行軍

 雪が妖精の鱗粉のように静かに降り、曇り空と森を白く染めていた。静かな森には、わずかな鳥の鳴き声と軍靴が雪を踏み鳴らして歩く音が聞こえるだけだった。隊列は針葉樹林が律儀に整列して作っている長い一本道を生気なく進んでいた。無理な行軍で減った体力を雪で湿った装備がさらに奪い、部隊は時間の経過に沿うように小さくなっていくようであった。白く染まる視界に浸食されるように意識が薄れる。目の前の世界は現実なのか、それとも自分で作り出したものなのかが分からず、脳で処理される全てはひどくあいまいで混じり合っていた。先ほどの戦闘で肩に受けた傷の痛みだけが、私の意識をこの世界に縫い付けていた。

「なあ、俺たち帰還できると思うか?」学生時代からの古い友人が足を引きずりながら自嘲気味に尋ねる。

「わからない」私は傷を負っていない方の肩を貸しながら答えた。

「ただここにいては殺されてしまう。死にたくないのならここではないどこかへ逃げなければならない」白くぼけた視界に友人の姿を見る。彼は足に銃弾を受けていた。

「逃げるといってもさっきから景色すら全く変わらないじゃないか」呪いのようにそうつぶやいた彼の傷は私よりもさらに深いようで、応急処置の包帯がドブネズミの歯茎のように赤黒く変色していた。

「我々は逃げているわけではない!これは敗走ではなく、戦略的撤退なのだ!」会話を聞いた将校が怒号を飛ばした。「まだ負けたわけではない!駐屯地に帰還して体制を立て直し、必ず・・・必ず敵国を叩き潰すのだ!」

 強い言葉とは裏腹に、彼もまたひどく衰弱しているようだった。銃を杖代わりに雪に刺し、一歩一歩足を前に出す将校の姿には、間もなく彼に訪れる明確な死の匂いが漂っていた。禿げ上がった頭にいつもは宿命的に大きく浮き出ている血管が、今度ばかりは宿主を失った寄生虫のように力なく黒ずんでいた。

 部隊はもはや両手で数えられるほどの兵士しか残っていないようだった。細い足音は少しづつ消え、やがて森にはなんの音もしなくなった。

 私が部隊と完全にはぐれてしまったと気づいたのはかなり時間がたってからだった。立ち止まり、あたりを見回しても人影は全く見えない。足跡や血痕を探しても、雪がすでに覆い隠してしまったのかどこにも見当たらなかった。一本道を来たのだから、私が彼らを置いてきてしまったか、彼らが私を置いて行ってしまったのかのいずれかであるはずだった。しばらく考えてから、私はこのまま進むことにした。この道をそのまま行けば、少なくとも駐屯地があるはずだった。仲間たちともそこで再会できるかもしれない。

 私の希望的観測は、道の先に軍服をきた人間が雪の上に倒れていたのを見たときに崩れ去った。顔を見ると、それは将校であった。苦悶に歪めた顔面を雪に押し付けるように死んでいた。近くにもいくつかの死体があった。いずれも同じ部隊の顔見知りだった。

 少し離れたところに、足に銃弾を受け、雪を黒く染めている死体を見つけた。私の古くからの友人だった。供養はしなかった。すぐにまた会えると思ったからだ。代わりに彼がいつも懐にしまっていた家族写真を取り出し、自分の軍服の胸ポケットにしまった。私は歩いた。肩の痛みが心臓の鼓動のたびに強くなる。自らの吐く白い息に死の匂いが立ち込めている。私は嘔吐する。もはや立っていることも出来なくなる。傷を受けていない方の腕を使い、もがく様にして前に進む。意識の最後の一幕が切れる前、私は何者かの体の横に倒れこむ。肩に傷を負った軍人であった。私は気を失った。

 目が覚めると、そこは駐屯地の病棟のようだった。起き上がろうとするといつのまにか綺麗な包帯がまかれている肩に痛みが走った。私は立ち上がり、白く反射する病棟を一人で歩いていった。部隊で生きて帰ってきたのは私だけのようだった。壁際には、治療を求める怪我人たちが整列していた。誰もがひどくやつれていて、まるでそれぞれが死ぬ順番を律儀に待っているようだった。

 病棟の衣類保管所で、自分の軍服を見つけた。胸ポケットをいくらひっくり返してもなにも出てはこなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

枯れたひまわり(短編集) いわし @TBO50

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ