盤上を跳ねる

蒼山皆水

盤上を跳ねる


 深秋みあき龍斗りゅうとは強かった。

 幼い日の小泉こいずみ桂奈けいなは、その日、生まれて初めて悔し泣きをした。


 小学三年生の冬。ついこの前まで、一緒に外で走り回っていた龍斗が将棋を始めた。


 どうせ、すぐに飽きるだろう。二、三日後にはまた一緒に、クラスメイトたちと鬼ごっこをしたりかくれんぼをしたり、秘密基地を作ったりしているはずだ。桂奈はそう思っていた。


 しかし、そんな桂奈の予想とは裏腹に、龍斗は将棋にのめり込んでいった。

 龍斗の口から『俺、将棋のプロになる』という発言が飛び出したあたりで、桂奈は危機感を覚えた。


 今まで、どんなときも隣にいたはずの龍斗が、一気に遠い存在になってしまったように感じた。


 桂奈にとって龍斗は、家族のようなものだった。隣の家に住む、同い年の男の子。親同士の仲も良い。


 いつも近くにいるのが当たり前だった。

 だから桂奈は、龍斗を将棋に奪われてしまったみたいで寂しかった。


 桂奈はすぐに、将棋のルールを学んだ。

 将棋が指せるようになれば、また龍斗と一緒に遊べると思ったからだ。


 駒の動かし方を覚えた桂奈は、龍斗に勝負を挑んだ。

 しかし、本格的に将棋を習っている龍斗に、ただ駒の動かし方を覚えただけの桂奈が勝てるはずがなかった。


 そこにあったのは、圧倒的な実力差だった。

 相手の駒をとったと思ったら、もっと強い自分の駒がとられている。

 まるで見えていなかった場所から、飛車が、角行が、一気に攻め込んでくる。


 気づくと、桂奈の玉は龍斗の駒に取り囲まれていた。

 詰んでいることは、まだ将棋を始めたばかりの桂奈にもわかった。

 桂奈がどう駒を動かしても、次の龍斗の番で自分の玉はとられてしまう。


「これ、私の負け?」

「うん」

 龍斗は桂奈と目を合わせずに、当然というような顔で盤上を見つめていた。


 本当に悔しいと涙が出るのだということを、その日の桂奈は知った。

 けれど――。悔しかったのは、龍斗に負けたからではなかった。


 龍斗は遠くにいた。目の前にいるはずの龍斗が、どれだけ手を伸ばしても届かない場所にいるように感じてしまった。桂奈はそのことが悔しかったのだ。




 龍斗はめきめきと力をつけて、あらゆる大会で良い成績を収めた。

 中学に上がるときに、奨励会に入った。将棋のプロになるための機関だ。


 高校生になった龍斗は、東京にある奨励会員専用の下宿で、地元を離れて暮らしている。


 しかし、龍斗はあまり良い結果を出せていない。地元の高校に進学した桂奈はそれを、龍斗の母親に聞いて知っていた。


 現在、龍斗は二級で、その上の一級になかなか上がれないでいる。

 奨励会には様々な年齢制限があり、二十一歳までに初段に上がらないと、強制的に退会となる。


 年齢を重ねるにつれて、プレッシャーもどんどん大きくなる。

 将棋の世界は、とても厳しかった。




 龍斗が下宿生活を始めてから一年とちょっとが経ち、二人は高校二年生になっていた。

 現在は夏休みで、龍斗は久しぶりに地元に帰って来ていた。


 幼馴染が帰ってきていると聞いて、桂奈は夏休みの宿題を投げ出し、龍斗の部屋に押し掛けた。


「で、何しに来たんだ」

 ベッドに寝転がってスマホをいじりながら、勝手に上がり込んできた幼馴染に向けて言った。


「龍斗、久しぶりに指そうよ」

 初めて将棋を指し、龍斗に負けたあとも、桂奈は将棋を続けていた。高校では将棋部に所属している。


 将棋自体が楽しかったというのもある。が、それは直接的な理由ではない。

 将棋を続けている限り、龍斗と同じ方向を向いていられるような気がした。桂奈が将棋を続けている理由は、それだけだった。


 高校生になってから、桂奈は龍斗と一度も将棋を指せていない。

 最後に対局したのは、中学一年生の冬だった。


 中学二年生になったあたりで、龍斗は桂奈のことを避け始めた。その理由について、桂奈は心当たりがあった。しかしそれは、どうすることもできない類のものだった。


「何言ってんだ。ダメに決まってんだろ」

 当然のように断られたが、桂奈はめげなかった。


「ええ~。昔はよく指してくれてたのに」

 と、頬を膨らませて文句を言う。


「昔と今は違うだろ。俺とお前じゃ、実力差がありすぎる」

 龍斗が苦しそうな顔で言うが、彼は決して桂奈と将棋がしたくないわけではなかった。


 実力差のありすぎる勝負は、ただ悲しくなるだけで、何も得られない。

 桂奈と初めて対局したときのむなしさを、龍斗は今でも覚えていた。


「龍斗のケチ」

「ケチで結構」


「アホ。ハゲ」

「うるせーチビ」


「チビって言うな!」

「低身長」

「そっちの方が傷つくんですけど! ねえ。将棋しようよー!」


 桂奈は、寝転がる龍斗に対して垂直に、上から見るとちょうど十字の形になるようにして倒れ込んでくる。


「ぐえっ。重っ……」

「重くないですー。チビなので体重も軽いですー」

 ベッドのスプリングを利用するようにして、桂奈は龍斗の腹部に連撃を加えた。


「いいからどけ。昼飯が逆流するだろ」

 龍斗はタイミングを見計らって、桂奈の体を跳ね返した。


「さて、じゃあ始めよっか」

 うまくバランスをとりながら、桂奈は微笑んだ。


「何をだよ」

 龍斗はようやく起き上がり、ベッドのふちに腰かける。


「将棋に決まってるでしょ」

 桂奈は、棚に置かれていた将棋盤と駒を手に取る。昔から、そこが定位置だった。

 龍斗と将棋を指している時間が、桂奈は一番好きだった。それは今も変わらない。


 いそいそとミニテーブルをずらして、座布団を用意する桂奈。その口元は嬉しそうに緩んでいた。

 そんな姿を見て、断れる方がどうかしている。


「……ったく。わかったよ」

 龍斗はしぶしぶベッドから降りる。


「やったぁー!」

 バンザイして喜ぶ桂奈を見て、龍斗は心の柔らかい場所がキュッとなる。

 この無邪気な笑顔が、たまらなく大好きで、どうしようもなく嫌いだった。


「さ、そうと決まれば、龍斗の気が変わらないうちに! ほら、早く早く!」

 桂奈は正座をして手招きをする。


「大丈夫だって。落ち着け」

「これが落ち着いていられますか。だって、龍斗と戦えるんだよ」


 桂奈のキラキラした眼差しを、龍斗は眩しいと感じた。

 どうしてそんなに明るく笑うことができるのだろう。

 将棋なんて、つらいだけなのに。


 どちらかが必ず勝者になり、もう片方は敗者になる。

 運の要素など、ただの一滴も介在する余地はなく。

 実力によってのみ、上と下が容赦なく決まってしまう。

 それが将棋だ。


「俺が適当に指すんじゃないか、とか考えないのか?」

 駒が入った箱を開けながら、龍斗が言った。


「龍斗が将棋で手を抜くなんて、そんなことしないでしょ」

 考える間もなく、桂奈が答えたことが嬉しくて、龍斗は黙った。その通りだった。


 いったい、何をしているのだろう。

 龍斗は盤上に駒を配置しながら思う。

 将棋から離れるために帰って来たのに、結局将棋をしようとしている。


「ハンデつけるぞ」

 互いに駒を並べ終わると、龍斗が言った。


「ええー?」

 桂奈が不満そうな顔をする。


「そうじゃないと勝負にならないだろ」

 本当は駒落ちなどなしで、桂奈と対等に戦いたかった。けれど、その願いは叶わない。自分たちの間には、決して小さくない力の差がある。


 対等に戦いたいという気持ちよりも、長く向き合っていたいという気持ちが勝っていた。とても情けないことだけど。


「ちぇっ。わかりましたー」

 桂奈は控えめに舌打ちをして、頬を膨らませる。


「納得がいかないときにですます口調になる癖、変わんねえな」

「そんな癖ありませんー」


「ふっ……。なってるじゃん」

 龍斗が柔らかく笑ったことに、桂奈はホッとする。


 久しぶりに見た表情だった。龍斗はいつだって、その優しい笑顔で桂奈のわがままを許してくれた。


「飛車落ちでいいか?」

「ん」

 まだ少し不満そうな桂奈が了承し、飛車の駒を一つ、盤上から取り除いた。

 龍斗はそれを見て、綺麗な指だな、と思った。


 対局が始まる。

 二人の指し方は対照的だった。


 龍斗は、息が詰まるような、ピリピリした雰囲気を纏っている。

 今にも空気が破裂しそうな緊張感を漂わせていた。


 桂奈は、盤上をスキップで跳ねるかのように、楽しそうに指す。

 口元に浮かべた微笑は、一瞬たりとも崩れることはない。


 飛車を落とした影響で、有利不利のはっきりしていた盤面は、やがて平衡状態となり、いつの間にか形勢は逆転していた。


 ……やっぱり、こうなってしまうのか。

 龍斗は顔を歪める。


 それでも桂奈は、笑顔のまま指し続けている。心から楽しんでいるのが伝わってくる。


 あんなに楽しかった将棋が、こんなにつらいものになってしまう。

 才能というものは、とても残酷だ。


 気づけば、外は暗くなっていた。

 対局を始めてから三時間が経とうとしている。


 パチン。

 成った桂馬が、右斜め前に進む。

「王手」

 迷いのない一手だった。


 詰みが見えた。

 どうあがいても、あと八手で逃げ場がなくなる。


「才能って、残酷だよな」

 は呟いた。

 その残酷な全部を受け入れたような、すがすがしい表情をしていた。


 投了はしなかった。

 もっと、桂奈と将棋を指していたかった。


 苦しくて、それでいて最高に愛おしいこの時間が、いつまでも続いてほしいと思ってしまった。


 桂奈だって、龍斗が自分の負けに気づいたことくらい、わかっているはずだ。

 それでも、彼女は何も言わず、最後まで龍斗に付き合ってくれた。




 小泉桂奈には、将棋の才能があった。

 龍斗に負けたあの日から、桂奈は本気になった。


 龍斗と、将棋をしたい。

 龍斗と、対等に戦いたい。

 龍斗と――一緒に遊びたい。


 桂奈にとって将棋は、龍斗と自分をつなぐための手段だった。それ以上でも、それ以下でもなかった。


 勝ちたい。

 将棋を指す人間なら、ほとんどが一番に優先するその感情を、桂奈は一切持っていなかった。


 大切な幼馴染と、対等な場所で向き合っていたい。

 桂奈はただ、それだけを願って、駒を動かしてきた。


 桂奈は、龍斗を軽々と飛び越えていってしまった。

 中学で将棋部に入った桂奈は、全国大会で三連覇した。高校でも危なげなく二連覇中で、このままいけば来年も優勝するだろう。


 実力で言えば、第一線で活躍している女流棋士にも引けをとらないレベルだ。

 しかし桂奈はプロになるつもりはないらしい。色々な将棋関係者が頭を悩ませているという。




 対局が終わり、龍斗の心にあった迷いは、綺麗さっぱり消えていた。

「絶対に追いつく。だから、また指してほしい」


「待ってる」

 泣きそうになるのをこらえながら、桂奈は答えた。


 もしかすると、自分が将棋を辞めようと考えていたことを、桂奈は見抜いていたのかもしれない。龍斗はそう思った。


 奨励会に入ってから、なかなか思うように勝てなくなり、自分には将棋の才能がないのだと理解した。年齢制限のプレッシャーに押しつぶされそうになりながら、大好きな将棋を続ける日々が、とても苦しかった。


 強くなりたくて、全部を懸けてがむしゃらに将棋を指してきたけれど、負け続ける日々が嫌になった。好きだったはずの将棋に、苦痛を感じることでさらに追い込まれていく。


 もう、諦めてしまおうかと思っていた。


 強くなりたいという、その気持ちが大きくなりすぎていた。

 将棋が、好きだったから。楽しかったから。

 そういった、将棋を始めたころの気持ちを、龍斗は忘れてしまっていた。


 桂奈のことを避けていたのは、負い目があったからだ。

 自分はこんなにも苦しんで勝てないのに、なぜ楽しんで将棋をしている桂奈はそんなに強いのか。


 中学一年生の冬。龍斗は初めて桂奈に負けた。

 それから、桂奈のことを避けるようになった。

 みっともない嫉妬で、情けない八つ当たりだった。


 けれど今、桂奈と将棋を指して、自分の間違いに気づけた。

 いきなり違う環境に飛び込んだのだから当たり前だ。ライバルだって、日々成長しているのだから強くなっている。

 才能がないから諦めるのではなく、好きだから続けようと思えた。


「よし、じゃあ二戦目いきますか!」

「はぁ⁉ どんだけ将棋好きなんだよ!」


「だって、龍斗と指すの、楽しいんだもん」

 無邪気な桂奈の笑顔を、今なら純粋に好きになれるような気がした。

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