枯れたひまわり(短編集)

いわし

熱帯魚

 薄暗い熱帯魚店の中で、妻は夜の海を漂うクラゲのように見えた。それは膨らんだ腹部を包む白いワンピースのせいかも知れなかった。息を吐ききった時のように、心臓のあたりから手足の先端へと暖かい血が走っていく。妻は美しかった。


 初めて会ったのは大学で心理学の講義を受けている時だった。僕は後ろの方の席で机に突っ伏していた。寝てしまいたかったが、大教室の冷たくて固い机の上でそうするのは難しい。二日酔いと寝不足で定規のように無感覚になってしまった関節をもぞもぞと動かしながら、目を閉じ、時間が過ぎていくのを待っていた。



「エンゼルフィッシュ好きなの?」


 肩の近くできれいな声がした。目を閉じたまま、体を声の方にひねる。話しかけられているのが自分かどうか分からなかったからだ。


「やっぱり起きてるじゃん」


彼女は少し笑って言った。


「ねえ、エンゼルフィッシュ好きなの?」


 僕に話しかけているようだった。ずいぶん長く目をつぶっていたから視界が左右に領域を広げていくのに少し時間がかかる。目をこすりながら、質問の意味を考えた。エンゼルフィッシュ?


「どうして?」


 何とか声を絞り出すと、彼女は僕のリュックを指さして


「キーホルダー」


 とだけ言った。確かに僕のリュックには奇妙な魚のキーホルダーがぶら下がっていた。なぜだかそれをどこで手に入れたのかも、どうしてリュックに付けたのかも思い出せない。第一、その縞模様の魚がエンゼルフィッシュであるということも知らなかった。


「私、熱帯魚大好きなの。エンゼルフィッシュは特に面白くてね、卵を守るために口の中で子育てするんだよ。面白いよね、あなたも熱帯魚好きなの?」


 光に慣れた視野は鮮明になって、世界は彩りを取り戻していた。そして僕の前には、頬を少し赤く染めた女の子の姿が浮かび上がった。


 「目が輝く」というのは誇張表現だと思っていた。しかし、その子の目は確かに輝いていた。あるいは、昔の人がこんな目を見て思いついた表現なのかもしれないとも思った。


「好きだよ」


 もちろん、僕は熱帯魚のことなど、一つも知らなかった。でも、口から出たその言葉は、確かに、真実であるように思えた。心臓はゆっくり、暖かい血を、僕の手足に、波打たせていた。


 授業を抜け出して行った熱帯魚カフェで、僕は何度もトイレに行った。スマホで必死に魚について情報を調べ、その場で暗記して、戻ってすぐに彼女に伝える。彼女は僕の薄い知識を「へえ」とか「ふん」とか言って受け止め、優越感を楽しんでいるように見えた。そういう時の彼女はいつもとても美しかった。


 僕たちは極めて自然に付き合い、大学を卒業してから結婚した。僕は教師に、妻は市役所に務めた。なぜ熱帯魚関連の仕事にしなかったのか聞いても、いつもいたずらっぽく笑うだけで答えてくれない。結婚して二年目に妻は妊娠した。


 子供を授かってから二人で熱帯魚店に行き、小さめの水槽と熱帯魚を買った。もちろんエンゼルフィッシュだ。水槽に合うように小さいものを。


「この子たちは守り神なの。」


妻は僕の目をまっすぐ見て、まるで子供に教えるように呟いた。


「エンゼルフィッシュは子育てが上手いでしょ?だから、いい子に育ちますようにって。」


 


 しかし妻が母であれたのは極めて短い時間だった。妻は小さな女の子をこの世に産み落とし、そのまま衰弱して亡くなった。祈るように死んでいった体は酷く冷たかった。僕は生まれたばかりの娘を抱えたまま、目の前の横たわる妻の氷河に耳をすませた。それは深海のように静かで、何も語ろうとはしなかった。


 病院を離れたのは深夜になってからだった。車のフロントガラス越しの街はひどく無関心に思える。空は暗く、星は一つも見えない。丸い月が夜を覗き込むようにいやらしく光っている。妻の死、そのものが街のいたるところに潜んでいるような気がした。


 


 家に着き、娘を寝かせた後、水槽の裏にメモを見つけた。メモは夜風を受けて、手を振るように揺れていた。紙には薄い鉛筆でこう書かれていた。



サプライズ!私本当は熱帯魚のことなんて全然知りません!キーホルダー覚えてる?あれも大学の教室に落ちてたやつを、私が勝手にリュックにつけたの。話しかけたくて。でもエンゼルフィッシュのことは本当よ。トイレで調べたから笑



 僕はメモを読み終えると、うまく動かない体を這わせるように自分の部屋に向かい、引き出しからキーホルダーを取り出した。久しぶりに見るそれは、少し黒ずんでいるように思えた。僕はそれを妻の残したメモでくるみ、口の中に押し込んだ。嗚咽が漏れたが、口を手で押さえて無理やり飲み込んだ。喉から胃へと異物が運ばれていく感触がさらに吐き気を加速させたが、僕に吐く気はなかった。


 壊れるような悲しみと喉に残る無機物の感触を振り払うように、僕は寝ている娘を抱きしめた。そして空が青さを取り戻すまでずっとそうしていた。

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