かくれんぼ


「また、七号棟に誰か忍び込んでるな」


 八月に入って以来、毎晩のように兄はそう言って渋い顔をする。

 七号棟とは、私たちの住む団地の中にある廃墟のことである。


 西東京のベッドタウン、その中でも開発が中途半端に頓挫した街に私たちは住んでいた。

 その中でもこの団地は他のどこよりも工事が遅れ、当初の計画よりかなり規模が縮小したらしい。建物自体は七号棟まで出来ていたが、その半数は内装が終わる前に放棄され、私たちの住む四号棟までしか人は住んでいない。

 施工会社の夜逃げや倒産、工事現場での事故などが相次ぎ放置されてしまったという噂だったが、もう三十年以上前のことなので詳細はよくわからなかった。


 そんな団地も、開発当時はかなりの人気物件だったらしいが、亡き両親が越してきた頃には、既に建物の多くは寂れ人はまばらだったという。

 団地を含めた周囲の開発が再開する兆しはなく、放置された建物は老朽化し危険も多い。

 そのせいか、このあたりでは事故や失踪事件が度々起こるのだ。

 七号棟では、年に数回は飛び降り自殺があり、そのたび建物を取り囲むバリケードは強固な物に変わっていた。

 気味悪がって越していく者は多く、新しく入ってくる人も減っている。

 おかげでこの四号棟も私と兄、そして隣の部屋に住む兄の友人『伊織いおり』以外には誰も住んでいなかった。


 そんな過疎化した団地は『廃墟団地』と呼ばれるようになり、近頃は肝試しスポットとして、SNSに名前が載るほどになっている。

 夏になると肝試し目的でやってくる若者は多く、うちの高校でも『廃墟団地で肝試ししようぜ』と話す者は多かった。

 あまりの多さに、終業式で校長が『廃墟団地には立ち入らないように』とまで話していたほどである。正直、そこに住んでいる身としては複雑な気持ちだ。


 そんなふうに始まった夏休みも、気がつけばもう残り僅か――。

 月日が経つのは早いなとぼんやり思っていると、窓の外を見ていた兄が私に目を向ける。


「まさか、お前の友達じゃないよな」

「肝試しをやるような友達はいないよ」


 そう言ったが、遠くから響く笑い声はかなり若く、同い年くらいに感じられる。

 かくれんぼでもしているのか、「もういいかい」「もういいよ」とふざけ合っている声も聞こえてきた。


 声が届くたび不機嫌になっていく兄から目をそらし、私は素知らぬふりをして、ためてしまった夏休みの宿題に視線を向けた。

 ちっともはかどらない宿題を見ているとそれはそれで憂鬱で、思わずため息をこぼれる。


 するとそこで、横から伸びてきた男の手が数学のプリントにさらさらと答えをかき込む。

 途端に、兄が呆れた顔で私たちの方を見た。


「お前なぁ……、曲がりなりにもこいつの担任なら手助けするなよ」


 そう言って兄が軽く睨んでいるのは、私のプリントに答えを書いた男――伊織に対してだった。

 兄の友人であり、四号棟に住む数少ない住人である彼は、私の高校の担任でもある。


「勉強を見てやれと、俺を呼び出したのはお前だろう」

「サボらないよう監視してくれと言ったんだよ。俺はこれから見回りだから」


 そう言って、兄はまた七号棟の方に目を向ける。

 廃墟で若者たちが騒がないように、団地の住人たちが毎晩見回りをしているのだ。 

 まだ若い兄はこうした見回りでは重宝がられ、今日もこれから七号棟まで行くらしい。


小夜さよの邪魔するくらいなら、お前もついてこいよ。あそこにいるの、お前の生徒かもしれないぞ」

「面倒だ」

「それでも教師か」


 兄の言葉に、伊織はなぜ咎められたのかわからないという顔で首をひねっている。


「俺は、愚か者の尻拭いをする為に教師になったわけじゃない」


 言って、伊織はぼんやりと七号棟の方に目を向ける。


「それに今更、もう遅い」


 冷え冷えとした声が響いた瞬間、背筋にぞわりと寒気が走る。

 伊織は時折、とても冷たい声で不気味なことを言う。

 そのたび嫌なことが起きるのが常で、私はそれが怖かった。


 けれど不思議と、私は彼とは離れられない。怖いと思うのに、いつも隣には伊織がいる。

 ふと、一体いつから彼は私の側にいるんだろうと思ったが、なぜだか彼との出会いを私は思い出せなかった。

 思い出してはいけないような、そんな考えさえ浮かぶ。


 不気味な感覚と落ち着かない気持ちを抱えていると、不意に遠くから救急車のサイレンが近づいてくることに気がついた。


 気になって窓の外を見ると、救急車の赤い光が七号棟の方へと向かっていく。

 

 結局その日、兄たちの見回りは中止になった。



◇◇◇       ◇◇◇



 兄の見回りが中止になった夜から、廃墟に忍び込む若者はしばらく減った。


 しかし静けさは、長くは続かない。

 一週間もたたないうちに、夜になるたび七号棟にチラチラと明かりが見える事が増え始めた。


 それに伴い、このところ妙な音が聞こえるようになった。


 ぐしゃっ、ぐしゃっと、何かが落ちて潰れるような音が深夜になると響くのだ。

 それを兄に伝えたところ「忍び込んだ誰かが、水風船を投げて遊んでいるらしい」と教えられた。

 もっと大きな物が潰れる音に聞こえたが、兄が言うとおり水風船の残骸を団地のあちこちで見かけるようになった。

 住人が片付けても片付けても残骸は増え、私も掃除にかり出されるほどだった。


 兄に言われて渋々片付けに参加していた私は、残骸を拾ううちに、気がつけば七号棟の前に来ていた。やはり、残骸の量もここはひときわ多い。


 けれどまだ昼間のせいか、あたりに人の気配はなかった。

 たぶんこの残骸は、昨晩誰かが投げた物だろう。

 道には水風船が転々と落ちており、七号棟の前のバリケードが不自然に傾いていた。


 ここから忍び込まれているのかと呆れながら中を覗き、私はそこで息を呑む。

 七号棟の中に、小さな子供が駆け込む姿が見えたのだ。


「もういいよー」


 同時に響いたのは、楽しげな子供の声だ。それも一つや二つではない。

 姿は見えないが、多分何人かで遊んでいるのだろう。

 きっとここが危険な場所と知らず、無邪気にかくれんぼを始めてしまったに違いない。


 オニを呼び寄せるかけ声がいくつも響き、七号棟の階段を駆け上がる足音がそこに重なる。


「そこで遊んじゃ駄目!」


 慌ててバリケードの隙間に身体を滑り込ませ、私は声を張り上げる。

 だが身体が隙間を抜ける直前、痛いほどの力で誰かが私の腕を掴んだ。


「それ以上は、行くな」


 振り返らなくても、それが伊織の声だとわかった。

 同時に、掴まれた腕の先におぞましい気配を感じた。


 振りほどきたい衝動に駆られるが、できなかったのはあの不気味な音が再び響き始めたからだ。


 ずしゃっ、ずしゃっと音がするたび、視界の隅に何か黒い物が落ちてくる。

 音の方に顔を向ける勇気はなかったが、それが水風船ではないのはわかった。

 風船よりも大きなそれは、はっきり見えていないのに人間の頭部のように思えてしまい、私はぎゅっと目を閉じる。


 ずしゃっ、ずしゃっという音はどんどん私に迫り、無邪気だったかくれんぼのかけ声が不気味に歪む。


 もういいかい。

 もういいかい。

 もういいかい。



 声が重なるたび、「もういいよ」と応えたい気持ちが膨らんでいく。

 

 バリーケードの向こうに行きたい。私も遊びたい。遊びたい。遊びたい。遊びたい。遊びたい。遊びたい。遊びたい。遊びたい。飛び降りたい。遊びたい。



 身体に力を入れ、私は無意識に一歩前へと踏み出す。


「おまえは、いかせない」


 しかし身体が前に出るより早く、強い力が私をバリケードの手前に引き戻す。

 腕を引かれ、背後から倒れた私を抱き留めたのは、伊織だった。

 彼の腕に囚われた瞬間、それまで聞こえていたかけ声がピタリとやんだ。


 何かがぐしゃっと落ちる音も消え、代わりに寂しげな子供の声が背後でこぼれる。


――なんだ、もう――に見つかっちゃってるのか。


 そんな言葉を置いて、声も気配も消えていく。

 代わりに五月蠅いほどの蝉の声が響き始め、続いて伊織のため息がすぐ側で響いた。


「ああいうものには、近づくな」


 私を立たせながら、伊織がバリケードの隙間を閉じる。

 中に子供がいると言いかけたが、それが本当に子供だったかどうか、今はもう自信がなかった。


「帰るぞ」


 まるで何事も無かったかのように言って、伊織はゆっくりと歩き出す。

 でもやはり、私は先ほどのことが気になってしまった。


「ねえ、今の……」

「お前は何も見ていないし、聞いてもいない。ああいうものに魅入らやすい人間は、知らないふりをするのが一番だ」


 訥々と語る声を聞いていると、なんだか前にも似たようなことを言われた様な気がした。

 

「ああいうもの、他にもいるの」

「ああ、たくさんいるよ」


 そう言って、伊織が私をじっと見つめた。

 冷たい瞳は、やはりどこか恐ろしい。でも不思議と目がそらせずにいると、彼が私の手をそっと握った。


「ここは、ああいうものと生きていく土地だ」


 そして私は、ああいうものと生きていかなくてはならないのだ――と、その目が告げている。


 嫌だと思うのに、引かれる手を私は振りほどけない。

 恐ろしいし、悍ましい。

 でもこの手が繋がっているうちは恐ろしくても死なずにすむのだと、言われている気がした。



◇◇◇       ◇◇◇



 伊織がバリケードを閉じた日から、あの音は消えた。


 とはいえ肝試し目的で忍び込む若者は後を絶たず、兄は始終機嫌が悪かったが、暑さが引くにつれて、団地には元の静けさが戻った。


 代わりに「子供を探している」と話す母親や父親が団地に時折やってくるようになったが、見せられた写真の顔には誰も覚えがなく、住人たちは親たちに同情する事しか出来なかった。


 その後、行方不明者の情報提供を促すポスターが団地のあちこちに貼られたが、剥がされる気配は未だない。

 そしてポスターの前を通りかかるたび、私はあの子供に言われた言葉を思い出す。


 あの時、私は何か大事な言葉を聞き逃したような気がした。

 それを知りたいと思う一方、答えを見つけてはいけないという漠然とした不安がいつも側にある。

 答えを見つけたらきっと、今度は兄が私を探して歩く羽目になる。


 不気味な予感を覚えながら、ポスターから私はそっと目を背けた。

 ふと見てしまった七号棟からは、今も時々「もういいよ」と誰かが笑う声がする。けれど私はそれに、気づかないフリをしている。

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――東京怪異怪談―― 28号(八巻にのは) @28gogo

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