チリン
三浦常春
チリン
黄昏時というものは何とも不気味な時間帯でありまして、何でもヒトの世とアヤカシの世とがくっつく時間帯なのだとか。
端的に申し上げますと、此岸と彼岸の境界が曖昧になり、言うなればお盆やお彼岸、ハロウィンに近い状態にありまして、何でもないものでも、どこか怪しく見えてしまうものでございます。
さて、なぜそんな頃合いのことを申し上げるかといいますと、私、こう見えてもあるんですよ。黄昏に、アヤカシモノに遭ったこと。
それはうら若く、純粋無垢な小学生の頃でございます。ボロボロのランドセルを背負い、おいっちに、おいっちにと、家々の間を伸びる一本道を歩いていたところ、どこからか聞こえてきたのでございます。
――チリン……チリン……。
小さな小さな鈴の音。風鈴でも鳴っているのかと思いきや、そうじゃあない。辺りにはひどく湿った、暑中らしい熱気がどっしりと降り立つばかりで、髪の毛一本揺らす風すら吹いていない。
――チリン……チリン……。
また聞こえた。足を止め、耳を澄ませてみますと、どうやらそれは私の後ろから聞こえてくるようでございます。
人間の視界というものはおよそ二〇〇度と言われておりまして、フクロウのようにぐるりと首を捻らない限り、後ろを見ることは叶いません。
そう、振り向けばよいのです。振り向けば、音の正体が分かる。
でもね、私はそうしませんでした。
なぜかって? それは今でも分かりません。何となく、
さてさて、振り向かないことを決めた私が取った行動といえば、温かい我が家へと駆け込むことでした。
給食着の入った手提げカバンを振り回しながら、バタバタと行き慣れた通学路を駆け抜けます。次第に早くなる呼吸、ランドセルの中で筆箱とランチセットが音を立てます。
目の前に見えるは交差点。信号は赤。
はっとしました。
追い付かれてしまう。
しかし当時の私は模範的な優等生。今じゃあ見る影もございませんが、信号も電車内のルールも、しっかりと守るイイお坊ちゃんでした。
弾んだ息を整えながら、車一つ通らない交差点で、信号が変わるのを待ちます。呼吸と心臓の音が、耳の奥で騒がしく鳴っております。
その音と信号ばかりに気を取られて気付きませんでしたが、ふと唾を飲み込んだその時、聞こえてしまったのです。
――チリン……チリン……。
ああ、あの音だ。
もう限界でした。目の前の信号が青になるや否や、弾かれたように走り出します。橋を渡り、薄暗い神社の前を駆け抜け、ガラリと立て付けの悪い玄関戸を開けます。
血相を変えて飛び込んできた私に、今は亡き母は目を白黒とさせておりました。当然でございましょう。普段は呑気者の息子が息を切らして、汗まみれで帰って来たのですから。
あらあらどうしたの、とエプロンの端で手を拭って頭を撫でてくれた母に、どれだけ安堵したことか。
……え、これで終わりかって? 結局あの鈴の音の正体は何だったのかって?
まあ、お待ちなさい。この話には続きがあるんですよ。
それはね、私が初めてあの音を聞いた日から何日か経ったある日のこと。あれ以来鈴の音を聞くことはなく、黄昏の恐怖心が薄れかけておりました。そんな折、こんなニュースが飛び込んできたのでございます。
少年が行方不明になりました。
少年は同じ学校に通う、同学年の子でした。仮にA君といたしましょう。
そのA君、私とも親交がございまして、何を隠そう、幼稚園からの付き合いなのでございます。いわゆる幼馴染というもので、帰る方向も一緒、家も近所同士。余程のことがない限りは、一緒に登下校をする仲でございました。
小学生ですから、忘れ物くらいよくあります。鈴の音を聞いた日、そしてA君と一緒に帰った最後の日、その日は両方とも、私とA君、どちらかが忘れ物をして、どちらかが学校へ戻り、どちらかが一足先に帰路についたのです。
そう、一人のところを、彼は狙われたのでございましょう。
A君の捜査は順調でした。こんな時代でございますから、店や電柱、インターホン、ありとあらゆる場所にカメラがございます。しかも私たちの通学路は建物の多い通路にございましたから、足取りを追うのはひどく簡単でした。
しかしそのA君、どうも不可解な動きをしていたのだといいます。
A君は何かから逃げるように、たびたび後ろを振り向きながら、足早に道路を歩いていたのだといいます。いや、逃げていたと、そう言うべきでしょうか。
さてさて、その映像、重要なのはここからでございます。
A君が去ってからというもの、待てど暮らせど、A君を追うモノは映りませんでした。とある古びた店に取り付けられたカメラに、道路上の死角はございませんでしたし、“何か”が隠れられるような場所もありません。
まことに不可解極まりない。幼いながらも、それだけははっきりと分かりました。そして私はこう考えたのでございます。
A君は、私の聞いた、あの鈴の音から逃げていたのではないか。
子供というものは、昔から天狗に狙われたり神隠しに遭ったりと、何かと不思議な体験に近いものがございます。
こんな語りをしておきながら恐縮事ではございますが、私はその手の話に詳しくないものでして、理由としては定かではありませんけれど、子供というものは人にも、人ならざるモノに狙われやすい存在のようでございます。
悪戯盛りの鼻垂れ坊主もどうやら守備範囲内のようでございましてね、いや、茶化すわけではないんですよ? ただね、まあ、私も思うところがございまして、こうでもしないと……ああ、いやいや、失礼いたしました。
さて、ええ、どこまでお話ししましたっけね。
A君が行方知らずになってからというもの、私の通っていた小学校では集団で、しかも保護者同伴で登下校するよう義務づけられましてね。まあ犯人の目途が立っていないんじゃあ仕方のないことではございますが、みな恐れるとともに普段と違う通学路に浮足立っていたのでございます。
だからでしょうか、優等生の私、忘れ物をしてしまいまして。集団下校の塊から外れて、一度学校へ戻ったのでございます。
私は片親でございまして、母は近所のスーパーマーケットで夕方頃までは働いておりましてね、下校の時間帯はちょうど不在にしているのでございます。もう三十分ほど下校時間が遅れればいるのですが、なんと運の悪いこと。私は一人、とぼとぼと、すっかり静まり返った通学路を歩いていたのでございます。
さて、時刻は黄昏時。此岸と彼岸が混じる頃。アヤカシどもの往来は、幸か不幸か、一人道行く少年を捉えたのでございます。
――チリン……チリン……。
ああ、しまった。
いつかのように信号は赤。車もない。優等生の私も流石に堪えるだけの気概はなく、ツキツキと吹き
その間も件の音は続きます。
――チリン……チリン……。
いつまでも、いつまでも。ずっとずっと、その音は変わらず私の後を付き纏います。足を止めたら最後、A君と同じようになるだろう。そういう確信が、私の中にはありました。
さて、どれだけ走っていたのでありましょうか。ふと、私を追っていた音がなくなったことに気づきました。なくなった、は言い過ぎかもしれませんが、どうやら追って来てはいないようでございます。
恐る恐る振り向くと、そこには何かが立っておりました。
何だったのかって? “何か”としか言いようがないのでございます。
ただそれは、橋を隔てた先で、恨めしそうに、じいっとこちらを見つめておりました。足を止めても、それが追い付く様子はございません。どうやら、橋からこちら側には渡って来れないようでした。
しかし渡っては来れないとはいえ、その姿は見るに耐えない有様でありました。
人のような汚泥のような、形容しがたい――と言うと、私、語り口の怠惰のように思われるかもしれませんが、誠にそのような姿なのでございます。
怖くなった私は、張り付いた靴を懸命に動かして帰路を急いだのでした。
さて、私の話は以上でございます。皆様もどうか、黄昏時にはお気をつけください。さもなくば、次のA君は――。
チリン 三浦常春 @miura-tsune
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