サキュバスの涙

逢巳花堂

サキュバスの涙

「好きな人ができたの」

「そうかよ」


 私の裏切りの告白を、彼はあっさりと受け入れた。ベッドの上、私に背を向けて、窓にぶつかる雨を眺めながら、煙草を吸っている。セックスの後に必ず一服する、その癖が、私は嫌いだった。


「理由は?」


 一応聞いてやるか、と言わんばかりの口調で、彼は尋ねてきた。


「Hの相性」

「けっこう喜んでたじゃねーか」

「合わせてあげてたのよ。あなたの好みに」

「風俗嬢かよ。ふざけやがって」


 彼はベッドから下りた。ボクサーパンツをはき、灰皿で煙草の火を消した後、部屋の隅に投げ捨ててあった衣服を拾い上げた。


「先にチェックアウトする。精算も済ませておく」

「車がないと、帰れないんだけど」

「もうお前なんてカノジョじゃねーよ。歩いて帰れ」


 冷たく言い放って、服を着た彼は、乱暴な足取りで部屋を出ていった。


 ラブホの豪奢な部屋で、ひとりぼっちになった私は、横たわったまま膝を抱え、そのまま眠りについた。


 これで男と別れるのは三〇人目。悲しくはない。いまだかつて、私はこういうときに、泣いたことがなかった。


 ※ ※ ※


 新しいカレシは、高校での教え子だ。


 神木悠人かみきゆうと。名前から抱く柔らかいイメージどおり、まるで女の子みたいな白い肌を持った、中性的な美少年。私が担当する現国の授業では、どんな質問でもスラスラと答える。まさに絵に描いたような文学少年だ。


 彼と付き合い始めることになったきっかけは、私が顧問を務める、文芸部での出来事だった。


 たまたま他の部員は早めに帰ってしまい、悠人だけは学園祭で出展する作品を仕上げるために、居残りをしていた。早く帰るように促そうと思って、何の気なしに近寄った私は、彼が原稿用紙で一心不乱に文章を綴っているのを見て、おや、と興味を引かれた。いまどきパソコンを使わないなんて、珍しい子だと思った。


 中身を読もうと、原稿用紙に顔を近付けたところ、私の接近に驚いた悠人は、こちらを向いて、硬直した。


 二人の顔は、あと少しでくっつきそうな距離にあった。


 悠人の表情が、戸惑いから、決意へと変わり――突然、私の唇にキスをしてきた。


『あ……ご、ごめんなさい!』


 自分が何をしでかしたか理解した悠人は、ガタンと椅子を蹴って立ち上がり、私から距離を置いた。


 あんなぎこちないキスくらいで動揺して……と、彼のウブな態度になんだかおかしくなり、私はふふふと笑いながら、歩を進めた。


『謝らなくていいわ。キスしたかったんでしょ?』


 彼は首を横に振った。だけど、怯えつつも、私から逃げようとしなかった。体は正直だった。


 放課後の教室で、私たちは求め合った。


 誰かが来たらとんでもないことになる自覚はあった。


 それでも二人は止まらなかった。


 簡単に一線を越えてしまった。


 悠人は初めてセックスを経験したとのことだった。それが私には信じられなかった。あまりの心地良さに、何度も意識が飛んだからだ。


 これまでに正式に交際しただけでも三〇人、ひと晩限りの関係や、同性も含めれば、その倍近くは相手してきたが、みんなどこか違和感があった。


 こんなものだろうかと諦めつつ、しかしもっと極限まで心地良さを味わえるパートナーがいるのではないか、と思っていた。


 神木悠人は、まさにそんな理想の人だった。


 生きている実感のなかった、私の人生に、やっと彩りがついてきた。


 ※ ※ ※


 三〇人目のカレシと別れてからすぐ、悠人に交際を申し入れた。どれだけ多くの男と交わろうと、ちゃんと恋人同士でいるのは一度に一人、と決めていた。


 毎日、私は悠人を抱き、悠人は私を抱いた。


 校内ではすぐにバレてしまうから、放課後にひと気のないところで待ち合わせて、私の車でラブホテルまで移動した。


 彼は家に帰らないといけないので、三時間の休憩タイムだけ利用して、その代わり余すところなく淫らな時を過ごした。


 初めの頃こそ理性を保っていた悠人も、一ヶ月もしたら、欲望に身を任せるようになった。


 ※ ※ ※


 私にとって、人と本当の意味で交流する方法は、セックスしかない。むしろ、それ以外に、お互いの本性を確認する方法がどこにあるのか、私は知りたい。


 人間は、かつて本能だけで生きていたという。


 それが、時とともに、考える力が加わり、いまのように多様化してしまった。


 何かを表現する力は増したのかもしれない。だけど、嘘偽りの世界も創り出してしまった。


 言葉だけでいくら「愛してる」とか「信じてる」と囁き合ったところで、そんな表面的なものに、真実なんてない。


 真の心とは、肉体と肉体のぶつかり合いの末に感じ取れるものではないだろうか。


 それはセックスでしかありえない。


『まるでお前は悪魔だ。性に貪欲な、女悪魔だ』


 ある男は、私の激しい求めに耐えられず、結局別れるときに、そんな捨て台詞を残した。彼は、二六番目のカレシだった。


 四番目のカレシからも、最後は『ビッチ』と罵られた。


 心外だった。私は真面目に生きているだけなのに。


 普段は計算高く取り繕っている男でも、ベッドではだらしなく涎を垂らして、目を血走らせて、乱暴に腰を振ってくる。そんな剥き出しの本性を私に見せておきながら、よく平気で人をけなせるものだ、と思った。


『よくも騙したな』


 私が数多くの男と性交渉をしてきた、と知った一九番目のカレシは、悔しそうに声を震わせながら、私に向かって呪詛を吐いてきた。


 なぜそんなことを言われないといけないのか、と悲しくなった。


 隠していたつもりはなく、過去の男性遍歴を話すタイミングが遅くなっただけだった。


 第一、他の男と寝てきたことがどうして許せないのか。犯罪を犯したわけでもないのに。


 そういう経験を繰り返してきたから、温厚だけど、意外と性欲旺盛な悠人と過ごす日々は、実に幸せなものだった。


 たまに、どこから知識を仕入れたのか、悠人は笑えるようなプレイをお願いしてくることがあった。アダルトビデオからだろうか。それでも私は彼とのセックスが好きだったので、喜んで相手をした。


 彼の舌遣い、指の動き、腰の振り方。体液の味、体から発せられる臭い。全てを愛していた。悠人と繋がっている、ということを実感するだけでも、私は果てに達することができた。


 ※ ※ ※


「まるで先生はサキュバスだ」


 あるとき、行為が終わった後、悠人は私の乳房に胸をうずめながら、小さな声でつぶやいた。


「サキュバス?」

「西洋の悪魔。綺麗な女性の姿をしてて、夜、男のもとに現れて淫らな誘惑をするんだって。夢精とかはサキュバスの仕業って思われてたこともあるみたい。とにかく男の精液を求めまくる、Hな女悪魔なんだ」


 悪魔、というフレーズに、私の胸は痛んだ。昔のカレシにぶつけられた罵声。まさか悠人に同じことを言われるとは思っていなかった。


「ねえ……セックスのことばかり考えている、先生みたいな女って、やっぱり最低だと思う?」

「最低なんかじゃない!」


 悠人は顔を上げ、真剣な目で、私のことを見てきた。


「僕だって授業中でも、早く先生とHがしたいって考えてる。先生が最低だったら、僕だって最低だよ」


 ホッとした。もしかして彼に嫌われているのではないかと、不安になっていた。


 気持ちが安らいだついでに、悠人の上にまたがる。もう無理と喘ぎながら哀願する悠人を無理やり押さえつけると、私のほうから腰を突き動かし始めた。


 ※ ※ ※


 付き合い始めてから二ヶ月目、私たちは破局を迎えた。


 休みの日、私の住むアパートに来た悠人は、いつものように長い時間をかけてのキスを済ませた後、恥ずかしそうに、鞄の中から原稿用紙を取り出してきた。


「先生に読んでほしいんだ。僕の新作」


 正直、興味はなかった。彼の文章力は評価しているし、物語も面白いけれど、いまはせっかく私の部屋で二人きりになっているのだ。今日はどれだけ乱れたことをしようかと、体が疼いている。


 早く本当の悠人を芯から味わい尽くしたくて、思わず自分の両の太ももをこすり合わせてしまう。


「ありがとう。終わったら、読むわ」

「いま、読んで」


 珍しく強い口調だった。瞳が潤んでいる。


「不安なんだ――先生は、僕のことを、弄んでるんじゃないかって」

「何を言い出すの? ちゃんと私たち、恋人同士じゃない」

「どこがだよ! 会うたびに、セックス、セックス、セックス! まともなデートなんて、数えるほどしかしてないじゃないか! 映画に行っても、カラオケに行っても、先生はいつも上の空で、たまに動けばいやらしい悪戯をしてきて!」


 彼がここまで鬱憤を溜めていたなんて、意外だった。でも、見解の相違がある。彼はセックスをふしだらな行為と捉えており、映画やカラオケのデートをすることが健全だと考えているようだ。


 私は違う。私は、セックスを超える男女の交際の仕方はないと考えている。それに、実際、お互いに気持ちよくなることではないか。何が不満なのかわからない。


「先生は本当の僕を見ていない! 僕は、小説を書く人間なんだ! そんな僕を見てほしいんだ! なのに、先生は――」


 大声を出す悠人の唇を、私の唇で、無理やり塞いだ。彼はくぐもった悲鳴を上げた。そんな彼の股間に手を回せば、すでに下腹部には血が通っており、はち切れんばかりに硬くなっている。


 ほら、見なさい。本当の自分? これが本当の悠人じゃないの。


「わかった、読んであげる。……ただし、あなたの上で」


 そして私は彼の腰の上にまたがり、結合を済ませてから、腰を振りながら原稿を音読した。彼は、泣きながら、私に陵辱されるがままにしていた。その様子にますます嗜虐心をかき立てられ、一層激しく腰を動かした。お互いに絶頂に達する頃に、ちょうど原稿を読み終わった。


「面白かったわ、とても。でも……本当のあなたが、表に出てない」


 パンッ、と手の平で原稿を叩いた。


 悠人は聞いているのか、いないのか。仰向けに倒れたまま、虚ろな目で天井を見つめ、汗をかき、荒い呼吸を繰り返している。


「この原稿はウソ――本当のあなたをもっと見せて」


 まだ終わらせない。私は体をずらし、彼の太ももの間に顔をうずめ、舌を這わせた。


 ※ ※ ※


 その半月後、悠人は学校に訴え出た。


 たちまち事態は大きくなった。新聞やニュースが、「女教師が男子生徒を強姦」とセンセーショナルに取り上げたものだから、教育委員会や市議会をも巻きこむ騒動となった。


 私は懲戒解雇となった。


 何も弁解する機会など与えてもらえなかった。


 ※ ※ ※


 報道が真実を伝えないのは、いまに始まったことではない。


 正確には、事実は伝えているのだと思う。


 だけどその事件の裏にある人間の想いなんて、拾い上げてはくれてない。


 私が何を思って、悠人を襲ったのか、きっと誰も理解することはないだろう。


 そうと知りつつも(なんでなの?)と悩む。私はただ人間が本来あるべき姿となって生きているだけなのに。


 大体、おかしいのは、男たちはいくらセックスに狂っていても、「英雄色を好む」とか「男は本当にバカ」とか、そんな言葉で片付けられる。


 でも、女がとことんセックスが好きだというと、「淫売」「ビッチ」「ヤリマン」なんて悪口をぶつけられる。


 私はただ、男も女も外の殻を破って、ありのままの姿をさらけ出す、そんなセックスの時間を何よりも大事にしていただけだ。そして、悠人は、その中でようやく出会えたかけがえのない人だった。


 どうしてこんなことになってしまったのだろうか、


 私はやっぱり、普通の人間から見れば、サキュバスなのだろう。ひたすら男の精を求めてやまない、淫らな悪魔。偽りの体裁こそが真実だと信じている世の人々からすれば、私は人の皮を被った淫魔でしかない。


 どうせ真実は理解してもらえないのだ。ならば開き直って生きよう。ただ快楽のため男を求める淫魔として。


 ※ ※ ※


 半年後、クリスマス。


 光の装飾できらびやかに輝く街中で、私は悠人と再会した。


「あ……」


 無視すればいいのに、声を出して、彼は立ち止まった。このあたりの人の好さは、変わっていない。私はクスッと笑った。


「久しぶりね。元気にしてる?」

「はい、なんとか。先日、文学賞にも応募しました」

「ほんと! あなたならきっと受賞するわ」

「ありがとう……ございます」


 それじゃあ、と彼は小さく会釈し、足早に通り過ぎ去った。その手には小さな紙包み。新しいカノジョにでも何かプレゼントするのだろうか。


 もしかしたら、私が悠人を陵辱した、あの日。すでに彼は違う女性に想いを寄せていたのかもしれない。


 だけど、私との関係も考えて、どうすべきか苦悩していたのだろう。その結果、原稿を読んでもらえるかどうか、試してきたのかもしれない。


 私は、彼の心を完膚無きまでに傷つけた。抑えきれない本能にもとづく行為だったから、仕方がなかったとはいえ、もしもちゃんと悠人が望んだ恋人らしく、彼の原稿を読んであげていたら、どうなっていたのだろう。


 いまごろ、私と悠人は、手を繋いでこの道を歩いていたのだろうか。


 考えてもしょうがないことを頭の中で巡らせてしまい、我に返った私は、苦笑しながらかぶりを振る。そしてまた歩き出そうとしたとき、


「あの……先生!」


 背後から、呼び止められた。


 去っていったはずの悠人が、まだすぐ近くに立ったまま、私のほうを真剣な眼差しで見ている。


「ひとつだけ、教えてください!」

「なあに?」

「先生は、僕のこと、本当に好きだったんですか!」


 しばらくの間、黙っていた。真実は決まっている。


 でも、彼が信じたいであろう真実もある。


 どう答えてあげるべきか、悩み抜いた末、私は口を開いた。



「まさか。ただの遊びだったわ」



 それはきっと彼が聞きたかったであろう言葉。


 私は嘘をついた。それと同時に、目から、何か熱いものがこぼれ落ちるのを感じた。


 人生における、最初で最後の、別れの涙だった。

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サキュバスの涙 逢巳花堂 @oumikado

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