溺れる僕にキスをください

藤咲 沙久

酸素の在処


 体温に勝る熱が全身を包む。炎天下は、水中に似ている。



遊佐ゆさ。アタシ、失恋したかもしれない」

 頭上から聞こえた結城ゆうきの声に、自転車の鍵を掛けていた手が止まった。コンクリートに囲まれた駐輪場は夕方と思えない暑さだ。視線だけ動かして腕時計を見る。授業が始まるまでまだ余裕があった。

 通う高校の違う、塾が同じ女の子。結城と僕の関係といえばただそれだけ。

「かもって、なんだよ。曖昧だな」

「好きな人に好きな人がいる……みたい。たぶんだけど。そんな話してるの、聞いちゃって」

 いつまでも屈んでいるわけにもいかず立ち上がる。見下ろした結城の肩には汗で制服のシャツが張り付いていて、僕は胸の辺りがチリリと焦れるのを感じた。理由はわかっている。

「アタシの好きな人っていっても、そんな親しいわけじゃないんだけど」

「へえ、そう」

「でもその人は……」

 結城の声が少し遠く感じる。好きな人に好きな人がいる、なんて。それはまさに今、僕が陥っている状況そのものだ。


 ──炎天下って、水中に似てるね。


 いつだったか、そう言ったのは結城だ。酸素を求めて口を開いても、摂取できるのは熱せられた空気だけ。取り込めば取り込むほど体温が上がる錯覚さえある。暑さが肺をおかし、呼吸が出来なくて、まるで水の中にいるみたいだと。

 あの日の、短い毛先がわずかにかかった彼女のうなじ。そこに流れた一筋の汗を覚えている。遊佐、と僕の名前を呼ぶ声が耳に残っている。詩人のような結城の感性と、夏に彩られた横顔が、僕の心を掴んで離さないんだ。

(僕も今……息が出来ない)

 熱い。苦しい。冷たくて新鮮な酸素が欲しい。そう思ううちに、僕は結城の唇を見つめていた。そこに求めているものがある気がして。触れあわせて吸い込めば、なにかが身体を満たしてくれる気がして。

 強く、強く見つめた。

「その人は、いつも。……火傷やけどしそうなくらい、視線が熱いの」

 結城がそう言った時、まだ口元を見ていた僕は、彼女がどんな表情をしていたのかわからなかった。視線ひとつで彼女の気持ちを惹き付けたのはどんな男だろう。焦げ付く想いを押さえつけながら、僕はもう一度「へえ、そう」とだけ返事をした。

 太陽に焼かれ酸素不足の駐輪場。僕たちは、それ以上言葉を交わさなかった。

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溺れる僕にキスをください 藤咲 沙久 @saku_fujisaki

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