心臓破りの坂

江田 吏来

心臓破りの坂

 この春、俺は中学生になった。

 ぶかぶかの制服がまだ格好悪いけど、気の合うクラスメイトにめぐまれてそこそこ楽しい。

 苦手な勉強もまあまあがんばっている。

 愚痴をこぼすとしたら学校の場所だろうな。

 高台にあるから通学路が悲惨。だらだらと長いのぼり坂が永遠に続き、学校が近づくにつれて急になっていく嫌がらせのような坂だ。

 生徒は言うまでもなく、保護者や先生もこの坂を【心臓破りの坂】と呼んで、忌み嫌っている。

 

 もちろん、本当に心臓を破ってくるわけじゃない。

 暑い夏はぶっ倒れそうになるし、寒い冬になれば体育の授業で毎回この坂を走らされる。そんな話を陸上部の先輩から聞いて、今から気が滅入ってしまう。 

 それでも眠い目をこすりながら毎日通っていると慣れてきた。

 ぜえ、ぜえ、と肩で息をした日々から、少し息を切らす程度に。慣れるってすげえよな。


「朝練が終わったら今日の宿題、写させて」

「またかよ」

「だって毎日、くたくたで」

「僕だってくたくただよ」


 友だちとたわいのない話をしながら通学できるようになった。

 心臓破りの坂もたいしたことねぇな。そんな余裕が生まれてくると、周囲をよく見回せるようになった。


 車がギリギリすれ違えるような道は、せまくて古い。

 すぐそこの雑木林から荒れ放題に伸びている雑草が、びたガードレールをのみこもうとしている。

 曇りや雨の日は夕暮れのように薄暗くなって、とにかく不気味。


「オバケが出てきてもおかしくないな」


 俺がぽつりとつぶやくと、一緒に登校している岡田おかだがにやりと笑った。


「出るみたいだぞ。これが」


 岡田は前屈みの姿勢で両手をぶらんとさげる。そして「うらめしや~」と。

 俺の背筋はぞくりと寒くなったが、怖がりだと思われたくない。ずいぶん古典的な幽霊だな、と笑い飛ばした。


「ちえっ、伊藤いとうくんは幽霊とか平気なタイプなのか。僕は怖い話とか苦手なんだけどなぁ」


 残念そうに口をとがらせるから、幽霊の話はこれでおしまい。そう思っていたのに、岡田は話を続けてきた。怖がりのくせに。

 

「心臓破りに坂には、女の幽霊が出るんだ。赤茶けた血の色をしたワンピースを着て、長い髪を垂らしながら雑木林の奥から手招きをするって」

「なんだよ、それ。ありきたりな怪談話じゃないか」


 もっと身の毛がよだつ話かと思って身構えていたのに、どこにでもありそうな話。ホッとした俺は肩の力を抜いてまた笑った。

 すると雑木林がいっせいにざざざぁっと騒ぎはじめるから、俺たちの足が止まった。

 自然と意識が雑木林の奥へと吸いこまれていく。

 

「おっ、伊藤と岡田。そんなところで立ち止まってなにやってんだ?」


 突然の声に、俺たちはビクッと肩をふるわせた。

 陸上部の若林わかばやし先輩が「よぅ」と片手をあげる。


「早く行かないと、朝練がはじまるぞ。一年生の遅刻はグランド十周な」

「げっ! そんな話、聞いたことないですよ」

「そりゃそうだ。今、オレが決めたから」


 なんて理不尽りふじんな……。

 朝っぱらからグランド十周なんてやってられない。

 俺は立ち止まったままの岡田に「おい、走るぞ」と声をかけた。でも岡田は動こうとしない。

 

「伊藤くん、見た? 雑木林の中に……人がいる」

「は?」


 そんなはずはない。

 雑木林の中をのぞきこもうとしたら。


「見るなッ!」


 若林先輩が声を荒げた。そこからは俺たちの腕をつかんでグイグイ引っ張っていく。

  

「雑木林に人がいても、絶対に見るな。目を合わせたら連れていかれるぞ」

「どこに?」

「あの世だよ」

「そんな作り話、先輩も信じてるんですか?」


 俺の心臓はバクバクしていたけど、薄笑いを浮かべて強がって見せた。

 

「……だれもいないですよ」

「おい、やめろって」

「えぐい坂道に不気味な雑木林だから、怪談話の一つや二つあると思っていたけど、幽霊なんていませんよ。だいたい岡田は昔から怖がりで」

「本当だって。本当にいたんだ」

「先輩、こいつはビビりの怖がりだから、冗談でも幽霊の話はやめましょう」


 本当は俺の方がビビりで怖がりだ。

 でもここは強がって岡田をビビりに仕立てた。これでもう、怖い話はなくなる。

 岡田には悪いけど、幽霊の話なんか聞きたくない。

 

「そっか、怖がらせて悪かったな」


 若林先輩のやさしい声に岡田は顔をあげて、なにか言いたそうな顔をした。




 

 翌日、家を出る前に岡田からのメッセージに気がついた。

 熱があるから学校を休む、という短いメッセージだった。


「あいつ、……まさかな」


 ――雑木林の中に人がいる。


 岡田は血の気を失った顔で、消え入りそうな声を出していた。

 怯えに満ちた昨日の顔を思い出すと、首筋からゾッと寒気が。

 俺は頭を二、三度軽くふった。

 幽霊が怖いので朝練を休みます。なんて言えるはずもなく、サボるわけにはいかない。

 心臓破りの坂は不気味だけど、朝練に通う生徒がいつもいる。若林先輩だって俺と同じ時間にやってくる。

 だれかを見つけて学校へ行こう。決して一人になることはない。そう思っていたのに、こんな日に限ってだれもいなかった。

 

 しんと静まりかえる坂道を進んでいると、この世からすべての人が消えてしまったかのような錯覚におちいる。


「バカバカしい」


 強がりの言葉をこぼして、両足に力をこめた。

 だがいつもとどこか違う。

 朝露をふくんだ土の匂いに、むせるような生臭さが混じっている。

 いつもならさわやかに通り過ぎる早朝の風も、ねっとりと絡みついて不快に肌をなでていく。

 俺はごくりとのどをならした。

 

 ――雑木林の中に人がいる。

 

 この言葉が頭から離れない。

 ほんのわずかな物音でも心臓が驚く。

 うっそうと生い茂る雑木林の奥から、じっとこちらの様子をうかがうような視線を感じた。


「ありえないだろ」


 幽霊なんて、という言葉をのみこんで空を見上げた。 

 分厚いねずみ色の雲が空一面に広がって、明るさを運んでこない。

 たった一人の通学路。

 雑木林に囲まれた薄暗い道。

 それらすべてが足取りを重くしているだけ。


「走るか」


 出口だけを見据えて駆け出した。

 カバンにつまった教科書が重い。

 すぐに息が切れる。

 同時にのどがカラカラになって痛い。

 

 それでも走り続けると、ほんのりとやさしい日差しが俺を迎えてくれた。

 もう怖くない。

 ホッと胸をなでおろすと、今度は別の不安が頭をよぎる。

 薄暗い坂道が怖くて走り出した。そんな格好悪い姿をだれかに見られていたら……。

 深呼吸をして息を整えながら俺は振り返った。 


「ん?」


 錆びたガードレールにもたれている人がいた。

 深く頭を垂れてうつむいている。

 ドクン、ドクンと心臓が激しく鼓動しはじめたけど、髪が短い。

 ここに出る幽霊は、赤茶けた血の色をしたワンピースを着た女。

 錆びたガードレールにもたれているのは男だった。


 俺は苦笑した。

 心臓破りの坂がきつすぎて途中で足を止める。そんな人を何度も見かけているから、錆びたガードレールにもたれている男もただ休憩しているだけ。

 いちいち怖がっているのがバカバカしくて、どこか吹っ切れた。

 

 しかし次の日も、男は同じ場所にいた。

 その次の日も。

 坂の上から振り返るといつも同じ場所にいる。


 そして岡田は風邪をこじらせて、まだ学校に来ない。たった一人で登校していたら毎日同じ場所にいる男が不気味で、恐怖を感じていたと思う。でも、若林先輩と一緒に登校するようになったから、俺から恐怖心は消えていた。

 若林先輩が口を開くまで。


「なあ伊藤、なんでいつも坂の上で振り返るんだ?」

「なんでって」


 俺はいつも通り坂の上で振り返る。

 毎日同じ場所で休んでいる男が気になるから。そんな話をすると、若林先輩の顔にはっきりと怯えの色が浮かんだ。


「男なんていないぞ」

「そんなはずは……だってそこに」


 俺の足が一歩、坂を下った。

 すると足が止まらない。

 錆びたガードレールにもたれている男の方へ、吸いこまれるように足が動く。


 怖い。


「おい、伊藤。どこ行くんだ?」


 若林先輩の声がしたけど、足が勝手に進んでいく。

 逃げ出したいほどの恐怖に包まれているのに、足が、体が――。


 俺は錆びたガードレールにもたれている男の前に立っていた。

 そして男はゆっくりと顔をあげる。


「……ウソだろ?」


 ふるえる俺の唇からかすかな声がこぼれた。

 目の前にいるのは、気持ち悪いぐらい白い肌をした岡田だった。


「よかった。伊藤くんには僕が見えるんだ」


 岡田は風邪をこじらせて学校を休んでいる。それなのに、死人のような目と血色を失った青白い唇を動かして話しかけてくる。

 俺は混乱する頭と心を落ちつかせようと必死にがんばったが、考えれば考えるほど身動きが取れなくなっていく。


「伊藤くん、しってた? 雑木林の中にいる人を見たら、心臓を奪われるんだ。僕のように」


 岡田の左胸から赤黒い血がどっと流れ落ちた。

 そして岡田の冷たすぎる手が、俺の左胸にふれる。

 その瞬間、心臓を握りしめられたような恐怖が全身を駆けめぐり、すべての色と音が消えた。


 ここは心臓破りの坂。

 もちろん、本当に心臓を破ってくるわけじゃない。

 本当に?


 岡田が俺の心臓を握りつぶしていた。





 ふと気がつくと雑木林の中にいた。

 俺は夢でも見ていたのか?

 体じゅうの力が抜けてその場に座り込んだ。

 しばらくぼうっとしていたが、学校や家のことを思い出して立ちあがった。


「ヤバい、ヤバい。遅刻する」


 慌てて走り出したのに、気がつけばまた雑木林の中。

 家に帰りたくても帰れなかった。

 冷たい雨の日も、凍える冬の日も雑木林から抜け出すことができない。何度挑戦しても、気がつけばここにいる。

 わけもわからず呆然と立ち尽くしていると、若林先輩が目の前を通り過ぎた。

 

「ほら、そこの錆びたガードレールに男がいるって……。あのとき、オレが伊藤を止めていたら」

「その話はやめましょう。伊藤くんが行方不明になったのは、若林先輩のせいじゃないですよ」


 岡田の声だった。


「あの話、じつは本当だったかもしれませんね」

「あの話?」

「若林先輩が僕に教えてくれた話です。雑木林にいる人を見てはいけないって」

「ああ、その話か。伊藤はあの世に連れていかれたのかな」

「かもしれませんね。でも案外近くにいて、次のターゲットを狙ってるかも」

「なんだよ、それ」

「伊藤くんを見た者は、伊藤くんに心臓を奪われて次の幽霊になる……って」


 岡田は唇を横に薄く引き伸ばして、ニィッと笑った。

 勝ち誇ったような、あざけるような、そんな横顔が通り過ぎていくから、俺はすべてを悟る。


 岡田は俺の心臓を握りつぶして、この雑木林から抜け出した。


 本質を理解すると耐えがたい怒りが腹の底から湧きあがってくる。

 殺してやるッ! 

 爆発したように叫んでも俺の声は届かない。

 怒りで血の色に染まった目を向けても、二人には俺の姿が見えなかった。


 だれか薄暗い雑木林の中をのぞいてくれ。

 錆びたガードレールの奥を。

 振り返るとそこに、俺がいるから――。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

心臓破りの坂 江田 吏来 @dariku

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ