恋愛祈願

秋月忍

恋愛祈願

 太陽は傾いて、世界は黄金色に染まる。私は、グランドを走る彼をじっと見つめ、ずっと待っていた。緊張と寒さで体がこわばってしまっていた。

 だからなのだろうか。あれほど決意したのに、一歩が踏み出せなかったのは。

 スピード勝負ではない、とはいうものの。

「先輩! 受け取ってください!」

  練習が終わった彼にチョコを差し出したのは、私ではなかった。

 誰もが見惚れるような美少女の登場に、私は舞台に上がることを諦める。

 戸惑うように差し出されたチョコレートを見つめる彼を見ていることが出来なくて、私、青田あおたさおりは逃げるようにその場を去った。

 渡せなかった、チョコレート。

 自分で食べたチョコレートは、涙の味がした。




「恋を叶えてくれる神様なのよ」

 誰が言い出したのだろうか。

 学校の近くにある、宮司もいない祠のような神社は、クラスメイトの女子の間で大ブームが起きていた。どんな神様を祀っているかは誰もよく知らないけれど、『思いが叶った』と数人の女子が証言しているのだ。

 ちょうどバレンタインの後だと思う。数人の子が、『告白』前にこの神社にお参りして、両想いになれたらしい。

 そんなご利益があるなら、もっと早く知りたかった。

 玉砕してふられたわけじゃないけれど。

 そう。ふられたわけじゃないからこそ、まだ諦めきれずにいる。

 彼、梅野誠うめのまことは、高校一年のときのクラスメイトだ。現在はクラスが違うので、ほぼ話すことは出来なくなってしまった。私はずっと彼に惹かれている。

 陸上部で、スポーツマン。社交的で、二枚目な彼は、女子の間でも人気が高い。

 彼女ができたという噂こそ、まだ聞かないものの、もともと遠い存在だった。

 告白しようと思ったのは、区切りをつけたかっただけ。望みがあったわけじゃない。

 何の取り柄もない地味な私では、どうしようもないとは最初からわかっていた。

 一年生の春。

 五十音順の私の後ろだった彼とは、何かと一緒に行動することが多かった。

 一緒にといっても、掃除の班がいっしょとか理科の実験をやったくらいのレベル。だけど、本当に彼はいつも優しくて、毎日が楽しくて。気が付いたら、目でいつも彼を探すようになっていた。

 だけど、彼が私を覚えているかどうか怪しいとも思う。席替えをしたら、ほぼ会話はなくなってしまった。

 でも、挨拶をすれば、返してくれる。それだけで十分だと思っていた。

 クラスが変わってしまうと、それすらも無くなった。

 放課後にグランドを走る彼を見ているだけの高校二年。それは、私にとってだけの記憶だから、彼の視野に私はいないだろう。そんなことは最初から分かっている。

 それでも、一歩踏み出してみたい。そう思ったのに、結局、かき集めた勇気は直前で霧散してしまった。それなのに、踏ん切りがつかないって、どうにもみじめだなと思う。この想いを断ち切れたら楽になれることもわかっている。

 でも。まだ自分の中で、全てを想い出にすることができなくて。

 せめて、来年は同じクラスになれたらいいな。

 そんなささやかな願いだけを胸に、私は鳥居をくぐった。

 狭い境内に甘い梅の香りが漂う。見上げれば、短い石畳の参道の横に、大輪の梅が咲き誇っていた。

「梅野くんと来年は同じクラスになれますように」

 拝殿の前に立ち、真剣に、それだけを願う。

 大きな願いをかけるのは怖かった。

 みんなの願いを叶えてくれる神様が、自分だけ置き去りにしてしまいそうな気がする。香る花が梅というのも、符合が一致しすぎて、ちょっと怖い。

「あれ? 青田じゃないか」

 参拝をすませ、咲き誇る梅の木をしばらく見ていた私は、不意に声をかけられた。

「う、梅野くん」

 学生服をラフに着くずしている。日に焼けた笑顔が眩しい。胸がことりと音を立てる。ひょっとして、願い事を聞かれてしまっただろうか。思わず逃げ出したくなる。

「何してるの?」

 梅野は、不思議そうに私を見つめている。

 こんな小さな神社でずっと立ち止まっていたのが不思議に見えたのだろう。

「梅の……花が咲いていたの」

 まさか、あなたのことを思って願掛けしてましたとは言えない。

「へぇー、これって、梅の花だったんだ」

 感心したように満開の木を見上げる。

「そ、そうなの。きれいよね」

 なんとなくどもりながら、私は答えた。

 胸から心臓が飛び出しそうだった。彼が、私に声をかけてくれたことはもちろん、私の名前を覚えていてくれただけでもうれしかった。

「青田って、花が好きなんだ?」

 どうやら彼は、私が梅の花に惹かれてここにいたと思ったらしい。

「う、うん」

 否定することも変なので、私は頷いた。

「部活の時間、校舎から外見ているじゃん。あれ、花壇を見てるの?」

「え?」

 なんでそれを知っているの?

 私は、身体が凍り付く。

 放課後。手芸部に所属している私は、時々グランドを走る彼を見ていた。部活仲間の友人のほかは誰も知らないと思っていた。私だけの想い出のはずだったのに。

「皆で言ってたんだ。青田、何を見ているんだろうって」

 のぞきこむように彼と目が合い、私は泣きたくなった。心に秘めていた秘密を暴かれた気持ちになる。まさか、知られていたなんて。

「ご、ごめんなさい……」

 声がかすれる。

「な、何で謝るんだ?」

 彼はびっくりしたようだった。

「ごめんなさい」

 迷惑だったのだろうか。見ているだけなら許されると思ったのに。

「別に、見て悪いなんて言ってないぞ。何を見ていたのか興味があっただけで」

 彼は怒ったようだった。何をみていたか話したら、彼はきっと困るだろう。気持ち悪いと思われるかもしれない。

「なんだ。やっぱり、誰かを見ていたのか」

 何かを悟ったように、肩をすぼめる。

「花見じゃなくて、恋愛祈願ってことかよ」

 彼は祠のほうに目をやった。クラスの女子があれだけ噂しているのだ。彼がこの神社のことを知っていてもおかしくはなかった。

「誰なんだよ、相手は」

 どこか挑戦的な口調にびっくりして、顔を上げると、真剣な眼差しにぶつかった。

「オレじゃ、ダメか?」

「へ?」

 何を言われたのか、わからなかった。話がどこかで間違っているのではないかと思った。

「冗談はやめて」

 涙がこぼれる。全然、笑えないし。

「私、見たもの……。梅野くん、告白されてた」

 あの日、一歩踏み出すことをためらっている間に、目の前で起こった出来事。思い出しただけで、胸が苦しくなる。

「なんだ。あの時、あそこにいたの、やっぱり青田だったんだ」

 彼は首を振った。

「告白されたからって、必ず付き合うとは限らないだろう?」

 いらついたように彼は私から背を向けた。

「でも、すごく可愛い子だったし」

「オレが好きなのは、お前なの!」

 え?

 私は耳を疑う。

 自分に都合の良い夢を見ている気分だ。

「嘘でしょ? 私のことなんて、名前も覚えてないと思ってた……」

 甘い梅の香りが私を包む。まるで魔法にかかっているみたいだ。

「そんな訳ないだろ。オレ、ずっと好きだったんだから」

 振り返った彼の大きな黒い瞳に私の姿が映る。胸の鼓動が激しくなった。

「入学してからずっと、君だけを見ていた」

 信じられない。でも、彼の目に嘘はない。

 涙があふれた。

 その涙に戸惑うように、彼は私をみつめている。答えを、待っているのだ。

「私も梅野くんが好き」

 私は大きく息を吸った。

「ずっと私の片思いだと思っていたから。バレンタインで終わりにしようと思ったけど、勇気が出なくて。でも、忘れてしまうこともできなくて」

 こみあげる暖かな想いをどう伝えてよいかわからず、私は口を開いた。

「だからせめて、来年は大好きな梅野君と一緒のクラスになれたらいいな、って。お祈りしにきたの」

 その言葉に彼は微笑した。

「なんだよ、ずいぶん控えめだな。オレとしてはもっとガンガンきてほしいのに」

 ちょっぴり呆れたように、彼は社のほうを見た。

「この神社、サービス精神旺盛でよかったな」

 夢のような梅の香りに包まれて、私たちは笑った。

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