第40話 その愛あっての命だものね
春の蝶の月の終わりに、パトリツィアとカトリナの三人で、オペラを見に行った。
私の贈った
前に観に行ったときの演目は、すでに終演していたけれど、いまは有名な作品のリバイバル公演をしているらしく、「私の大好きな作品なの!」とパトリツィアが推したこともあり、それを観に行くことになった。
「友達と“約束の嵐”を観られるなんて……私の好きなオペラの三本指に入る作品なのよ。何故なら三作品しか知らないから」
パトリツィアはわかりやすくはしゃいでいて、いつもより愉快な一言が多かった。
母と一緒によくオペラに行くカトリナも、この“約束の嵐”については知らないらしく、また、私も完全に初見なので、上機嫌なパトリツィアの姿を見て、きっととてもよい作品なのだろうと推察した。
珊瑚色の石畳を敷いた広場で馬車を降り、私たちは歩いて劇場へと向かう。
今日は風のほとんどない日で、日差しもあるぶん、日傘が手放せなかった。
日傘を差したカトリナが「ちなみに、どういう話なの?」とパトリツィアを振り返る。
「言えないわ。実際に観るときの面白味がなくなるじゃない」
「あらすじを言うくらいでもだめなの?」
「だめよ! 二人には新鮮な気持ちで楽しんでもらいたいの!」
「でも、話の大筋がわかってないと、混乱したプリマヴィーラが寝ちゃうかもしれないわ。この子、前に観に行ったオペラの内容を、もう覚えてないのよ?」
「ていうか、あのときの貴女、絶対あくびしてたでしょ。目が赤くなってたわ。あの場では“涙が出るほど感動してしまって”とか言い訳してたけど、貴女がロマンスで涙を流すわけがないもの」
二人ともプリマヴィーラ学に造詣が深い。
完全に誤魔化せたと思っていたのに。
「そもそもプリマヴィーラは歌や劇には興味ないじゃない。本当にオペラでよかったの? 貴女の誕生日のお祝いでもあるのに」
「絶対にオペラでなくてはならないわ。私、あのとき三人で行けなかったこと、とっても悔しかったんだもの。カトリナとリーデルシュタイン卿のことは応援したいけれど、それはそれ、これはこれよ」
「貴女がそう言うならかまわないけれど」
「そして、オペラのあとはカフェへ行って、三人でおしゃべりするのよ」
「あの日の流れどおり。むきになっちゃって」
「なにからなにまで、貴女の仰せのままに」
パトリツィアはおどけてお辞儀をした。
劇場に到着し、いよいよオペラが始まる。
前回のオペラよりも硬派な作品で、なるほど、パトリツィアはこういうのが好きなのね、とまず思った。
ここ一年の流行りでもあるラムールの歌手を抜擢しており、その歌声は圧巻で、全身が共鳴するような、張りのある声を響かせていた。
クライマックスになると、パトリツィアは感涙してハンカチを手離さなくなっていたし、演目が終わると席から立ち上がって拍手を送っていた。
私とカトリナも着席したまま拍手を送る。
「最初から最後までのめりこんじゃった」
「ええ。私も、前に見たのより、こっちのほうが好みだったわ」
「プリマヴィーラもやっとオペラのよさがわかったようね。私も、シャルロッテ役の歌声が忘れられないわ……たしかラムールから来た歌手よね」
「シャルロッテだけじゃないわ、エレオノーラとディートフリートもそうよ! ああ、ほら、あの方、ディートフリートさまーっ!」
幕が終わってもパトリツィアの興奮は収まらず、カーテンコールが始まると、再び大きな拍手でそれを出迎える。最早、ボックス席の手すりを掴んで身を乗りだしそうほど、前のめりになっている。
私とカトリナは、そんなパトリツィア越しに、演者たちのカーテンコールを眺めていた。
「今年一年は、ラムールから来た歌手が活躍していたわね」
「言われてみればそうよね。今回もラムールの歌手ばかりで……あら?」
そのとき、カトリナが目を見開かせる。
舞台袖から演者ではない人物がやってきて、舞台上の演者たちの隣に立ったのだ。
その姿を見て、私たちは呆気に取られた。
「あれって……ガランサシャ・フォン・ボースハイト?」
パトリツィアの漏らしたとおり、その人物とは、ガランサシャだった。
舞台上に立った氷肌玉骨の美貌は、観客を魅了した演者たちのスター性に勝るとも劣らず、照り輝くような存在感を放っている。
彼女の身に纏う落ち着いたカラーのドレスも、舞台映えのするような銀刺繍や真珠を散りばめていて、まるでオペラのクライマックスに遅れた歌姫の登場みたいだった。
しかし、貴族令嬢には珍しく、ドレスの上にジャケットを着こんでいる。舞台衣装ではない、フォーマルな服装だ。歌姫ではなく——この舞台の脚本家、とでも言えばいいのか。
ガランサシャは舞台上の演者たちと抱擁を交わす。そして、ディートフリート役の演者の隣に並ぶと、溌剌とした声で堂々と話しはじめる。
「本日お越しくださった皆さま、そして、今日このような機会を作ってくださった出演者の皆さまに、深く御礼を申しあげます。私、ガランサシャ・フォン・ボースハイトは、いまからおよそ一年ほど前、このリーベの劇場に、ラムールの名だたる歌手を誘致し、素晴らしい歌声を皆さまにお届けすることを計画いたしました。たくさんの方のご協力と、この舞台に立つ彼らの熱意の結果、今日まで公演にお越しくださった方々の応援を
そう言って、ガランサシャはお辞儀をした。
貴族令嬢の
すると、なにがなんだか混乱していた観客たちも、ラムール歌手誘致の立案者だと知り、ガランサシャを褒めたたえる拍手を送る。私たちもそれに倣い、拍手を送った。
パトリツィアは席に戻り、「驚きだわ」とこぼした。
「いつかプリマヴィーラの言っていたとおり、これまでのラムールの歌手は、みんな、ボースハイト嬢の招いた方たちだったのね」
「こんなに大がかりなことをやってみせるなんて。まったく、令嬢の常識に囚われない恐ろしいお方だわ」
「しかも目立ちたがりよね。カーテンコールに登場するなんて。ひっそりと暗躍していれば品があったものを、あの女の自己顕示欲の高さが伺えるわ」
「……暗躍していたわよね」パトリツィアが神妙な顔をして言う。「だって、ずっと明るみになっていなかっただけで、ここ一年のムーブメントの中心に、あの方がいたってことでしょう? ラムールの歌手は、貴族のあいだでも庶民のあいだでも評判だったし、去年よりもオペラを観に行く人が増えたのは間違いないわ」
「そういえば、うちの母が言っていたのだけれど、この劇場だけじゃなく、他の劇場でもツアーのように回っていたんですって」とカトリナ。「そのために、ボースハイトは決して少なくない投資をしたでしょうけれど、劇場の収益はかなり上がったという噂よ。ボースハイト嬢はここまで見越していたのかしら」
私は拍手をやめ、舞台上のガランサシャを見つめる。
ガランサシャは
ただ、ラムールへと向かう夏、馬車の中で、ガランサシャは言った——私は選ぶ側に回りたい。
もしかすると、ラムール歌手の誘致も、彼女が選ぶ側に回るために必要だった計画の一つだったのかもしれない。あの女の考えていることなど、私にはわかろうはずもないけれど、なんとなくそういう気がしてならなかった。
私たちはボックス席から退室し、ホワイエまで出た。
そのまま劇場を去ろうとしたとき、私はジギタリウスの姿を見つける。
校外で会うのは久しぶりだった。外で会うジギタリウスは、いつも姉と揃いの服装でいたけれど、今日のいでたちは深い青緑を基調としたもので、舞台上のあの女のそれとはまるで違った。
ジギタリウスはどこか茫洋とした表情で、いつもにこにこと胡散臭い笑みを浮かべているのに、今はなんだか迷子にでもなったみたいだった。
「……ごめんなさい、二人とも、先に出ていてくれる?」
「あら。忘れ物でもしたの?」
「そんなところ」
私はパトリツィアとカトリナを見送ってから、ジギタリウスのほうへ歩み寄る。
彼はぼんやりとしたままで、すぐには私には気づかなかったけれど、私が「ジギタリウス」と声をかけたことで、ふっとこちらに視線を移す。
「プリマヴィーラ嬢。貴女もいらっしゃったのですね」
「友人と来たのよ。貴方はガランサシャの付き添い?」
「そうですね。シシィに連れられて……」
そこで沈黙が落ちたので、私は腕を組み、ジギタリウスの顔を見上げる。
いつもぺらぺらとうるさいこの男が、会話に詰まるようなことが、これまであっただろうか。
不思議に思いながらも、私は別のことを彼に尋ねる。
「貴方の姉はずいぶんとたいそうなことをやってのけたようね。まさかラムールに行ったときからこんなことを計画していたなんて」
「いえ。シシィはそれより前から計画していましたよ。すでに予定されていた公演に、別の歌手を
「あの女のことだから、きっと強硬手段でやりおおせたのでしょう。そうまでしてあの女の叶えたかったことってなに? 貴方は聞いてるんでしょう?」
そう言うと、ジギタリウスは居心地の悪そうな顔をした。
私は目を眇める。
「貴方も知らないの?」
「いえ。ただ、僕も最近知ったもので」
「意外ね。貴方とガランサシャはいつも二人で悪だくみをしているイメージがあったのに」
「悪だくみだなんて。それに、僕はシシィのお手伝いをしているだけで、僕自身がなにかしでかそうとしたことなんて一度もありませんよ」
言われてみればそうかもしれない。
だとしても、姉と同様、こいつも
「僕はずっと、シシィがなにを望んでいるのか、知らなかったのです。去年からずっと、父となんらかのやりとりをしていることには、気づいていましたが……」
そこで再び口籠った。
こんなジギタリウスは珍しい。
やがて、私の視線に気づいたジギタリウスが、苦笑を返してくる。
「申し訳ありません。ボースハイトの事情ですので、いまはまだ外部に話せる段階ではないんです。ただ、いずれプリマヴィーラ嬢も知ることになると思いますよ」
「不穏なことを言ってくれるわね」
「貴女や貴女の周囲に累が及ぶことは、おそらくないでしょう。ただ、社交界には波紋が広がるでしょうね。それもシシィは承知の上です」
これから一波乱ありそうな物言いだった。
私は「そう」とだけ返す。
「せっかく貴女から話しかけてくださったところ、たいへん名残惜しいですが、僕はここで失礼します。プリマヴィーラ嬢、よい一日を」
お辞儀したジギタリウスが去っていく。
私も踵を返し、パトリツィアとカトリナのところまで戻った。
「お待たせ。予定どおりお茶にしましょう」
「この近くだと、前に行ったカフェが一番近いわね。甘いものも食べたい気分だし」
「ええ。今日はとことん付き合ってもらうわ」
「もちろんよ。プリマヴィーラは、これからずっとがんばらなくてはいけないのだから、今日くらい楽しまなくちゃ」
「がんばる?」
きょとんとする私に、カトリナは「そうよ」と人差し指を立てる。
「前の学期で貴女は
「貴女が心配なのよ。言いにくいけれど、いまの貴女の成績って、あまり余裕のある評価ではないじゃない? 入学当初は私たちよりもよっぽど順位がよかったのに……」
それは一周目の記憶があったからだ。
素の私の成績なんてこんなものである。
ただ、私のためを思って言ってくれている友人をすげなくあしらうことはできなかった。
「次の学年末試験に向けて、いまから準備しておくべきだと思うの。私たちも苦手な科目の対策をしておきたいから、一緒に猛勉強して、今学期は三人でよい成績を目指しましょう!」
カトリナはぎゅっと拳を握りしめる。
その隣で、パトリツィアも両手を組み、こちらを見つめながらこくこくと頷いていた。
「……そうね。明日からはがんばりましょう」
私の返事に、二人は「そうこなくっちゃ!」と破顔した。
カトリナは跳ねるように私とパトリツィアのあいだに押し入り、両腕を広げてぎゅっと私たちの肩を抱きしめ、身を寄せあわせる。そして、「今日のところは、明日からの分も含めて楽しみましょう!」と
こうして三人で並んで歩くことが当たり前になった今日も、これまでの日々の地続きだ。
私たちは、簡単なはじまりではなかったけれど、少しずつ心を交わしていくうちに、なにかあれば我が事のように想いあう、
人生という、ただ過ぎ去るだけの時間の中で、私のもとから離れてしまうひともいれば、いつの間にか隣にいてくれるひともいて、それは、私が一日ずつ歩んできた軌跡の結果だ。
そのことに胸がじんと熱くなり、私はカトリナの肩に額を寄せた。
カトリナは「あら、甘えんぼね、プリマヴィーラ」と穏やかにこぼし、反対側のパトリツィアはくすくすと笑った。
それからは毎日が駆け抜けるようだった。
約束どおり、次の日から私たちは三人で勉強するため、寮に戻っては教科書や資料と睨めっこするようになった。
しかし、試験前でもないため、さほど集中は続かない。テーブルに三人で向かい合わせになって取り組んだのだが、誰か一人が「そういえば、食堂でね、」なんて話しはじめると、そこからなし崩しに休憩が始まる。
それではいけないと気を引き締めたのも束の間、また誰かが「なにか飲みたくない?」と言いはじめてお茶会が始まったり、別の誰かが「一番きれいな字でこれを書けたひとの勝ちね」なんて吹っかけて勝負が始まったり、とにかくあらゆる誘惑に負けて、私たちは勉強意欲を手放すことになった。
「自分たちの部屋だから集中できないのよ!」
「図書館で勉強しましょう」
そうして私たちは、図書館の上階にある、いつもの半個室に入り、よりいっそう真剣な気持ちで勉強に取り組んだ。
しかし、
気の抜けたパトリツィアが、無意識のうちに“約束の嵐”の曲を口遊みはじめたこともあったし、迫真の顔をしたカトリナが、「疲れてもベッドに寝転べない!」と嘆き崩れたこともあった。
ちなみに、私はなぞなぞの本を借りてきて、二人に問題を出して遊んでいた。そのときは、もう勉強どころではないくらいに盛りあがった。
そうこうしているうちに春の音の月になり、ついに、スイショウヘラジカの角でできたブローチが完成した。
美しい水晶質は、研磨や加工の末、小ぶりな石へ形を変えたけれど、制服に合わせても違和感のない、落ち着いたデザインのブローチへと変貌していた。
私とアーノルド、ディアナの目で確認したのちに、狩猟祭でスカーフを贈ってくれた四人へと手渡していく。
イドナ・ヴォルケンシュタインは破顔して、すんなり受け取った。
エミーリア・リューガーは遠慮がちに、けれど、ヴォルケンシュタインが受け取ったのを見て、それに倣うように受け取った。
カトリナにはリーデルシュタイン卿が手渡していた。カトリナはすぐに気に入り、制服のリボンの留め具として使った。
パトリツィアに手渡したのはアーノルドだった。
「リンケ嬢、どうか受け取ってくれ。僕たちからのささやかなお礼だ」
「ささやかだなんて。こんなに立派なものをいただけるほど、お力になれたわけではありませんのに」
「まさか。リンケ嬢たちの思いやりのおかげで、狩猟祭を無事に終えられたんだから」
すると、アーノルドは「失礼」と言うや、小さく身を屈めて、パトリツィアの制服のリボン、そのクロスした位置にブローチをつける。
そして、身を起こしたとき、ブローチをつけたパトリツィアを見下ろし、満足げに頷いた。
「……うん。やはり、リンケ嬢の瞳に合わせて、台座をゴールドにしたのは正解だった。とてもよく似合っている」
驚いた顔のパトリツィアは少しだけ
「……ふふ。ありがとうございます。あの日の思い出のように、大切にしますわ」
そうやって、なごやかに微笑みあう二人の姿をそばで見ているうちに、私とカトリナはハッとなって、顔を見合わせた。
アーノルドはギュンター侯爵家の嫡男だ。
クラスメイトのため、交流は少なくなく、彼の人柄だってよく知っている。高位貴族でありがながら、誰に対しても壁を作らせない特別な人間で、自慢話の多いところは玉に瑕だが、扱いがわかれば愛嬌にも思える。
美醜に偏りのない顔立ちで、立ち居振る舞いには気品があり、堂々とした印象を受ける。
むしろ、どうしてこれまで思い至らなかったのだろう。アーノルドは、同い年の令息の中で見ても、パトリツィアにとって話しやすい相手のはずだ。
私とカトリナは再び二人を見つめ、自分たちにしか聞こえないほどに声を潜め、囁く。
「どう思う? プリマヴィーラ」
「ありかなしかで言ったら、ありよ」
これは、私とカトリナで、秘密裏に見守っていく必要がありそうだった。
さて、春の音の月がすぎれば、夏の草の月。
学年末試験が来る。
あらかじめ試験対策をしていた——しようとしていた——私たちでも、第三学年の学年末試験は、とても高い壁だった。
パトリツィアが「私たちだけの力では、勉強にも限界があるわ」と、先生役を見つけることを提案した。
そこで、私はふと思い至る。
「ディアナはどう? 彼女一人いれば、どの科目も相談できるんじゃない?」
「ミ、ミットライト嬢はちょっと」
「あんな才女が私たちの勉強の相手なんてなさるわけないじゃない」
パトリツィアとカトリナは及び腰だった。
狩猟祭のときのように、意外とあっさり了承してくれそうなものだけれど、みんなディアナのことは敬遠してしまうようだった。
聖女にして学年首席にして侯爵家令嬢とあれば、おいそれと声をかけられないのだ。
実際に呼べたとしても、きっとパトリツィアとカトリナの空気が冷える。
妥当なところで「リッテに聞いてみましょう」と私が提案すると、二人は見るからにホッとしいたし、フェアリッテも「手の空いた時間でよければ」で引き受けてくれた。
そして迎えた学年末試験。
パトリツィアとカトリナの二人は、苦手科目でも
私は選択科目の
先生役を引き受けてくれたフェアリッテは、私たちの勉強を見ながら、さらには王太子妃教育までこなすという多忙ながらに、得意科目は文句なしの
そして、毎度のことながら、学年首席は全科目で
学年末試験が終われば、夏休みはすぐだ。
終業式を終え、私たちは帰省する。
帰り支度を済ませ、先に荷物を馬車へと運ばせて、私たちは寮の前で別れを噛み締める。
「毎年のことなのに、やっぱり寂しくなっちゃうわね。ずっと顔を突きあわせていた貴女たちと、そう簡単には会えなくなるなんて」
「夏のあいだ、カトリナはリーデルシュタイン卿との婚約式があるのよね。しばらく忙しくなるだろうし、夏休み中に会うのは難しいかしら」
「ああ、パトリツィアがいないあいだ、誰が私のために“約束の嵐”を歌ってくれるの?」
「貴女のためには歌ってないわ」
「プリマヴィーラがいないあいだ、誰が私のためになぞなぞを出してくれるの?」
「問題。春の音の月のあいだに、アーノルド卿が“僕に任せろ”と言った回数を答えよ」
「それはなぞなぞじゃなくてアーノルド学よ」
「五回くらいは言ったんじゃない?」
「引っかかったわね。正解は、言いそうで言ったことがない、よ」
「やだ、本当になぞなぞだったなんて!」
こんな他愛もない会話さえも遠く離れてしまうのが名残惜しかった。
私たちは順々に抱擁を交わす。
「必ず手紙を書くわ」
「きっとよ」
「また秋に会いましょう」
私たちはそれぞれの馬車へと迎う。
アウフムッシェルの家紋の入った馬車が見えて、ああ、ついにこのときが来てしまったな、と思った。
私がそちらへと踏みだしたとき、背後から「プリマヴィーラ嬢」と声をかけられる。
振り返ると、ノワイエが慌てた様子で駆け寄ってきていて、彼は私の前で立ち止まった。
「ノワイエさま」
「帰りの馬車があるのに、呼び止めて申し訳ありません。最後に、挨拶がしたくて」
「かまいませんわ。ノワイエさまがラムールに帰られる前にお話できてよかったです」
私がそう言うと、ノワイエは安堵したように頬を緩め、嬉しそうな顔をする。
ちゃんと話し合ってからというもの、ノワイエはわかりやすく好意を示してくれることが増えた。訳もわからず睨まれるよりは居心地がいいけれど、あまりそれを受け入れすぎてはよくない気もしている。
「ラムールまでは長旅になりますね」
「はい。なので、まずはブルーメンブラット領まで向かって、そこからジャルダン家からの迎えの馬車を待つ予定です。ラムールに着くのは、夏の文の月の頭でしょうか」
「どうか気をつけてお帰りください」
「プリマヴィーラ嬢もお気をつけて」
そう言葉を交わしたあとも、ノワイエは名残惜しそうにしていた。もう話すことがなくなって、ここを立ち去らねばならないのに、そのことに困り果てているみたいだった。
あえて会話を広げることはできた。
けれど、私はそれをしなかった。
「馬車に待たせているひとがいるんです」
決定的な言葉は一つも言わなかったのに、ノワイエはその意味を正しく理解した。
彼のブルーグレーの瞳が見開かれて、さっきまで笑みを浮かべていた口元が引き攣る。
やがて、力が抜けたように肩を落とした彼は、私の目を見つめたまま言う。
「……アウフムッシェル卿ですね」
やはり、彼は聡い。
私はそれに微笑んだ。
「誰にも秘密ですよ」
フェアリッテにも、パトリツィアやカトリナにも、話していないことなのだ。
私の言葉に、ノワイエは目を伏せて、しかし、ゆるりと笑み返した。
「……わかりました。もう、俺は、一人でみじめな思いをした気になって、癇癪を起こすような、分別のない子供ではありませんから」
「みじめだなんて」
「本当ですよ。貴女と会ってからずっと、馬に乗るときは俺の手を取ってほしかったし、貴女のできることは、俺もなんだってできていたかった。今だって、貴女を待つ俺でいられないことが悔しいです。でも、その悔しさは、俺の中で
私はなにも返せない。
ノワイエがどんな気持ちをくれたとしても、返せるものがない。
できることといえば、ただ彼と同じように、穏やかに微笑むだけなのだ。
「プリマヴィーラ嬢、どうかお元気で」
恭しくお辞儀をしたノワイエが、ブルーメンブラットの家紋の入った馬車へと乗りこむ。
私はその背中を見送り、やがて、アウフムッシェルの家紋の入った馬車へと向かった。
相変わらず、御者は私の手荷物を馬車に乗せる気がなく、ただ畏まったふりをして扉を開けただけだった。
しかし、すでに馬車に乗っていたフィデリオが、私のほうへと手を伸ばす。
「ほら」
私はその手と彼の顔を交互に見て、やがて、彼に手荷物を差しだして言う。
「ありがとう」
フィデリオはなんでもないようにそれを預かり、流れるようにして私のエスコートをした。
彼の手を取りながら馬車に乗りこみ、私は彼の対面へと座る。
ラムールまでの距離ほどではないにしろ、アウフムッシェルまでは長い道のりだ。私たちは何日間かこの馬車の中で、顔を突きあわせながら座りこむことしかできない。
尻を浮かせたままクッションの位置を整えていると、御者が馬を走らせた。その振動で私はバランスを崩し、でたらめな配置のクッションへと座りこんでしまう。
その間、フィデリオは私を一瞥し、しかし、すぐに視線を逸らした。
私はクッションの角度を正すことを諦め、少しでも居心地のいい位置を探す。けれど、すぐに落ち着く場所を見つけてしまって、彼を意識しなくてもよい理由がなくなる。
ぱからぱからと馬の足音が鳴るだけで、私たちは息を潜めたように黙りあっていた。
私はそれとはばれないよう深呼吸をし、気持ちを落ち着かせる。落ち着くわけがない。手汗が滲む。彼の目を見て話せない。
「…………あの、」
目を見て話せない。
でも、たぶん、彼は私を見ている。
「…………ずっと態度が悪くてごめんなさい」
やっと言えた言葉はいろいろと抜けていて、硬い声は空気と擦れて掠れて、そのうえ私は俯いたままだった。
しばしのあいだ、沈黙が落ちるも、フィデリオはどこか困ったような声音で言う。
「えっと、態度が悪いって?」
「……目を逸らしたり、まともに話せなかったり、無視したり」
「それは、君にとってはしょうがないというか、そうなっても無理はなかったから。君が申し訳なく思っていたのは意外だけど……」
そう話すフィデリオはどこか手探りな様子で、いつもよりも極めて慎重に、私に言ってもよい言葉、私に言うべきでない言葉を思い浮かべては、なにも選び取れずに口籠る。
私がちゃんと話さないと、彼も普通には話せないのだ。
意を決して、私は顔を上げる。
窓から指す日を浴びて柔らかくきらめく、蜂蜜色の瞳を見る。
「もう、大丈夫」
「…………」
「大丈夫にするわ。大丈夫になる」
「……うん」
「貴方と普通に話せるようになりたいの」
「うん」
「貴方も、普通に話してくれる?」
私の言葉はやはり硬いままで、すべていつもどおりとはいかない。相変わらず彼に想い破れた女で、たぶん、彼の目を見つめるたびに、彼のそれとは違う自分の感情を持て余すはずだ。
それでも、少しずつ大丈夫になろう。
ノワイエだって言っていたように——やっと、なんの誤解もない本当の自分で、貴方と話せるようになったのだから。
「うん。俺も、君と話がしたかった」
そう言って、彼が蜂蜜色の瞳を細めて笑う。
彼の
私たちは、少しずつ、調子を取り戻していく。
「学年末試験は
「貴方は次席よね。おめでとう」
「君はフェアリッテと勉強してたんだっけ?」
「それに、パトリツィアやカトリナとも」
「ずいぶん前から対策してたみたいだけど」
「二人が特に熱心だったの。私の成績が落ちこんだのを、私よりも気にしていて」
「いい友達じゃないか」
「でしょ? それにね、春のあいだに三人でオペラを観に行ったのよ。貴方は“約束の嵐”を知ってる?」
「脚本はね。実際に観たことはないかな」
「前に観たのよりも面白かったわ。貴方もご友人と一緒に観に行ったら?」
「男同士で観に行くのはちょっと。試験範囲にあるならまだしも」
「ちなみに今回も試験範囲じゃなかったわ。留年にならなくて本当によかった」
「笑えない話だよ。君が春休み前に
「追試は受かったんだからとやかく言わないで。夫人にもまだばれてないのよ」
「俺が乳母に黙っておくようお願いしたんだ」
「ええ? 貴方も手を回していたの?」
「
私は「なんだ」と窓に頬杖をつく。
結局のところ、私の安寧はフィデリオの配慮で成り立っていて、こういう気の利くところも憎らしくて、彼らしい。
「言っておくけれど、あれは授業を休んだから取った成績であって、これまでの私の不出来が祟ったわけではないわ」
「そういえば、君、授業を休んでいるあいだはなにをしてたの」
「なんにもしてないわよ。たくさん眠って、適当に暇を潰して、馬を走らせたくらい」
「へえ。けっこう気ままにやってたわけだ。こっちは君の姿が見えなくて、もしかしたら……」
そこでフィデリオが口を閉ざす。
ぶつ切りになった言葉の先を、私は直感していて、彼からは絶対に言わないだろうな、というのも察した。
「死んじゃうかも、って思ったの?」
私の問いかけに、彼は沈黙で答える。
見くびるなとも思いあがるなとも思うけれど、彼がそんなふうに私の身を案じることには納得している。
時を遡る前、自業自得で死んだ私のために、自らの《懺悔の祝福》を使ったくらいだ。
彼からの愛に飢えた私が、彼の目の届かないところで、死の運命を選ぶ可能性を、まあ、想像くらいはしたのだろうな。
私は頬杖をついたまま、ため息をつく。
「そう簡単に死にやしないわよ。一度死んだんだから、苦しい思いは二度とごめんだわ。貴方に振られたくらいで死ぬと思われてたなんて、私のことを憐れみすぎよ」
フィデリオは居心地の悪そうな顔をした。
そのまま押し黙ってなにも言わない。
私は窓の外をぼんやりと眺めるふりをして考えていた。言わなくてもいいことだ。でも、言うなら今だろうとも思っている。だって、これまでずっと、彼に言わなかったことだ。
「……死ぬわけないわ」
腕を下ろして、そう呟いて、むしろ、言わなきゃ気が済まないとさえ思った。
もう、愛を知らず、愛されず、無様にも溺れ死ぬような、愚かで醜く救いようのない人間はいないのだと、伝えたかった。
「……フィデリオ。死んだ私を蘇らせてくれて、救ってくれてありがとう」
私の言葉に、フィデリオは目を見開かせる。
まさかそんなことを言われるとは思ってもみなかった顔だ。
彼は、彼の真心から差しだしたものに、見返りを求めたりしない。
だとしても、彼のくれたものが消えてなくなるわけではない。いつもここにあるのだ。
私は自分の胸をそっと撫でた。
「同情はいらないなんて言ってごめんなさい。たった一度きりの祝福を、私のために使わせてしまったのに……この命があるのは、きっと、貴方が私にくれた愛だものね」
時を遡って蘇り、私は二度目の人生を得た。
毎日がよいことばかりではないけれど、私にはなにもないんだと悲観することもなく、誰かを愛して、誰かに愛されて、大切にしたいと思えるひとがいて、大切に思ってくれるひとがいて、そんなひとがすぐそばにいることが心地好くて、笑いあえることが楽しくて、この腕の中にぎゅっと匿って、離したくないと思えるほど、私にとってかけがえのないもので、私の心は満たされている。
今日まで歩んだ私の奇跡は——この命と、運命のすべては、彼が私に与えてくれたものだった。
「大事にして生きるわ。私と、私を愛してくれるひとを、大事にして生きていく。だから貴方も、貴方の愛するひとを大事にして。この世で一番に大事にしているのだと、教えてあげて」
私は微笑みながらそう言えた。
それにフィデリオも微笑を返す。その眼差しの切なさは、私の幻想なのか、馬車の窓から差す光を和らげるためのものなのかは、突き止めないでおきたかった。それくらいは夢を見てもいいはずだから。
たとえ、彼が私を愛していなくても、私以外の誰かを愛することになっても、あるいは、私が彼以外の誰かを愛するようになっても、彼のくれたものは決して滅びず、私が私であるかぎり、いつまでもここにある。
今日までもずっとそうあったように。
——ああ、やはり聖女は至言をくれるものだ。
愛を知り、愛することを知り、ふと気づけば私の胸に
ただ、彼のくれたものが、私という人間のどこかを形作っているんだと、事あるごとに思い知るような日々だった。
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