四月某日、東京に雪

はな

四月某日、東京に雪

 今がいつなのかはわからない。でも、あの時は三月だった。それからいくつかの夜をこえて、きっと今は四月だ。

 ここは東京。そして、白く煙るここは深海。


 はるか頭上にぼうっとした光が見える。霞んだ光は、祖母の家にあった旧式の電灯みたいだ。

 まあるくて、優しい光。深海を照らす月。


「ねぇ、あそこ」


 寝転んだまま私の手を軽く引いて、由紀が口元をほころばせた。その空いた手が上を指差す。

 そこには、キラキラと輝く星のような光。

 廃墟のビル。そこにはたまに人がいて、光を発していることがある。それを私たちは知っていた。

 だからきっと、あそこにもその向こうにも、誰かがいるんだろう。

 だけど行かない。悲しみを避けるために。


「君は行きたいの?」


 指差した手をにぎった。少し低い体温。

 寒がりなのに、かけてやれるものすらないのが少し悲しい。

 ビルの中にはまだ残ってるかもしれない。でもきっと薄汚れているに違いない。


「少しね。誰かがいるって思ったら安心するんだ」

「そう? 良い人だね、君は」

「やだな、夏季には言われたくないよ」


 おかしそうに笑う由紀。その顔は無邪気で、きっと愛されて育ったんだろうなと思える雰囲気が滲み出ている。私なんかでは、到底、由紀のようにはなれない。

 由紀はこの深海の中で、私の意地汚いだけの心を癒す光のようなもの。あの優しくにじむ月のような。


「あの光はじきになくなるよ」

「そうかな?」


 首を傾げた由紀は、ふふっと笑った。

 案外消えないかもしれないよ。そう言った由紀の顔はとても優しくて、それを見るたびに私の胸は痛む。


「楽天的だなあ」


 もう、自分は動けないのに。それでも、そう言ってしまえる気楽さが、私の心を救う。

 私だけの由紀。私だけを癒してくれる声。その、体温。

 思わず由紀の上半身を抱き上げると、由紀の小さな吐息が耳にかかった。その息の中に、小さな笑みが浮かんでいる。


「ハグしてくれるんだ?」

「当たり前」

「かっこいいな」

「どういう意味?」

「褒めてるんだよ?」


 由紀は小さな息をくり返す。深海の酸素を精一杯吸い込む。

 それが今できる全てだから。


「ねえ」

「なに?」

「不機嫌だね」


 由紀のおかしそうな声。違う、不機嫌なんかじゃない。

 それを知らせたくて、由紀を抱く腕に力を込める。そんな私の背を、由紀は優しく撫でた。


「ごめんね」

「許さない」

「許してよ」

「いやだ」


 そんなことが出来ないことはわかっている。それでも言わずにはおれなかった。いやだ。


「あのさ、あの光のところに行ってみたらどうかな?」

「いやだ。由紀が行かないなら行かない」

「助けてくれるかもしれない」

「違うよ、助けてなんかくれない」


 由紀と頼った光の一つ。由紀が襲われて、私は無我夢中でビルの破片を掴んで殴りかかったのだ。

 それを忘れたなんて言わせない。


「やってみなくちゃわからないよ」

「由紀がいないなら助かっても意味がないよ」


 すう、すうと息を吸う由紀。でも、その音も小さい。


「怖い?」

「こわい」

「ごめんね」

「うん……」


 涙がにじんだ。由紀の光が消える。消えていく。


「意味はあるよ。ここには、僕がいる」


 由紀の手が、優しく私のお腹をなでた。

 その冷たい感触が、さらに涙を流させる。


「行かないでよ」

「ごめん。怖い思いさせてごめん。でもどうか生きて。僕と一緒に」


 私のお腹にほおを寄せて、由紀はすうと大きく息を吸った。

 そうして、その息を吐き出さないまま、静かに光を消した。


「よ、しの……」


 君の名前を上手く呼べない。呼んでももう届かない。


 見上げると優しく霞む月。そして、キラキラとした誰かの光。

 抱きしめた由紀の身体はまだあたたかい。君の方が、あの光の元へ行きたがっていたのに。

 君は本当に、ここにいるんだろうか。私の、お腹に。小さく内側から押す、これは君だろうか?


 涙が落ちる。


 その視界に、白いものが舞い出した。涙で歪んだそれは、深海に降る白い砂。

 三月になにかがあった。なにかはわからない。世界は吹き飛ばされて、その残滓が東京を深海に変えた。

 誰かの光が、白の中でチカチカと瞬く。


 東京という深海に白が降り積もる。

 それは、まるで————。




 END

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

四月某日、東京に雪 はな @rei-syaoron

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ