4.孫を見送る老兵
孫に「ありがとう」と言われたとき、思わずぶん殴ってやろうかと思った。
自分の息子ならば間違いなく拳を振り上げ、叱っていた。そして道理を説いていた。だが今このとき、老体は動かなかった。今や馬上にいることさえ限界であり、人手がなければ馬の乗り降りもできなかった。ゆえに思うだけで何もしてやれなかった。
血と泥と硝煙に塗れ、真っ黒になった孫が立ち上がる。死体の中から、縋るような視線がこちらを見上げてくる。
「礼を言う相手が違うだろう」
真に礼を言うべきは、この地獄のような戦場で最後まで戦ってくれた仲間や部下たちである。援軍自体は軍司令部からの命令に従ったまでであり、負ける寸前でたまたま間に合ったに過ぎない。それがわからぬなら若手とはいえ軍人を辞めるべきだと思った。
「もう子供ではないのだ。なぜ生きて戦い抜けたのか、自分でよく考えろ」
自分の息子なら思い切り𠮟りつけていた。だが、孫のことは面倒こそ見たが育ててはいない。だから厳しい言葉は出せなかった。
率いる部隊に指示を下し、行動を再開した。背後から呼ぶ声が聞こえたが、二度は振り返らなかった。
小さかった頃はよく笑う子だった孫は、あるときからほとんど笑わなくなった。母親を亡くし、父親に見放された孫から溢れ出る激情は底なしにどす黒かった。やがて親子は正式に敵対関係となった。もはや流血は避けられず、孫は道を踏み外さねば命がないところまで追い詰められていた。だから保護した。そしてその境遇ゆえに、甘やかしすぎた。
このままではいけないと思い、伝手を頼って軍に送り出した。孫は何人かの部下を預かる立場になった。そして戦に赴き、ボロボロになりながらも負け戦を戦い抜いた。
あの負け戦の援軍が、孫に構ってやれる最後だった。
あの戦いを最後に、戦場からは身を引いた。しばらく孫と会うことはなかった。そして何年か経ったある日、顔を見せると書かれた文が孫から届いた。
その日は北風が吹いていた。
物々しい音が近づいてくる。はためく国の軍旗に続き、鎧兜に身を包んだ騎馬群が家にやってくる。事前に報せがあったとはいえ、妻は少し面食らっている。
「突然の訪問をお許し下さい」
隊の指揮官を名乗る若い将校が下馬し、一礼する。孫と同年代と思しき指揮官は、見た目に違わず非常に礼儀正しい。
「我らはかつてあなた様の援軍で命を救われた者たちです。行軍の途上ではありますが、本日はそのお礼を申し上げにお伺いしました」
再び一礼する指揮官に合わせ、何人かが頭を下げる。
いろんな男たちがいた。上級貴族もいれば、学のありそうな者もいたし、いかにも蛮族といった益荒男もいた。その中に孫の姿もあった。そこで初めて、この部隊が孫の所属する部隊だと気づいた。
指揮官に返礼したあと、道中の安全と戦場での活躍を激励した。そして互いに敬礼した。
去り際、孫がやってきた。目を見ただけで、以前とは違うとわかった。その姿は物々しい男たちの中にあっても刮目に値した。
ぽつりぽつりと言葉を交わした。やはり孫は大人になっていた。
孫は「ありがとう」と言って去っていった。敵となった父親を殺しに行くと告げたその目は未来を見ていた。
厳めしい音が遠ざかっていく。
戦場へと出立する男たちの背中を見送ったとき、自分はとうとう最後の役目を終えたのだと確信した。戦場での生死は別として、もう孫が帰ってくることはない。人と比べれば少し遅かったかもしれないが、しかし子供は大人になって巣立っていった。
進む道がどれだけ血塗られたものであろうとも、もう迷うことはないだろう。たとえその意志が血塗られたものだとしても、どす黒い激情さえ力にし、自らの手で道を切り開いていくであろう。
親殺し──どのような形であれ、息子は父親を殺し巣立つ。どのような形であれ、父親は一度は死ぬ──それこそが、男に生まれた者の宿命である。
「行っちまったな……」
呟きが漏れた。隣で見送った妻の目には涙が浮かんでいた。若い頃なら涙を拭ってやっただろうが、今や老体は固く、すぐに動いてやることはできなかった。
あっという間の人生だった。戦いに生きた。いつどんなときも戦い続けた。そして戦いは終わった。
妻の肩を抱き、ぼんやりと北の空を眺めた──あと少しだけ人生は続く──何ができるか、吹き抜ける北風に思いを馳せた。
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