第4話 焼きたてクッキーよりも
七月。もうワイシャツがじっとりと汗ばむ季節になった。
あれから、家庭科部には一度も行っていない。
むぎ先輩が、オレの教室に訪ねてくることもなかった。その時初めて、彼女なら、また迎えに来てくれるんじゃないかと期待していた自分に気がついた。
いつの間にか、あのおかしな先輩のことで、嫌になるぐらい頭がいっぱいだ。
こんな気持ちは抱いていても惨めになるだけだって、思い知らされたのに。
もやもやとしつづけながら、その日は、たまたま委員会の用事で夕方まで残っていた。
帰ろうとしたら、家庭科室の方から、あの懐かしく甘い匂いが漂ってきて。
導かれるように、その引き戸を開けていた。
「あーっ! ハルちゃん、やっときてくれたぁ!! 部活をサボるなんて、悪い後輩だねぇ」
先輩は、無断でサボっていたオレを責めることなく、いつもどおり穏やかに笑ってくれた。
だけど……それ以上に、気になることがあった。
「先輩……まさか、それ」
「そう! そうなんだよ! わたし、ついにやり遂げたの!!」
オーブンから焼きたてのクッキーを取り出して、ぴょんぴょんと跳ね上がるむぎ先輩。胸のあたりが、ズキリと痛くなる。
「
叶わないこんな想いは捨ててしまおうって、思ってた。
だけど……。
理性とは反対に、先輩の細い腕をつかんでいた。
「……嫌です。行かないでください」
「えっ?」
目をまんまるにしたむぎ先輩を、壁際に追い詰める。
「翼って、どんな奴なんですか。オレよりも背が高いんですか。男らしくて、イケメンなんですか!?」
想いが、身体から溢れだすのを、とめられない。
「でも、そうやって先輩をタラしこむだけタラしこんでおいて、まだ付き合ってはいないんですよね。だとしたら、善人そうに見えて、実は悪い奴なんじゃないですか。先輩は、ソイツに騙されてるんじゃないですか!?」
脈も論理もない。
ただの、子供じみた嫉妬だ。
「ハ、ハルちゃん……? ええと、その……お、落ち着いて?」
だけど、もう、止まれない。
「先輩にとってのオレは、ただの、可愛い後輩かもしれないけどっ。オレだって……男、なんですよ?」
ヤケになった勢いで、ずっと触ってみたかった焦げ茶色の髪に触れてみた。想像していた通り、ふわふわで柔らかい。
すると、先輩は顔をトマトみたいに赤くしながら、まくしたててきた。
「ま、ままままま、待って。待って待って! ハルちゃん、なんか勘違いしてない? 翼は、女の子だよ? わたしの親友!!」
世界が、停止する。
「は?」
ということはつまり……むぎ先輩は、女子の親友に手作りクッキーを渡そうとしていただけ!?
なんだ。
そういう、ことだったのか……。
するすると、全身にみなぎっていた力が抜けていく。
「だから、その……。髪、さわるの……や、やめて?」
呆然としたオレを、彼女はうるんだような瞳で見上げていた。
そして、蚊が鳴くよりも小さな声で、言う。
「……ドキドキ、しちゃうから」
時計の秒針が進む音が聞こえるほどの、静寂の中。
その白い耳たぶに、そっと囁いてみた。
「へえ。ドキドキ、するんですか?」
二人のもとに、焼きたてクッキーよりも甘い時間が訪れるのは、あと五分後の話だ。
【完】
焼きたてクッキーよりも 久里 @mikanmomo1123
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