油彩の女神

小金瓜

油彩の女神

 僕は今、スーツを着た白髪の老紳士に案内され客間に通されている。客間と言っても洋館のそれなので、決して畳と座布団が置いてあるような和室ではない。壁には絵、棚には彫刻、天井を見上げるとそこにも絵画。部屋のそこかしこが芸術まみれの部屋だ。


 しがない大学生である僕がこんな身なりの良い老紳士と仲良くなれたのは、一枚の絵画がきっかけだった。

 僕が洋館の側を通りかかった時、かの老紳士は庭のテーブルに腰掛けていた。そして老紳士の向かいには、一枚の絵画が椅子の上に座らされていた。――椅子の背もたれにキャンバスが掛けてある様は、『座らされている』としか言いようが無い。

 絵画を見た僕は、思わずその美しさを誉める言葉を老紳士に向けていたのだ。彼はその言葉を、我が意を得たりといった風に喜んでくれた。そして洋館の中に招かれ、今に至る。


「私は昔芸術家になろうとしていましてね……。いや、道楽と言われればそれまでですし、親の財力に支えられていなければやっていけない程でしたが」


 椅子に腰かけ老紳士は語る。その隣の椅子には、件の絵画。庭に出ていた時と同じように、椅子の背もたれに立てかけられている。

 縦長の油彩画で、それほど大きくない。縦幅は六十センチあるかないか。

 キャンバスの中央には、澄んだ湖を背景に茶髪の若い女が描かれていた。衣装は白く薄いベールを纏っているだけでほぼ裸身と言って差支えなく、裸足で踊るようにキャンバス一杯に肢体を広げている。


 その姿はさながらギリシャ神話のニュンペーのように見えた。貞淑ていしゅくさよりも自然の情欲と躍動感を感じさせるような、そんな絵だった。

 僕は、ここにある芸術品は全てあなたが作ったのかと訊いた。老紳士はそれに、


「部屋に飾ってあるものは全てそうですよ。大切な我が子たちです」


 と答えた。そして壁掛けの水彩画や棚の彫刻を指さして、一つ一つ説明してくれた。件の絵画を除く全ての説明を聞いたので、僕はそれもあなたが描いた作品なのかと訊いてみた。

 すると老紳士は、隣の絵画に肩を抱くように腕を回して言った。


「いいえ、違います。――私の妻です」


 からかっているのか、と思ったのも無理はないだろう。絵画が妻だなんて、そんな馬鹿げた話があるか。僕は絵のモデルが奥方なのではと思い直して、訊いた。しかし老紳士はまたも否定を返す。

 正真正銘、この絵画そのものが奥方だと言っているようだ。あまり信じたくはない。

 老紳士は『彼女』との出会いを、頼まれもしていないのに詳しく語り出した。




 時は今から四十年近く前、私がまだ美術大学に通う学生だった頃。課題の為に、私は某所に建つ美術館を訪れました。そこに飾られていたのが『彼女』でした。


 題名は、「女神」。


 元々私は色恋に疎いものでしかたら、それが初めての恋だったのです。遅咲きながらもその魔力は絶大なものでして、私はもう、財力の許す限り美術館に通って『彼女』に会いに行ったのです。


 絵であるからには、『彼女』は動くことも喋ることもありません。しかし心はあります。

 私との逢瀬の時は少しだけその目線を寄越してくれますし、無学な者に貶されれば怒ります。不躾ぶしつけな視線には敏感で、真の美を感じ取らない者の前ではずっと不機嫌なままです。

 何より、現実の女性のように褒めれば褒める程美しくなってくれるのですよ。『彼女』はもう描かれて何十年も経っていますが、経年劣化はあまり見当たらないでしょう。絵具も、色褪せてはいません。 私がずっと『彼女』に美しい、愛しいと言い続けていたからです。


 ある時、授業の課題で油彩画をやりましてね。元々油絵具は所持していたのですが、彼女に会ってからそれを弄るのは初めてで。その時油絵の具の匂いを――教授にやめろと言われていたのに、目いっぱい吸い込んでしまいました。ああ、これが『彼女』を構成するものの匂いなのだと、そう思うと私は居ても経ってもいられませんでした。

 『彼女』の血肉となったものを味わってみようと、『彼女』の肌の色に似せた油絵具をパレットで作り、それを舐めてみたのです。その味といったら。

 それから私は……褒められたものではありませんが、『彼女』に触れたい一心で、夜の美術館に忍び込んだことがあります。彼女に触れ、接吻を交わしたのはその時が初めてです。私はそれを一生忘れません。


 何年かそのような交際を重ねた末、私は両親と美術館、双方に無理を言って『彼女』を買い取りました。これを言うと怒るのですが、『彼女』は絵画としてはそこまで価値が無かったらしいのです。――ああ、ごめんよ。でも君は私の中の一番だからね。本当は値段など付けられないんだよ。




 彼と『彼女』の話はこの通り。行き過ぎた恋は、今も昔も狂気を呼ぶらしい。

 僕は少し、背筋が冷えるような感じがした。老いた彼と美しく若い『彼女』を見比べたら、江戸川乱歩のさる小説を思い出さずにはいられなかった。

 きっとこの老紳士は、いつかあの油彩画の中に入って行ってしまうに違いない。そうして、自分の愛する女神をかき抱いて、共に踊るのだ。永遠に。


 そんな僕とは対照的に、老紳士は達成感に満ちた顔で油彩画のキャンバスの縁を撫でている。

 老紳士に、僕は思い切って訊いた。絵の中に入りたいか、どうか。

 三度目の否定。これは少し予想外だった。あれほど絵画の女に懸想しているのだから絵の中に入りたがっているのだと思い込んでいたのに。けれど、老紳士の言葉はこうだ。


「私がもし絵画の住人だったならば、どうして『彼女』と添い遂げることができましょう。気位の高い『彼女』は私のようなつまらない男にはなびきませんよ。私が『彼女』を得られたのは、私が運良く現実世界の人間だったからです。今だって宥めすかし機嫌を取って、やっと夫婦でいることを許してもらっているのですから」


 どうやら随分とかかあ天下らしい。僕は思わず老紳士の隣に鎮座する油彩画を見た。確かに、女神という題名なだけあって気高さを感じるが。


「まあ、結局私は彼女の『血肉』を味わうことは止められませんでした。なので今は歯も身体も相当傷んでいます。もう年ですし長くは持たないでしょう」


 続けて老紳士はそう言うと、油絵具の毒性でぼろぼろになった歯を見せて、笑った。老紳士を破滅に導く油彩の女神も、彼の隣で共に笑っていた。

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油彩の女神 小金瓜 @tomatojunkie

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