頭のてっぺんから足のつま先まで

佐藤ぶそあ

第1話

「大きくなったら、宏ちゃんのお嫁さんにしてね」

 一つ年上の幼馴染みとそんな約束したのは、かれこれ十年以上も昔のことだ。もちろん、宏ちゃんがそんなことを覚えているはずはないし、覚えていたとしてもとっくに無効となったに違いなかった。

 家が隣で、親同士の仲も良かった私たちは、ほとんど兄妹みたいにして育った。

 その関係がぎくしゃくし始めたのはいつからだったろう。

 小学校で「宏太と佐伯は夫婦だ」なんてからかわれた時だろうか。それとも、宏ちゃんだけが先に中学の制服に身を包んで、大人ぶった顔をした時だろうか。

 違う。

 私が、宏ちゃんよりも大きくなってしまった時だ。


   ◆


「佐伯さーん、黒板の上の方、消すの手伝ってー」

「いいよー」

 日直の小林さんに頼まれて、私は黒板消しを手に取った。小林さんが背伸びをしても届かない黒板の上端に、私の手は軽々と届く。

 佐伯佳奈、身長百八十三センチ。

 春の身体測定で無情にも大台を超えたことを告げられた私の身長は、高校生になった今もまだ伸び続けている。

 歴史担当の先生は黒板の端から端まで使って板書をするタイプで、日直からの評判がすこぶる悪い。ついでに言うとノートを取るのが面倒くさいということで、別に日直でない生徒からも評判が悪い。

 そして私はと言えば、休み時間に日直の女子から頼られることが多いので、やっぱり歴史が好きではなかった。まるで、お前は背がデカいと再確認させるための授業みたい。もちろん、私の被害妄想以外の何物でもないのだけれど。

 丁寧に黒板を消し終えると、小林さんがにこにこ笑ってお礼を言ってくれた。

「ありがとう。助かっちゃった。手、洗いに行こ?」

 少しばかりチョークの粉がついた手を小林さんに引かれて、洗面所へ。蛇口の位置が低いから、いつもかがんで手を洗う。そうやって身を低くしてようやく、備え付けの鏡に私の顔が映る。

「そういえば私、バスケ部のマネージャーやってるんだけど」

「運動部からの勧誘は受け付けておりませんー」

 低い声で、断りの言葉を返す。そういうのは中学時代でとっくに懲りた。身長が高いからと言って運動が得意なわけではない。全くない。小林さんだって、体育の授業なんかで私の鈍くささは十分に見たことがあるはずだ。

「や、女バスじゃなくて男バスの方。佐伯さんて岸本先輩と幼馴染みなんだって?」

「うぇっ」

 びっくりして、変な声が出た。思わず隣の小林さんへと視線を投げる。さらさらしたショートの髪と、かわいらしいつむじが目に飛び込んできた。

「誰から聞いて……」

 高校に入学してから半年、宏ちゃんと接触しないよう気をつけて気をつけて生活してきたのに、どこから漏れたというのか。

「誰からって」

 キュ、と蛇口をひねって水を止めると、ハンカチで手を拭きながら小林さんは首をかしげた。

「岸本先輩からだけど。『俺より大きい幼馴染み』って、佐伯さんじゃんね」

「宏ちゃん……!」

 動揺して手を振り上げてしまい、ばしゃりと水が跳ねる。慌てて水を止めた。鏡に映る私の顔の上を、たらりと水滴が落ちていく。

「その反応を見てると、本当みたいね」

 口元に指を寄せて、くすくすと小林さんが笑う。

「ああ、うん。まあその、家が隣だったから、幼馴染み。うん。そう、幼馴染みだよ」

 ハンカチをぐしゃぐしゃにしながら手を拭いて、綺麗にたためないままポケットに戻した。

 ふぅん、と言いながら小林さんはあごを上げる。

「つけいる隙はあると見た」

 あ、と思った。

 小林さん、宏ちゃんのこと好きなんだ。

 完全に表情に出てしまったのだろう。小林さんが目を細める。私が気づいたことに、気づいたのだ。

「行こっか、佐伯さん。授業、始まっちゃう」

 洗面所へ来たときと同じように、小林さんに手を取られて教室へと戻る。

 小林さんは万事がそういう感じで、ぐいぐいと人を引っ張っていく勢いのある女の子だ。

 私へ向けてライバル宣言というか宣戦布告というか、そういうものを堂々とつきつけてくるあたりが、いかにも小林さんらしい。つけいる隙も何も、宏ちゃんの隣に並ぶのが怖くて逃げ回っている私は、きっと戦場にすら立てていないのだけど。


   ◆


 夕飯時、私はお裾分けにと煮物の入ったタッパーを持って、岸本家の前に立っていた。

 ちょうど良い高さにあるインターホンを、半身になって肘で押す。もっと昔はお母さんの隣で背伸びをして押してあげたものだし、小学生のころはタッパーを抱えたままおでこで押していた。

『あ、佳奈か』

 おばさんに一品持って行くと連絡を入れていたからか、それともカメラに映っている服で分かったのか、インターホンから返ってきたのは誰何ではなく私の名前だった。週に一、二回はあることだから、向こうも慣れっこになっている。私だってそうだ。その声だけで宏ちゃんだと分かる。

「ひじきと豆の煮物、お裾分けにどうぞ、って」

『お、やった、ひじき好き!』

 ぶつ、と接続の切れた音がして、すぐに玄関扉の向こうからどたどたと足音が聞こえてくる。

 ドアにぶつからないよう一歩下がって待っていると、サンダルをつっかけた宏ちゃんが出てきた。

 思わず、さらにもう半歩下がってしまう。そんなにぺらぺらのやつじゃなくて、下駄でも履いてきてほしい。

 部活帰りでシャワーでも浴びたあとなのか、宏ちゃんの髪は少し湿っている。ドライヤーを使わないところは、昔から変わっていない。そんなのをいちいち確認してしまう自分が少し気持ち悪いなとも思うけど、ちょうど視線の高さに宏ちゃんの頭が来るのだから仕方ない。

「ありがとなー、おばさんにもお礼を言っといてよ」

 そう言いながら、宏ちゃんはすぐに私からタッパーを受け取った。

「あ……」

 今日のは私が作った、と言いかけて、やめる。美味しくできていなかったら、いやだ。

「どうした?」

 私と目を合わせるために、少し視線を上げている宏ちゃんは、嬉しそうに笑っている。

「なんでもない」

 首を振って、踵を返そうとしたところに、声をかけられた。

「何か困ってることがあったら言えよ」

 宏ちゃんより大きいなんて、言われたくない。

「何もないよ」

「……そっか」

 宏ちゃんが空いている方の手で耳の後ろをかく。それが困っているときの癖であることを、私は知っている。

「じゃあ、またね」

「ああ、また」

 私が家に戻るまで、宏ちゃんが玄関から見送ってくれていたことは分かっていた。扉の閉まる音がしなかったから。

 宏ちゃんとの関係を勝手にぎくしゃくさせているのは、私だ。


   ◆


「どうしてこんなことに」

「私が佐伯さんとお昼を一緒したかったから?」

 呟いた私の隣で、小林さんが楽しそうに笑っている。

 つい一ヶ月ほど前までは外でご飯を食べるなんて正気の沙汰ではなかったけれど、ここ最近は晴れているなら風の気持ちいい季節になってきた。

 学校の中庭にいくつかあるベンチのひとつで、私と佐伯さんは並んでお弁当箱を広げている。

「いや、うん。それはそうなんだけど。なんて言うか、小林さんとはもっと距離を取ることになるのかなって、思ってたから」

「もしかして私、警戒されてる?」

 ショック、と大げさに驚いてみせる小林さん。

「つけいる隙がある、なんて。そんなことを言われたら、警戒もするよ」

「あ! 佐伯さんの唐揚げ美味しそう!」

 ぜんぜん聞いちゃいない。

「良かったら食べる?」

「いいの? いただきまーす」

 ひょいっと箸で唐揚げをつまむと、小林さんは一口で行った。結構なサイズの唐揚げを頬張って、幸せそうにもぐもぐと口を動かしている。小動物みたいでかわいい。

 しっかりと口の中のものを飲み込んでから、小林さんは自分の弁当箱から玉子焼きを箸でつまみ上げた。

「もらいっぱなしも悪いから、佐伯さんもどうぞ」

 ぐいっと差し出された玉子焼き。お弁当にいれるためか、しっかりと火が通されている。

「え、と、じゃあ、いただきます」

 身をかがめてぱくりと食べる。おお、小林さんちの玉子焼きは醤油風味のしょっぱい派。塩派の佐伯家とは少しばかり流派が違う。

「おお……」

 もぐもぐと玉子焼きを味わっていると、小林さんがなんだか感動したというように肩を震わせている。

「どうか、した?」

「餌付けに成功した」

「餌付けって……」

 私は野生動物ではないのだけれど。

「うん、分かってる、分かってる。言い方が悪かった。ごめん。それに佐伯さんは野生動物にしては油断が過ぎるし」

 油断。そう言われて、少しだけ身構え直す。やっぱり、私とお昼ご飯を食べるのは、小林さんにとって何かしらの思惑がある、ということなのだろう。

「宏ちゃ……岸本先輩のことを聞き出そうとしてる、とか」

「岸本先輩? なんで?」

 なんで、は私の台詞だった。しかし小林さんは、私よりも先に何かに気づいたようで、ははーんと言いながら笑みを作った。

 ぐい、と顔を寄せてくる。

 体格差はあるけれど、いつも猫背気味な私の顔を下からのぞき込むようにした小林さんとの距離は、相当に近い。

「私につけいられるのは、佐伯さんだよ」

「えっ、ちょ」

 小林さんの圧に負けて、仰け反る。それだけで、かなり小林さんの顔が離れた。大きいって便利だ。珍しくそう思った。

 くすくすと、小林さんが笑う。からかわれた、のではあるのだろうけど、全部が冗談というには目が本気だった。

「岸本先輩が心配するのも分かるな-。佐伯さん、かわいいよね」

「かわ、いい……っていうのは、小林さんみたいな人だと思う」

 だって、宏ちゃんと並んだとき、絵になるだろうなって、思ってしまったのだ。

「私はどっちかというとかわいげがない、って言われるんだけど。佐伯さんにかわいいって言われるのは嬉しいな」

 ところで、と小林さんが眉をひそめる。

「佐伯さんにかわいい自覚がないのは問題」

「いや、でも私……その、でかいし」

「それが?」

 とても不思議そうに、小林さんが目を丸くする。

「小さいとかわいいはイコールじゃないでしょ」

「小さい方が、かわいいと思うけど」

 えー、と小林さんは顔をしかめた。釣った魚にちゃんと餌をあげろよ、盗るぞ、なんて恐ろしいことをぶちぶち言っている。ポケットからスマホを取り出してすいすいと操作して、手を止めた。

「佐伯さん」

「えっ、はい」

「私は佐伯さんのことすっごいかわいいと思ってるし、猫背を直したらさらにかわいいと思ってる」

 まっすぐに言葉をぶつけられると、弱い。勢いに押されて納得しそうになる。

「なので、敵に塩を送ります。はい」

 見せられたスマホの画面。撮られた覚えのない私の写真を何枚も送りつけたメッセージと、『佐伯さんってかわいいですよね』と書かれた文字。その下に既読の文字がついて、しばし。

 ぽこん、と間抜けな受信音が鳴る。『おう、そうだろ』と返してきたメッセージの送り主の名前は、岸本先輩となっていた。続いて、『他の奴らに送ってないだろうな』ともうひとつ。

「はい、おしまい」

「あっ」

 素早くスマホをしまう小林さん。思わず手を伸ばしてしまった私は悪くないはずだ。もっと何度でも読んでいたかった。

「かわいいとかさ、誰に言ってほしいかなんて決まってるよね」

 歯を見せて笑う小林さんを見て、とたんに目が熱くなった。ぼろぼろと涙が溢れて、慌てて顔を隠した。

「ご、ごめ、ごめん。違う、ごめんなさい。泣きたかったんじゃなくて。違うの」

 かちゃかちゃと、音がする。それが小林さんのお弁当箱をしまう音なのだと分かった。こっちを見ないようにしてくれているのだとも、分かった。

 少しして、音がしなくなって、小林さんの声がした。

「どうせなら、笑ってお礼を言ってよ」

 私は鼻をすすって、目を拭って、顔を上げた。癖になってしまっている猫背を叱りつけるようにピンと伸ばす。

「ありがとう、小林さん」


   ◆


 現代的な通信手段がスマホでのメッセージのやり取りや映像通話だとしたら、私はひどく古典的な通信手段をひとつ持っている。

 ここ数年、一度も使わなかったものだけれど、そのホットラインはまだ生きているはずだった。

 夕飯を食べ終えたあと。部屋の壁に立てかけてあるアルミ製の物干し竿を手に取って、私は自室のカーテンと窓を開けた。二階建て、お隣さんの窓の向こうは幼馴染みの部屋、なんて。たぶんお父さんたちがそういう漫画を好きだったんだと思う。

 私は宏ちゃんの部屋に明かりがついていることを確かめて、その窓の桟を物干し竿で軽くつついた。

 本当に久しぶりだったので、数回はつつく必要があるかと思っていたけれど、宏ちゃんの部屋の窓はすぐに開いた。宏ちゃんもまだお風呂に入っていないのか、寝間着ではなく部屋着だ。

「どうした。なんかあったのか」

 心配そうに聞いてくる宏ちゃんに、なんだか笑ってしまう。勝手に臆病になって、それを宏ちゃんに隠したまま勝手に納得した、自分のずるさにも。

「ねえ、宏ちゃん」

「うん」

「幼稚園の頃にした約束、本気にしてるって言ったら、困る?」

 宏ちゃんは遠目にも分かるくらい、顔を赤くした。耳まで赤い。

「俺だけ覚えてるのかと思ってた」

「私も」

 そんなところばかり、私たちは似ている。

「だって中学の時、大きくなったなって言ったら泣かれたし」

「……ん?」

 そう、確かにそれは言われた覚えがある。忘れるものか。中学二年の春。目の錯覚だと自分を誤魔化し続けていたのに、身体測定で数字として出てしまった時の話だ。私が、宏ちゃんの身長を追い抜いてしまった日の話だ。ギリギリだった私の精神状態にトドメを刺したのが、確かに宏ちゃんのその台詞だ。

「約束しただろ。『大きくなったら、結婚する』って。なんか、そのことを思い出して、嬉しくなってさ。つい口から出たんだけど、それで泣かれたら、ああもう覚えてるのは俺だけなんだな、って」

 耳の後ろをかいて、照れくさそうに笑う宏ちゃん。

「そう、いう……意味じゃないでしょ宏ちゃんの、あほー!」

 一声叫んで、ぴしゃりと窓を閉めた。

 何かあったのかと階段を駆け上がってくるお父さんたちに、何でもないと返しながら、私はにやけそうになる頬を押さえていた。

 今度、ちゃんと教えてあげないといけない。

 大きいと言われるよりも、かわいいと言われる方が嬉しいということを。

 今でもずっと、宏ちゃんのことが好きだってことを。


<頭のてっぺんから足のつま先まで・了>

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