膝が痛い
烏川 ハル
膝が痛い
「膝の痛みの原因は、老化に伴う軟骨の摩耗! それを抑える成分をたっぷり含んだサプリメントが、今だけ特別割引価格で……」
新田久美が小学校から帰ってきた時、リビングのテレビでは、何度も見たようなCMが流れていた。
「ただいま、お母さん」
「あら、もうそんな時間なのね」
母親はリモコンでテレビを消すと、深く腰を沈めていたソファーから、ゆっくりと立ち上がろうとする。両膝に手をついて、立ち上がるだけで一苦労という様子だった。
「どっこいしょ」
無意識のうちに、口から飛び出すのだろう。最近では口癖となっており、そんな母親を見る度に、久美は、やるせない気持ちになるのだった。
「お母さん、夕飯の下ごしらえ始めるんでしょ? 何か私に手伝えることある?」
「大丈夫よ。料理は主婦の仕事だもの。お母さんに任せなさい!」
胸を張って宣言する母親だが、キッチンへ向かう足取りは鈍い。膝の痛みに苦しんでいるのが、丸わかりだった。
それでも。
「そう? じゃあ私、先に宿題、済ませちゃうね」
料理が主婦の仕事ならば、勉強こそが小学生の仕事。そう考えた久美は、台所を母親に任せて、自室へと向かうのだった。
――――――――――――
「なんだか膝が痛いわ。嫌ねえ、まだそんな
と母親が言い出したのは、いつ頃だっただろうか。
はっきりとは覚えていないが、おそらく半年くらい前だったはず。それが久美の認識だった。
大好きな母親の大変そうな有様に、小さな胸を痛めるが……。まだ小学生の久美に、出来ることは何もなかった。
「お母さん、いってきまーす!」
「いってらっしゃい」
リビングのソファーに深々と座り、笑顔で手を振る母親。彼女を残して、久美は今日も、元気に学校へ向かう。
母親の分まで、せめて自分だけでも元気な姿でいよう、と思って。
それは、いつもの朝の出来事のはずだったが……。
久美の家は住宅街の中にあるが、小学校まで住宅街が続いているわけではない。途中、両側を木々に囲まれた区間があった。
豊かな自然に恵まれている、と久美は捉えて、お気に入りの場所になっていた。森と言うには大袈裟な規模だが、ちょっとした森林浴の気分だったのだ。
だから今朝も、緑のエリアに入った頃には、清々しい気分で胸がいっぱい。母親に対する心配も、いったん忘れるくらいだった。
他の児童より早めの通学時間なので、ちょうど周りには誰もいない。ふと立ち止まった久美は、腕を広げて深呼吸する。
「ふう……」
一人だから良いようなものの、もしも今の姿を友達に見られたら、ちょっと恥ずかしいかもしれない。「何やってるの?」と言われたり、学校でからかわれたりするかもしれない。
そんな考えが頭をよぎった瞬間。
久美は、視線を感じた。
「誰……!」
慌てて振り返るが、視界に入るのは、両側に立ち並ぶ木々ばかり。
いや!
茶色でも緑色でもない何かが、木々の間にいる!
「えっ、何……?」
目を凝らすと見えてきたのは、白っぽいモノ。後ろの木々が透けているので、半透明らしい。ヒトの形をしており、大きさは中学生か高校生くらいだった。
曖昧な存在であり、目や鼻や口があるわけではなく、それっぽい穴や窪みすら存在しない。それでも、体の上に人間の顔が乗っかっているように思えてしまう。
モヤモヤした白い人影といえば……。
「まさか、幽霊? でも、まだ朝だよ?」
草木も眠る丑三つ時、という言葉があるように、そういうのは夜遅くに出るのが普通ではないだろうか。
自分の目が信じられず、いったん目を閉じて、ゴシゴシと
再び目を開けて、問題の場所に視線を向けると、
「……あれ?」
白っぽいモノは、もう見えなくなっていた。
「見間違いだった……? 私、まだ寝惚けてるのかな?」
学校に着いたら、もう一度顔を洗おう。
そう心に決めて、久美は歩き始めた。
――――――――――――
それから三日後の夕方。
「最近、お母さんがうるさいの。塾へ行け、って」
「えー。くるみちゃん、勉強できるから塾なんて必要ないでしょ?」
並んで歩く友達の言葉を、軽く笑い飛ばす久美。
「私なんて、ちゃんと塾に
「あー。久美ちゃん、頭使うより体動かす方が得意だもんね」
相手によっては、カチンときてもおかしくない発言だろう。だが彼女に言われても、久美の腹は立たない。それくらい仲の良い友達と、談笑しながら帰る途中だったのだが……。
木々の立ち並ぶ区間から、住宅街に入ったところで。
久美は突然、足を止めてしまった。
釣られるように友達も立ち止まり、久美の顔を覗き込む。今の今まで笑顔だったはずなのに、久美の表情は
「どうしたの、久美ちゃん?」
「あれ……」
指示語だけを口にして、久美が指さしたのは、曲がり角の電柱の辺り。
「何? 何かあるの? あの八百屋さん?」
確かに、ちょうどその辺りを、八百屋のおばさんが通りかかるタイミングだった。友達には、それしか見えていないらしい。
「ううん、何でもない。ごめんね、くるみちゃん。忘れて」
「……? 変な久美ちゃん。まあ、いいけど」
二人は、再び歩き出す。
久美は、何も見なかったふりをしようと決めたが……。
内心では「見間違いじゃない」と確信していた。
彼女の目に映ったのは、例の白いバケモノ。ただし今度は、小学校低学年くらいのサイズ。それが電柱の影から現れて、八百屋のおばさんの膝の中へ、スーッと吸い込まれていく光景だった。
――――――――――――
さらに一週間が過ぎた夜。
「ああ、もう! お腹ペコペコ!」
久美は一人、早足に家へ向かっていた。
塾の帰り道だ。彼女の通う塾は、小学校の近くにあるので、ちょうど通学路を歩いて帰る形になる。
住宅街は十分な街灯があるから良いけれど、小さな森のようになっている辺りは、その数も少ない。日中は心地よい緑の区間が、夜は薄暗さゆえに、不気味なエリアに変わっていた。
「こんなところ、早く駆け抜けなきゃ……」
自分に言い聞かせながら、さらにスピードを上げる。暗いというだけでも長居したくないのに、久美にとっては、怪現象に遭遇した場所でもあるのだ。
しかし。
そうやって思い浮かべたことが、かえって
久美は、またもや出会ってしまった。
暗い木々の間に浮かぶ、モヤモヤとした人影。やはり半透明でありながらも、夜の闇の中、その白さは昼間以上に目立っていた。
「……ひっ!」
恐怖の声が、自然と口から漏れる。
そのせいで、久美がバケモノに気づいたのだと、バケモノの方にも伝わってしまった。
「……!」
慌てて口を押さえるが、もう遅い。
久美の視界の中で、バケモノの姿が少しずつ大きくなっていくのは、ゆっくりと近づいてくるからだろう。
『オマエ……』
くぐもった声を発するバケモノ。
蛇に睨まれた蛙のように、久美は体を硬直させたが……。
『……ザンネン。オマエ、マダ、ワカイ。オレ、ハイレナイ……』
そう言い残して。
白いバケモノはスーッと遠ざかり、姿を消すのだった。
「お母さん! あのね、さっき帰り道で……」
「あら、おかえり。どうしたの、そんなに慌てて?」
帰宅した久美は、叫びながらキッチンに駆け込んだのだが、のほほんと返す母親に、気勢をそがれてしまう。
「……ううん、何でもない」
「お腹減ったでしょう? お父さんが帰ってくる前に、先に二人で食べちゃいましょうね」
「うん。お母さん、待っててくれてありがとう」
テーブルの上には、おいしそうな料理が並んでいた。母親のところには、さらにサプリメントが置いてある。CMの謳い文句を信じて最近購入した、膝の痛みによく効くという噂のサプリメントだった。
久美の視線に気づいたらしく、母親が苦笑いする。
「本当は、こういうものに頼りたくないんだけど……。でも膝の痛みって、家事の邪魔にもなるからねえ」
「そうだね。早く良くなるといいね」
サプリメントを口にする母親を見ると、久美は思うのだった。
バケモノが人間の膝に入り込むなんて話、お母さんには絶対に言わないでおこう、と。
(「膝が痛い」完)
膝が痛い 烏川 ハル @haru_karasugawa
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