第20話 武者

 その夏の朝、いよいよ私の寿命も尽きようとしている、と不意に覚りました。

 体のどこかが特に悪いわけではなく、平生と変わりありませんでしたが、数十年前に亡霊に手を引かれのが、今月の今夜だったことにふと思い当たりました。

 その日、訪れたきぬにも、住持にも何も告げず、夜になるのを待っておりましたら、夕方からあの日と同じような篠突く雨が降り出して、例の武者が現れる気配が漂いました。

 武者が私の手を引くのを端坐して待っておりましたけれど、いつまで経っても私の手を取りません。

 不審に思い始めた私の気を察したように、武者は次のように語り始めました。


 祖父の代から仕えて、父もわしも栄華を極めた一門にあったことを、亡霊となった今も誇りに思うている。

 おぬしが弾じる琵琶が語るように、盛者必衰の理も奢れる者の久しからぬことも、この身で味おうておったが、敗れて身を海中に投じても、お供できたことに優る喜びはない。

 ところが、世の人びとは面白いもので、栄華栄養の絶頂にあったものが非業の死をとげたならば亡霊となってこの世を彷徨い今生に生きる者を幽界に誘い込む悪霊に変じるもの、ともっぱら信じておる。

 さりながら、我ら亡霊となっても、悪霊怨霊にはあらず。こうして一門揃うて幽魂となって共に世に永くあるならば、どうしてこれを不仕合わせであると断じられようか。否、幽鬼として永遠にこの世にあるならば、むしろ幸いと悦んでしかるべきではないか。

 また、生ける者にとっては、生老病死、これを四苦と呼び習わして不仕合わせである己らを歎き慰めているが、我らにそのような苦しみはない。

 生ける者どもは、それでも我らを亡霊と懼れ忌み嫌うが、我らが一門とともにあらば、浄土などまやかしでしかないことが知れようし、また、いついつまでも一門でいられること、つまりは愛別離苦などない、ということも悟るであろう。

 あのおり、わしがおぬしを迎えにまいったということは、我らが一門の一人となる機会を得たということであったが、愚かにも先代の住持は御仏の加護と称してそれをおぬしから奪ったのである。

 その住持の魂魄は、いまだそれに気づかぬまま、浄土を探し求めて平安を得られぬまま彷徨うていることであろう。

 ここでわしが改めて説き聞かせるまでもなく、おぬしはいよいよ我らが一門となるべきときを得たのである。

 それが証に、わしが奪ったおぬしの耳を、今、返してやろう。


 そう言って、武者は私の両耳のあったところを、両の掌で強く打ちました。

 刹那、間近で梵鐘が響き渡るような衝撃が波打つごとく頭蓋に走りましたけれど、思わず両手で押さえてみましたら、奪われたはずの双耳が確かにそこについておりました。

 私は、二つの耳を愛しく思いながら、しばらく左右の手で撫でておりました。

 朝になって、その耳にきぬは頬を押しつけながら、私の亡骸を抱いて泣きました。

 やがてきぬを迎えにまいるつもりではおりますが、さて、きぬは一門の一人となりましょうや……

 それでは、何を弾じましょうか……

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耳なし異聞 二河白道 @2rwr

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