三枚買って、サマンサにその袋を渡す。

「はい、先生。お土産、できたね」

「ありがとう、涼子。それじゃあねえ……。これは私から、プレゼント」

 サマンサはそう言うと、涼子から受け取ったばかりの袋から、無造作に一枚抜きとって、はい、と差し出した。

「え……? 」

 涼子が小首を傾げると、サマンサは、ふんわりと柔らかい笑顔を浮かべた。

「だって、涼子」

 柔らかな表情に、一瞬、悪戯っ子のような笑顔が覗く。

「……そろそろ、『会いたいよ』って手紙、出したい相手が、いるんじゃないの? 」


「……なんか、艦長が先生と付き合ってたの、判るなぁ」

 数日前の自分なら、きっとこんな台詞を、こんな穏やかな気持ちで呟けなかっただろうな、と涼子は半ば驚きつつ、思う。

 涼子は、絵葉書を裏返し、まずは宛名を書いた。

 小野寺 太郎。

 UNDASN、認識番号。

 彼の認識番号を諳んじることの出来る自分を、少しだけ可愛い、と思った。


『艦長。

 艦長、お元気ですか?

 ……ああ、もう! バカだね、私。

 艦長の事、自分で撃っておいて、なに書いてんだろ?

 ごめんね。


 今、私はレマン湖のほとり。裏の写真の通り、奇麗だよ!

 なんだか、御伽噺の絵本の世界に迷い込んだみたい。

 ヒューストンと違って、空気もおいしいし。

 ……でも、夜とか、雨が降ったりすると、静かすぎて、寂しい。

 泣き虫じゃなくても、泣き虫になっちゃうよ、きっと。(言い訳じゃないもん! )

 それに、艦長、いないんだもの。

 艦長、傍にいてくれないもの。


 ……ごめんね。

 私が悪いのに。

 ごめんね。

 泣いてばっかりで。

 だけど。

 艦長、会いたいよ。

 もう、一人は厭だよ。

 寂しいよ。

 艦長は、寂しくない?

 私は、会いたいよ。


 ……ごめんなさい、なんだか、湿っぽくなっちゃったね?

 私は、だけど、元気です。

 だって、艦長と、二度と逢えないわけじゃないもの。

 絶対、笑顔で逢えるって、信じてるもの。


 さようなら。

 またねっ!


P.S.

     この葉書は、サマンサ先生に貰ったの。

     先生、優しくって、大好き!

涼子』


 涼子は、シャワーを浴び、部屋の電気を消してベッドに入った。

 久し振りに長時間机に向かった疲れか、夢も見ない、静かな、深い眠りがすぐに訪れた。


 涼子はベッドサイドに据え付けられた院内電話の、小鳥の囀りにも似た呼び出し音で目が醒めた。

 目元を擦りながら枕もとの時計を見ると、既に9時を過ぎている。

 カーテンの隙間から射し込む朝陽が、柔らかく揺れていた。

 まどろみのなか、電話に出なきゃ、と思いつつ自分では手を受話器に伸ばしたつもりだったが、次に意識が戻ったときには、何故か、枕をしっかりと掴んでいた。

「ふぁ……。いけない」

 電話、何だったんだろう、と呟きながら思った刹那、ばたん、と勢いよくドアが開いた。

「おはよう、涼子! ……あれ? ひょっとして、まだ眠ってた? ごめーん! 」

 アハハハ、と元気な笑い声が響く。

 釣られて涼子も笑顔を浮かべてから、あ、と思い出し、慌ててぺこりと頭を下げた。

「おはようございます、先生」

「よく眠れたみたいね」

 カツン、カツンとリノリウムの床に靴音を響かせながら、サマンサはベッド脇に近付いてきた。

「なんだか昨夜は、ぐっすり夢も見ないで、って感じ……。あれ? 」

「どした? 」

「朝の検温も済んでる。……憶えてないや」

 再び明るい笑い声を響かせて、サマンサは涼子の頭をぽん、ぽんと撫でた。

「一昨日のドライブや、昨日のお返事書きで、疲れたのよ、きっと」

 そこで涼子の寝惚け眼は、サマンサがいつものスタイルでじゃないことに気付いた。

「あれ、先生? ……アメリカへ帰るの? 」

 移動中は第一種軍装を着ているサマンサは、ここへ着いた途端、おしゃれなビジネススーツ~ロンドン野戦病院でもそうだったが、涼子は彼女が同じスーツを着ているところを見た記憶がない~に着替えて、その上から白衣を羽織っているのがいつものスタイルなのだが、今朝は珍しくドレスブルー姿だった。

 涼子の問い掛けにサマンサはポンと掌を打ち、いい音を鳴らした。

「あぁ、別に帰る訳じゃないけどね。だけど、ここへ来たのとこの服装は関係あるわ」

 アハハハハ、と個室の病室に元気な笑い声が響く。

「今日は午前中、カウンセリングの予定だったでしょ? 悪い! 予定、変えてくれない? 」

「ええ、全然良いですけど、私は」

 サマンサは、まるで日本人のように顔の前で手を合わせた。

「悪いわね。ちょっと、統幕のエライさんがジュネーヴの監督官事務所に来るって言うもんでさ、会いにいかなきゃならなくなって……。ごめんね、戻ったら連絡するから」

「はーい」

 涼子の返事を背中で聞きながら廊下へ一歩踏み出したサマンサは、ふと立ち止まり顔だけで振り返った。

「あーそうそうそ。言い忘れてたけど、今日も良い天気だし、外出したかったら外出していいから、ね? 」

 突然の外出許可に、涼子は戸惑ってしまう。

「え……。どっしよーかなー。確かに良い天気だけど……」

 サマンサはニコリと笑って、歩き出しながら言った。

「社会復帰も近い事だし、リハビリは大事よぉ? 第一、スイスのノンビリモードに合わせてると、ニューヨークじゃ蟻にだって轢かれちゃうわよ」

 台詞の最後が聞こえたときは、既にサマンサは視界から消えていた。

 暫くは呆気に取られていた涼子だったが、やがて、ポソリと呟いた。

「そうね……。朝ご飯食べたら、お手紙出すついでに、ブラブラ散歩でもしようか」

 こんな陽射しの柔らかな日は、それもいいかも知れないな、と思った。

 レマン湖の噴水が見たかった。


 ジュネーヴ療養センターの職員食堂は、士官下士官の区別がなく、下士官食堂に準じたカフェテリア方式だ。

 リハビリが始まって暫くして、サマンサは病室の病院食を打ち切り、涼子に職員食堂で職員達に混じって食事をするように言い渡した。

 身体のリハビリよりも対人関係のリハビリに重点を置いた措置だったが、それは寂しがり屋の涼子にとっても嬉しい措置だった。

 以来、涼子にとって毎日三度の食事は、彼に会えない寂しさも相俟って、何よりも楽しいひと時となった。

 そうでなくとも艦長時代はいつも艦長室で一人で食事だったし、元々、一人ぼっちの食事は大嫌いだったのだ。

 国連勤務や統幕勤務時代等は、武官室や課長室を飛び出して、周りの部下達を誘っては、まるで民間企業のOLの様にお喋りしながら食堂へ通ったものだ。

 中学二年のあの夏の日以来、就職して女子寮に入るまで、食事はいつも、一人だった。

 中学卒業後、就職した会社の女子寮で同僚達と一緒に食堂で食事をした時。

 UNDASNに入ってクラスメイトや部下上官と食事をした時。

 他人とお喋りしながら食べる食事がこんなにおいしいのか、こんなに楽しいのかと、涼子は思わず泣いてしまった程だった。

 けれど、涼子は今になって、考えるときがある。

 あの頃の自分の心象風景を、もしも、そっと覗き見ることができるならば。

 実は、やっぱり一人っきりで食事していたのかも知れない、彼と出逢うまでは。

 誰と食べても、何を食べても、それはただ生きる為だけ~息をする為だけ、と言っても良かったかもしれない~の燃料チャージに過ぎなかったのかも、と。

 だから、彼と出逢って以降、出来る限り誰かを誘って食事をしたものだ。

 この療養所では、涼子が職員食堂へ通うようになると、いつも誰かが、涼子と同じテーブルにトレイを運んできて、自然と隣に座り、話しかけてくれた。

 だから涼子は、それが嬉しかった。

 彼と会えない心の空白を、辛うじてそれで埋めていた。

 たぶん、元気だったときよりも、食欲があるかも知れない、とさえ思った。

 勿論、それで心に空いた穴、全て埋まる訳ではなかったが。


 食後、涼子は一昨日サマンサと外出した時と同じ服を着て、療養センターを出た。

 まあ、プライベートで外出できるような服なんて、それしか持ってなかったのだけれど。

 春の陽射しを浴びながら、のんびり、ゆっくり、湖畔にまばらに建つ、まるで童話の絵本に出てくるような可愛らしい家々の間の小道を縫って、歩く。

 ドライブに出かけた時、車窓からなにやら楽しそうな店をみつけたことを思い出し、記憶を辿って細道をひとつ曲がる。

 家自体がお菓子で出来ているかのような、小さなパン屋だった。

 屋根から突き出ているレンガ造りの煙突が、まるでサンタクロースを呼んでいるかのような大きさだ。

 丁度店の前にポストがあったので、そこに返事の手紙を投函する事にした。

 一枚づつ、宛名を眺めながら、ゆっくりとポストに落とし込む。

 マヤへの手紙を投函し、最後に掌に残った絵葉書をじっとみつめていた涼子は、うん、と大きく頷いて、絵葉書をポシェットに戻す。

 ポシェットの中には彼が送ってきた絵葉書が入っていて、涼子は自分の書いたそれを、そっとその隣へ戻し、呟いた。

「今日は、一緒に湖畔までピクニックへ行こうよ、艦長」


 パン屋に入り、アップルパイやカップケーキ、それに瓶入りのオレンジジュースを買って、湖畔への道をゆっくりと歩き始めた。

 住宅地を抜け、レマン湖周回道路への分岐点で折れずに真っ直ぐ行くと、道端の案内板の通り、湖畔の公園に辿り着いた。

 振り返ると、レマン湖周回道路が見えたが、音は届かない。

「スイスって」

 何処に行っても静かな国だな、と思う。

 再び湖畔を臨むと、遠くジュネーブ市街の方で虹が架かった。

「噴水だ」

 白いペンキが塗られた木製のベンチを見つけ、涼子はそこによっこらっしょと言いながら腰をかける。

 座ってから、改めてきょろきょろと周囲を見渡す。

 平日だからだろうか、公園内やレマン湖畔を巡る遊歩道には、地元の老人や子供連れの主婦以外、人影はまばらだ。

「いいわよね? 」

 呟いて、涼子はパンとジュースを紙袋から出してベンチに置き、紙袋の綴じを解いて広げ、ベンチの前の草むらに敷いて腰を下ろし直した。

 視点がベンチの高さ分低くなっただけで、レマン湖とヨーロッパアルプスが織り成すパノラマが、一層、圧倒的な迫力で視界に飛び込んでくる。

 圧倒的な割にはその輪郭は夢のように淡く、まるで自分が自然に吸い込まれてしまったような錯覚すら覚えるのが、不思議だ。

「ふぁあ……」

 暫くはぼんやりと、スイスらしい光景に圧倒されていた自分を放置していた涼子だったが、やがて思い出して、ポシェットから二枚の絵葉書~彼から届いたものと、その未投函の返信だ~を取り出して、自分の膝の上に並べて立てた。

「凄いなぁ。……地球って、凄いね」

 ねえ、艦長、と続けて口に出しかけて、涼子は口を閉ざす。

 ぽろっと、涙が零れた。

 彼は、いない。

 どれほど奇麗な景色だろうと、どんなに静かだろうと。

 彼は今、自分の隣にいないのだ。

 逢いたい。

 心の底から、そう願い、そして祈った。

 彼の絵葉書を読むまでは、逢いたいと願う反面、逢うのが怖かった。

 けれど。

 今は、違う。

 彼が、自分の裂かれた半身であることが、痛いほどよく判った。

 涙はもう、出なかったけれど。

 心が叫んでいた。

 心が泣いていた。

 逢いたかった。

 全てを投げ出してもいいから逢いたい。

 そんな叫びはけれど、レマン湖で跳ね返り、そのままアルプスの白い山肌へ吸い込まれてしまって遂に届かぬような気がして、余計に哀しくなった。

 心は互いに、繋がっている筈なのに。

 身体が言う事を聞かない。

 これが恋しているって事なんだな、と思った。

 『心を奪われる』という手垢のついた慣用句が、物凄く正しいことを、悟った。

 悟った途端、急に眠くなった。

 これじゃ確かに、ニューヨークだと蟻にでも轢かれちゃう。

 サマンサがくれた警告に、心の中でそっと頷いたのが、眠りに支配される直前、記憶に残る最後の、意味を成した思考だった。

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