5.物語の主人公になろうとした少年

「少年よ、君は生まれ変わった」

 目覚めたとき、俺はそう言われた。


「君は選ばれたんだ」

 暗闇に揺らめくロウソクの影で、女は微笑んだ。


 女は地下書庫の司書と名乗った。声は若く、暗闇に艶めく肌や唇には少女の面影があった。僧衣に施されたきめ細やかな装飾は、高位聖職者であることを窺わせた。

 暗闇に灯るロウソクは優しい色をしていたし、漂う湿った空気も不思議と心地よかったが、しかし目覚めたばかりでは事の次第はまるで呑み込めなかった。

 訊ねたいことはたくさんあった。一を訊ねると、女は十答えてくれた。

 どうやら俺は馬車に轢かれて死んだらしい。そしてその遺体が埋葬されようとしたとき、奇跡は起こった。俺は生まれ変わった。そしてすぐに地下書庫へ運ばれた。

 ここは賢人と呼ばれる聖職者たちが日夜研鑽と探究に励む国家の学術研究機関の最高峰であり、司書はこの地下書庫の一切を統べる最高職であると女は言った。

 女は俺のことを選ばれた人間だと語った。そして古今東西の歴史に記されし主人公たちになぞらえて称賛した。未来を切り拓いた英雄、戦場に名を馳せた勇者、全てを灰燼に帰した覇王……。中には神の奇跡を駆使して国難を救った聖女の話もあった。


 神の奇跡──かつてに古の聖女が顕在させ、そして大いなる災厄を打ち払ったとされる、魔法のような夢の力。


 指を鳴らせば炎が踊り、大地を蹴れば強き風となり、神の名を唱えれば雷が迸る……。物語の主人公たる力を欲するのなら、契約をするよう求められた。俺は迷わずペンを取り、書面に名を書いた。

「素晴らしい、自分の名前が書けるのか。少年よ、やはり君は特別だ」

 女は俺の名前を読み上げると、また暗闇に微笑んだ。


 一緒に神の名を唱えた。新たな日常が始まった。暗闇に灯る未来は明るかった。


 女と一緒に神秘的なことをたくさんした。血の調整、聖刻の儀式、魔法の記憶への記録……。ただ、地下の暗闇は長かった。正直に言えば、暗いだけの地下書庫にはすぐ飽きた。女は俺のことを「選ばれた人間」だと言ったが、神の奇跡はおろかか、いつまで経っても魔法の一つさえ使えなかった。

 しかし気分はよかった──今このとき、俺は確かに選ばれたのだ──その高揚感は何にも変え難いものだった。


 だがある日、新たな日常は唐突に終わった。


「これもまた失敗か……」

 女は溜め息をつくと、怒声とともに机上の物を投げ飛ばした。

「せっかくの聖女の血をまた無駄にしてしまった……。やはり女でなければダメなのか……?」

 医療器具のような何かが血だまりに落ちる。頭を抱え延々とごちる女が、それを蹴飛ばす。

 何度か、どうしたんだと訊ねた。だが、血走った目がこちらを見ることはなかった。

「残念だ。君の名が歴史に語られることはないだろう」

 女は独りごちると、暗闇に消えた。

 しばらくして、黒い僧衣を着た影が何人か現れた。そいつらに体を持ち上げられ、台車に乗せられた。体はほとんど動かなかった。ガタガタ揺れる台車の上で、俺はどこに行くのか訊ねた。影は誰も何も答えなかった。埒が明かず、俺は司書の女を呼んだ。しかしそちらは影も形もなかった。

 軋みながら扉が開き、台車から転がされた。湿った地面は冷たかった。痛みはなかったが、辛うじて這うことしかできなかった。軋む扉はすぐに閉じた。ランタンの明かりは足音とともに遠ざかり、やがて消えた。

 司書の女が再び現れることはなかった。そもそも、その後は誰の足音さえも来ることはなかった。


 どれほどのときが経ったのだろうか──これからどうすればいいのか? いつまでここにいればいいのか? 選ばれたのではなかったのか? ──俺は声が枯れるまで叫んだが、しかし声は暗闇に呑まれるばかりでどこにも届かなかった。


 俺は捨てられた。


 俺はただ物語の主人公になりたかっただけだった。現実では人の話の端にさえ上らぬ、ただのつまらぬ男に過ぎなかった。だからこそ、この薄暗く湿った地下に未来を見た。それなのに、せっかく死んだのに、せっかく選ばれたのに、せっかく生まれ変わったのに、こんな仕打ちはあんまりじゃないか……。

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そして戦いの果ての地で…… 寸陳ハウスのオカア・ハン @User_Number_556

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