色彩の無い世界

そこらへんの社会人

本編

『僕は 世界の 秘密を 知っている。』


 小さなテールランプが置かれた勉強机の上で、僕は綴った。ネットで取り寄せた高級そうな和紙の上にしっかりと黒のインクを残した。

 深夜二時、僕の小さな部屋の中で、テールランプの白い灯りが照らす場所以外は静止していた。部屋を出た先のリビングや、その奥にある両親の寝室からも物音ひとつ聞こえてこない。真っ暗で、真っ黒な世界。

 僕はその一文を書いた便箋を四つ折りにして、より一層高級そうな和紙封筒に封入した。灯りはあるが、角が折れないよう丁寧に入れた。

 封筒の表に書かれた宛名を確認する。どうやら誤字脱字は無いようだった。裏返して今度は自分の名前を確認する。「最上ユウ」と僕の名前が書いてある。なんだか心がざわつく。これから僕は一体どうなってしまうのか、それともただの杞憂で終わるのか、期待も不安もこの拍動を強める薪となった。

 息を吐いて、胸に手を当てる。大丈夫、僕は一人じゃない。そう心で呟く。


「ユウには私の色、見える?」


 そう言って微笑む彼女の顔が思い浮かぶ。一本一本がきめ細やかな黒髪を風に靡かせながら、草原を白いワンピースで走り回っていた彼女。ベッドに縛り付けられ自由を剥奪されてしまった彼女。救えなかった最愛の彼女のことを思いだした。


 目頭がじんわりと熱くなるのを感じて、僕は目をギュッと瞑った。堪えようとしたはずの涙が頬を滴り落ちてくる。


 ――僕は、一人じゃない。君も、一人じゃない。


 左腕のパジャマの袖で涙を拭いながら、右手でもう一度ペンを持った。そうして、潤んだ視界のまま、僕の名前の横に新たな名前を足した。


 ――安城マイ。そう書いた。脳に焼き付いていた。


 今度こそ出来上がった封筒を灯りに透かしてみた。灯りの白で、封筒の白が透過されて、透明な封筒のようにも見える。中の便箋も、明度の低い白紙としてそこにあった。そうして今度はその封筒をランプの灯りの外――暗闇に置いてみた。それこそ勉強机のはしっこに。

 すると、封筒は先ほどまで見せていた透明性のある色を失い、ただの黒い塊になってしまった。机と一体化して、真っ黒な部屋の一部になってしまった。僕は灯りを消してベッドに飛び込んだ。


 白が事物をつまびらかにして、黒が事物を有耶無耶にする。それがこの世界の理。でもそれはきっと見かけだけの理論。僕ら人間は光に照らされれば白になるし、闇に触れれば黒になる。そういう意味では、人は基本的には透明なのかもしれない。


 ――僕は今、何色だろう。


 両の腕で枕を首元に抱え込みながら、そう思った。


 ***


 あれは、十五歳の誕生日を迎えた数日後だった。


 僕の世界から突然、色彩が失われた。

 比喩ではなく文字通り世界が色あせた。カラフルだった世界がモノクロの世界に変わった。全てが黒縁で区切られ、その中身を白が埋めた。まるでマンガを読んでいるような、昔の映画を見ているような、そんな気分になった。

 すぐに両親に相談すれば良かったかもしれない。もしかしたら眼の疲労による一時的な症状かもしれない。けれど、僕はそれが出来なかった。ある日突然、自分が周りの人間と決定的な差異を持ってしまったことを、認めることが出来なった。

 だから僕は平然を装った。朝起きて、色の無い世界に驚愕しながらも母親と共に朝食を取り、他愛もない会話をこなし、文字以外では見分けられない教科書やノートをカバンに詰め込んで、とりあえず家を飛び出た。きっと母親の目には、学校にいきたくてしょうがない息子に見えただろう。けど、それは違う。この症状が誰かにバレてしまうことが怖かったんだ。


 家を出て、目の前にいつもの通学路が広がっていることに安堵する。色はないけれど、それ以外は何も変わっちゃいない。いつもの横断歩道、いつもの信号、いつもの電柱。僕の目がおかしくなってしまっただけで世界は変わっていない。


「おはよう」


 声の方に振り向く。


「あ、おはようございます」


 隣に住むおばあちゃんが、玄関の植物に水やりをしながら僕を見送っていた。昨日までは確かピンク色のエプロンをしていたはずだが、僕の視界に映るのはエプロンのように見える「白い何か」でしかない。


「今日はいつもより早いわねぇ」


「はい」


「ちょっとこっちに来てごらん」


 そういって、おばあちゃんは僕に有無を言わさず、玄関から自宅の庭に入っていった。少し豪華そうな一軒家に住んでいるこのおばあちゃんは、普段から何かと僕のことを気にかけてくれていた。


 ――まあ、時間はあるし別にいいか。


 そう思って僕はモノクロなおばあちゃんの後を追いかけた。


「すご・・・」


 庭に入るなり、僕は感嘆の声を漏らしてしまっていた。背丈を超えるような大きな植物が周りを囲み、まるで森の中にいるかのような雰囲気を醸し出す。足元にはたくさんの花が咲いていた。色は白黒で皆同じに見える、花弁の形状を鑑みるに様々な種類の花があるに違いなかった。


「外からじゃ見えないけど、中はこうなってるのよ」


 おばあちゃんはそんな僕を見て満足そうな顔をしていた。確かに、おばあちゃんの家は外から見れば「人が住まなくなり、自然の植物と同化してしまったツタだらけの家」にしか見えない。というかついさっきまで僕もそう思っていた。まあ、そういう意味では「自然の植物に水を遣っている変なおばあちゃん」だと思っていたわけだが。


「すごい、ですね。これ」


 今まで見たことが無いような景色、それこそ自分が植物に囲まれ一歩間違えば取り込まれてしまうような感覚。隙間から差し込む太陽の光が、白い斜線となって目に映る。色が見えていたらもっときれいなんだろうなと思った。


「あら、ありがとう。育てた甲斐があるわ」


 おばあちゃんは上品そうな口調で言う。かつておばあちゃんは大企業の社長夫人だった、という話を両親がしていたのを思い出した。


「ユウ君は植物好き?」


「それなりには、好きです」


 色が見えていれば、の話だが。


「じゃあ今度、花の苗をポットに入れてあげましょうか」


 僕の話を聞いているか怪しいような返答。


「それは申し訳ないです」


「何も申し訳なくないわよ。もらえるものは貰っときなさい」


 そういうとおばあちゃんはそそくさと辺りをうろつき、ポットと肥料を探し始めた。僕は少しだけ焦る。


「あの、僕、学校があるのでまたの機会に――」


「ああぁ、そうよね、登校中に苗を持って歩くわけにもいかないものね。都合の良い時に来てもらった方が良いわね。ごめんね、私スイッチ入ったら早々止まらないのよ」


 止まるべきところを間違えている、と僕は思ったが口には出さなかった。どうやら花の苗をもらうことは確定してしまったらしい。


「じゃあ、また越させていただきます。ありがとうございました」


 僕はペコリとお辞儀をして庭を出ようとした。そんな僕をおばあちゃんはまた呼び止める。


「どの花が一番きれいだった?」


 おばあちゃんが微笑む。けれど僕は苦笑いを浮かべるしかなかった。どの花もモノクロだ、綺麗も何もあったもんじゃない。


「ええと・・・」


「バンジー? マリーゴールド? それとも他の花?」


「えと、それじゃあ――」


 適当に花の名前を言おうとした。


「ユウ君は何色が好き?」


 ギクリとする。おばあちゃんの目は確実に僕を捉えている。僕の異常を捉えている。そう思うと身動きが取れなくなってしまった。僕の世界に色彩はない。全て等しく白と黒。あるのは陰陽の差だけで色ではない。どうしよう、バレてしまう、そう思った。


 暫し、沈黙が流れた。息苦しい時間だった。

 

「あらやだ、こんなことしてたら学校に遅れちゃうわよね。悩んでるようだから学校で考えておいて。好きな色の花が育つ苗を上げるから」


 おばあちゃんは、ハッとしたかのように僕を視線で拘束するのを止めた。手に持っているじょうろの水が空になっているようだ。


「わ、分かりました。じゃあ、行ってきます。」


 ロボットのようなぎこちない動作で、僕は今度こそ森を抜けだした。後ろで「礼儀正しいわねえ、ユウ君は」という声が聞こえたがその声には振り返らなかった。背中にじんわりと汗をかいているのが分かる。夏直前の六月。きっと、暑さのせいだ。


 ジリジリと焼け付くコンクリートの歩道を歩いて学校へ向かう。モノクロな世界でも大気の歪みが目に見えることに少し驚いた。

 目の前の横断歩道の信号は赤だった。いや、「赤のはず」だ。人型のシルエットがただ立っている枠の方が白く光っている。色が判別できないと信号を渡るのも難しいだろうと思っていたが、案外世の中は良くできているようだ。色が消えてしまった僕の世界でも、滞りなく日常は過ぎていく。僕もその円滑な波に同調して乗りこなすことが出来る。そう見せかけることができる。

 後ろから数人の足音が聞こえる。さりげなく目を遣ると僕と同じくらいの背丈が三つ並んでいた。黒い制服。顔は良く知らないが、たぶん僕と同じ中学校に通っている生徒だろうという目測が立った。彼らは信号を待つ僕の更に後ろで止まった。どうやら信号は「赤」で間違いないらしい。


「明日の花火大会、一緒に行こうぜ」


 後ろで野太い少年の声がする。多分三人組の中でも一際異彩を放っていた大柄の少年だな、と思った。


「宿題終わってからでも間に合うかな。うちのママ結構きびしいから」


 今度は、まだ声変わり前の甲高い声。残りの二人のどちらの方なのか、僕は少し考えた。残り二人はどちらも似ていて、眼鏡をかけているか否かくらいの違いしかないような気もする。僕は眼鏡の方だと仮定した。意味のない遊びだ。


「お前の母ちゃんホント厳しいなあ。うちなんて宿題教えてもらおうとしたころには夜勤に出かけちまってるぜ」


「僕はいけるよ」


 もう一人の声がする。これが多分眼鏡をかけていない方の声。

 そんな三人の会話に耳を澄ませているうちに信号の光が切り替わった。人型のシルエットが歩くポーズをしている方の枠が白くなっている。

 僕は少しの間、そのまま立ち止まっていた。「青」である確証がなかったから。目を瞑って歩いているような不安が押し寄せてきてしまった。


 後ろの三人も一旦会話を中断している。信号の変わり目に気付いただけか、僕のことを見ているのか定かではなかった。


 一瞬だけ世界が止まったように思えたが、すぐにまた世界は動き出した。後ろの三人は僕の横を通り抜け、横断歩道を渡っている。僕に向けられた視線は感じなかった。三人の後ろについて横断歩道を渡った。どうやら確かに「青」らしい。自分のモノクロな世界での生き方に、少しだけ自信を持った。


 ***


 学校についてからも僕の日常は何事もなく進んでいった。朝の会も、授業も、昼休みも放課後も。給食のご飯が美味しそうに見えなかったことだけは残念だったけど。

 周りの皆の行動を見てそれと同じ行動をしていれば、間違っていることはあっても、僕がおかしいことをしているとは思われない。皆が右を向けば右を向いて、皆が美味しいと言えば美味しいと言って、皆が綺麗だと言えば綺麗だといった。色が見えない不安は、少しだけ安らいでいた。


 けれど僕には、一つだけ大きな問題があった。問題というか懸念というか。

 僕は恋をしていた。好きな人がいた。小学生の時から、中学二年生の今までずっと一人の女の子のことが好きだった。クラスは違うけれど、廊下ですれ違う時、いつも彼女のことを目で追ってしまう自分を認めていた。小学生のころはよく遊んでいたその子との関係は、中学校に入って確かに希薄になったものの、僕の恋心は消えることなく静かに燃えていた。


「僕、大きくなったら、マイちゃんと結婚する!」


「私も大きくなったらユウ君のお嫁さんになる!」


 小学校低学年のころ、お飯事の一環で、教室の隅っこで二人指切りをした。目いっぱいの笑顔で、二人言葉を交わした。そんな景色を思い出した。あの頃は毎日のように二人で遊んでいた。


 多くの人にとっては、いや、たぶん彼女にとっても「その程度のこと」だとは思う。そんなきっかけで人を好きになるなんて、同級生に話したら笑われてしまうかもしれない。でも、それでも僕はいつしか本気で彼女のことを好きになっていた。大人になっていく彼女に惹かれていった。一時の思い違いかもしれない、そう思い込んで自分を騙すにはもう遅すぎた。僕の心には火が付いていた。


 ――今年の夏、彼女に告白しよう。


 僕はそう心に決めていた。この長い恋心が砕けようと構わない。思いを伝えようと決心していた。


 だからこそ、この状況が不安だった。

 僕の日常生活に色彩がないことはさほど問題ではない。朝も確認したように、恐らく最低限の生活にそこまでの不自由はないだろう。ただ、好きな子がモノクロに見えてしまう。それは恐れるには十分すぎる前情報だった。僕の心の炎はまだ火種を残しているだろうか。まだ消えてはいないだろうか。そんなことばかり考えてしまった。


 放課後、僕は彼女を呼び出していた。校門を出てすぐの駐車場に来てほしいと彼女の友達伝いで伝えていた。彼女に直接言うつもりだったが、こんなアクシデントがあった後だと、何時自分が怖気づいてしまうか分からないから、彼女の姿を放課後まで見ないように努めた。


 ***


 多くの生徒が部活終わりのへとへとになった顔のまま自転車を漕いで帰っていく様子が見える。僕は生憎、帰宅部のため彼らの気持ちは分からない。ただ、心中穏やかではなかった。怖気づかないために人伝いで呼び出したはいいが、もしここに彼女がきた瞬間、そのモノクロの水が僕の心を消火してしまったらどうしようかと不安になった。そう考えながら、駐車場の広い敷地内で尻尾を追う犬のようにクルクルと回り続けた。


「お疲れ、ユウ、遅くなってごめんね」


 声がする。待ち望んでいた声がする。僕をつかんで離さない彼女の声が。


 僕は意を決して振り向いた。


 世界に色が蘇った。彼女はそのいつもの透明感を纏っていて、紺色の制服に白い肌。モノクロではない彼女がそこにいた――ように思えた。


「ああ、ええと・・・お疲れ」


 鮮明に見えていた彼女の色彩は、徐々にその色を失っていった。いや、厳密には僕の記憶を現実のモノクロが上書きしていた。昨日まで追い続けていた彼女の色を脳が覚えていただけだった。


「それで、用ってなにかな」


ロングの黒髪を少し揺らし、耳に髪を掛けながら彼女は問う。


「用っていうのは、その・・・あの・・・」


 言葉に詰まる。この数秒の間に脳内で行われている処理に、心が付いていかない。モノクロな彼女を見て、僕の心は静まるのか、それを判断するには少し時間がかかった。


「部活! そう、部活の調子はどうかなって」


 彼女は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。僕も同じ気持ちだった。


「なにそれ、そんなことのために呼んだの?」


 語気に少しイライラが籠っているのが分かった。彼女は昔から周りくどい言い方を嫌っていた。言いたいことはハッキリと、面と向かって言うのが良くも悪くも彼女だった。


「ええと、その、ごめん」


 僕の脳内処理は着実に進んでいる。モノクロの彼女を見て、僕の心はまだ燃えているのが分かる。あとは、僕自身の勇気の問題。


「そんな要件ならもう帰るよ。またね」


 彼女は呆れたような顔で向こうを向いてしまった。僕は拳を強く握る。このままじゃだめだと、見ているだけだった彼女と、その先の恋路に手を伸ばすのは今なんだ。

 彼女にはこれまでも彼氏が出来ていた。付き合っては別れ、付き合っては別れを繰り返していた。僕はその情報のすべてに一喜一憂していた。そんな日々には別れを告げたはずだ。


 脳内の処理だとか、言葉とかもうぐちゃぐちゃだったから、ただ声を出した。後も先もない。あるのはこの瞬間だけ。


「あ、あした! 花火大会、一緒にどうかなって・・・」


 半分叫ぶような声で僕はそう言っていた。尻すぼみになった声は彼女に確かに届いたはずだ。


 彼女はそのまま向こうを向いたまま、立ち止まっている。そのまま腕時計を見るそぶりをした。表情が窺えないのがもどかしい。


「十五時に、会場近くの公園で」


 彼女からの返答にも脳が追い付かない。


「え?」


「十五時に公園! 分かった?」


「えと・・・はい」


「じゃあ。明日ね」


 そういうと彼女は一度もこちらを振り返ることなく颯爽と駆けて行ってしまった。現役陸上部というだけあって、見る見るうちに彼女の後姿は遠くなり、消えてしまった。そんな彼女を僕は呆然と立ち尽くしたまま見つめていた。


 ――約束、出来たんだろうか。


 僕が提案したのか、彼女が提案したのか分からない明日の予定が出来上がった。夕暮れ時の日光は、独特な淡い白の光だった。


 その日の夜、僕は家のパソコンで自分の症状を検索した。

 「色盲」、「色弱」、色に関する言葉がインターネット上には転がっていた。だが、そのどれも僕の症状には当てはまらなかった。僕は色の識別が出来ないのではない。色彩が世界そのものにないのだ。赤と緑の識別が出来ないわけではなく、すべてが黒と白でしか表現されていない。色は覚えている。赤も青も緑もどんな色か思い出せる。でも、今の僕の世界にはそれらが存在していない。それだけなのだ。


 僕は途方もない不安に駆られた。世界で僕と同じ症状の人はいないのかと孤独を憂いた。誰にも知られることなくこれからの人生を生きよう、そう思った。


 明日は長いこと待ちわびた彼女との花火大会なんだ。その希望に心の明度を上げて眠りについた。


 その夜、夢を見た。夢、というかかつての記憶をもう一度経験した。夢の世界には色彩があった。

 花火が打ちあがっている。何発も何発も打ちあがっている。僕の町で行われる花火大会は夏を先取りして行われ、各地の花火職人が自慢の花火を打ち上げる。大きな花形、何層にもなっている花火。カラフルな花火等様々だ。


 僕は花火が見える丘の上に居た。そこに居るのは、僕だけではなかった。目を凝らす。暗闇に紛れてはいるが、視線の先には二人分の影が見える。男と女、浴衣と甚兵衛。

 僕は少しだけ前に歩み寄りながら更に目を凝らす。首だけが先行し、奇妙な姿勢になる。


「好きだ、安城。俺と付き合ってくれ」


 花火の飛び散る音と共に、男の声がした。花火の一瞬の灯りで二人の顔も照らされる。学校でも随一の人気を誇る男子生徒(たしかサッカー部だったような)が向き合う女子生徒に告白していた。花火大会で告白、良くある話だ。


 僕は告白された彼女の顔を窺った。心臓の音が耳元で強く響いている。僕は当事者ではないはずなのに、胸の鼓動が強く、激しくなった。


「いいよ」


 彼女のいつもの声がした。軽い口調で彼女は告白を受け入れた。男子生徒の噛み締めるような喜びの呻きが聞こえる。彼女の明るい笑いも相まって僕の耳に流れてくる。僕の鼓動はどこか遠くに行ってしまった。いや、僕自身が現実から遠ざかっていくのを感じた。悲壮感、喪失感、虚無、そのどれかも分からない。ただ現実から離れていく僕がそこにいた。


「―――ッ」


 目覚ましの音が僕は現実に引き戻した。時計は十時を指していた。いつもなら昼過ぎまで寝ている土曜日だが、今日はいつもと違った。


 思い出したくない過去を夢で見たせいか、いつもより気持ちの悪い寝汗をかいているのが分かった。ベッドから起き上がり、シャワーを浴びるための着替えをタンスから取り出す。


 ――嫌な記憶、思い出しちゃったな。


 乱雑に服を出し入れしながらそう思った。あれは去年の花火大会のことだ。たまたま花火を見るのに適した特等席に行こうとしていた僕の目の前で・・・あれから僕はどうしたんだっけ、花火を見た記憶も二人と談笑した記憶もない。存在を消して逃げ帰ったんだっけか。


 シャワーを浴びて、僕は忌々しい記憶とそれにへばりつく自分の醜い感情を洗い流した。白いはずの水がなんだか黒く濁って見えた。


 ***


 十五時五分前、僕は約束の公園に一人立っていた。この公園は、会場から少し離れた場所にあるが、会場の方から祭り前の喧騒が聞こえてきていた。公園を見渡すと黒ずんでさび付いた遊具と、伸び放題の雑草たちが象る景色が少し気分をげんなりさせる。どうして彼女はこんな所を指定したんだろうか、と不思議に思った。花火大会が始まるのは早くても十九時頃からである。四時間もこんな公園で遊ぶつもりなのか。腕を組んでうーんと首を捻った。


「おまたせっ」


 タッタッタとサンダルの心地よい跳ね音と同時に彼女の声がした。白いワンピースに麦わら帽子をかぶっている。花火大会に行く服装というよりかは、ピクニックで行く服装に見えた。


「え、すごいな、その服」


 思わず言葉にしてしまっていた。まるで絵画に描かれるような真白なワンピースと麦わら帽子だったからだろう。いや、今思えばあのワンピースが白色だったという確証はないけれど、僕には純白に映って見えた。


「似合ってない・・・かな?」


 彼女は少し不安げな表情を僕に見せる。いつも自信満々な彼女にしては珍しい表情だった。


「いや、似合ってるよ」


 多分、僕の好きな彼女は何を着たって画になる。


「そっか・・・アハハ、なんか照れるな。」


 頭の後ろを掻くようなそぶりをして彼女は笑って見せた。ぎこちない笑顔も新鮮だ。


「でも、なんでこんな早い時間に?」


 僕の問いを聞くや否や、彼女は緩んでいた表情を、キリっといつもの凛々しい顔つきに戻した。よくぞ聞いてくれました、と言わんばかりの顔だ。


「よし、それじゃあ早速向かおうか」


 その割に、問いに答えることなく彼女は歩き始めた。こういう突拍子もなく何かを始める彼女に付いていくことに、僕は少し懐かしさを覚えた。


 彼女が僕を連れてたどり着いた先は丘の上の野原だった。知らないはずがない。忘れるわけがない。忌々しい記憶の産地だ。


 僕は言葉を発さなかった。というより発せなかった。丘の上から見える壮観への感嘆も、吹き抜ける風の心地よさも、僕にはどうでもよいものだった。


「ここ、私の好きな場所なんだ」


 それは僕も一緒だ。お気に入りの場所だ。


「毎年、花火はここで見てるの」


「去年は確かここで告白されたの」


 それも知ってる。知りたくなかったが、知ってしまっている。


「・・・」


 なぜこの女はそんなことを僕に言うんだろうか。少し乱暴な目で彼女を見据える。眩いくらいの白いワンピースが風に靡く。


「その前も、確かこの場所」


「・・・」


「だから、ユウ」


 僕の前に立ちはだかるようにして彼女は言った。


「私はあんたに全部塗り替えてほしいの。私の過去も全部」


 なんと無茶苦茶な、と思った。告白される側のセリフとは到底思えなかった。


「毎回毎回塗り替えてたんじゃ、キリがないだろ」


 僕は少し投げやりになった。なんだか、掌で踊らされてるような気がしてもやもやしていた。


「そうじゃなくて」


「何が違うんだよ」


 彼女の顔が少しこわばる。黒髪が風に吹かれている。


「前の彼氏にもそうやって言ってきたんじゃないのかよ」


 忌々しい記憶が脳裏にチラつく。あの時の彼女の表情がどうしても思い出せない。


「それはあんたが・・・」


「あんたがなんだよ」


「あんたが悪い」


「・・・それは・・・」


 僕が言っていることは、好きな人の自由を束縛しているのと変わらない。確かにそれはそうだ。でもその言い草はないだろう。


「じゃあ、そういうの言われるの嫌いだから言わないでくれ」


「どういうことよ」


「前の彼氏がとかいちいち比べられたくない」


「・・・いやそういう意味じゃなくて」


「どういう意味なんだよ」


「あんた、ホントに鈍いし、腹が立つわね」


「・・・」


「あんたが一番なのは昔っから変わってないっての!」


「は?」


「小さい頃約束したの忘れたの?」


 忘れるはずがない、彼女が忘れていても僕は忘れるはずがなかった。それを彼女も覚えていた。けれど、


「じゃあなんで他の男と付き合ってたんだよ」


「年頃の女の子なんだから恋愛の一つくらいしたっていいじゃないの」


「好きでもない男と付き合うのか?」


「いいじゃない人生経験なんだから!」


「紛らわしいことしないでくれよ!」


「元はといえばあんたが悪いんでしょ!」


「僕が何したっていうのさ」


「何もしてないのが問題なの!」


「?」


 もう我慢ならないといった表情で彼女は叫んだ。


「あんたが私に気がある素振りを見せないから悪いんでしょ!」


 想定外の言葉が返ってきた。まさか、そうくるとは。


「じゃあ今から付き合ってくれてもいいだろ!」


 勢いに任せて僕はそう言った。


「――っ、もっと早く言いなさいよ! この鈍感!」


 彼女も僕も顔を真っ赤にしていた。


 ***


 僕たちはとっくのとうに結ばれるはずだったのか。

 十九時――花火大会が始まる頃になって、会場の方が騒がしくなってきても、僕たちは原っぱに居た。二人座って話しているうちに時間はみるみる過ぎていった。中学生になってから、彼女とこうして話す機会はなかったし、顔を見かけたら挨拶を交わす程度の関係でしかなかったから、時間は寧ろまだまだ足りなかった。勉強のこと、部活のこと、恋愛のこと、ありとあらゆる話題を僕たちは広げた。


「ユウ、彼女いたことないって、そんなに私のこと好きだったの?」


「ずっと片思いだと思ってたよ。小学生のころから」


「私も片思いだと思ってた」


 二人そろって鈍感だったらしい。時の神様が憎たらしい。


 丁度その時一発の花火が打ちあがった。僕にとってそれは白い発行体でしかなかったが、その造形に見とれてしまった。

 花火は宙で弾け、無数の破片を飛び散らせた。


「綺麗だね」


 彼女が呟く。


「うん、綺麗だ」


「夏が始まるって感じだね」


「うん」


「私たちも、これから始まるのかな」


「そうだといいな」


「なんでそんな他人事なの?」


 彼女は、ぷくりと膨らんで見せた。


「ずーーっと、待ってたのに」


 良く言うよ、と僕は思った。


「その割には僕以外の人とも付き合ってたじゃん」


「あれは人生経験のためなの」


「僕も人生経験の一環になっちゃうかもしれない」


「残念ながら体験期間は終了したのです。もう離さないから、そっちも離さないでよね」


「・・・お互い様」


 僕が離すわけがない。せっかくつながった君との赤い糸を、手繰り寄せるのにこんなに苦労したものを易々と手放すものか。君が思っている以上に、僕は君に心奪われているんだ。


「私、まだユウの口からちゃんと告白されてないなぁ」


 僕をからかうように彼女は言った。勢いに任せて告白してしまったのは僕としても引っ掛かっていた。


「じゃあ、もう一回やってもいい?」


「良いよ」


 彼女の優しい声がした。暗闇で良く見えないけど。


「安城マイさん、僕と付き合ってください」


「なんか硬い」


「マイ、付き合おう」


「なんかチャラい」


「注文が多いな・・・」


「もっと普通に言えないの?」


「・・・好きです」


「・・・」


「・・・」


 暗闇に紛れて僕は首をすぼめた。頬が紅潮している。熱い。恥ずかしさでいっぱいだった。


 隣の彼女を見ると――


「・・・ありがと」


 彼女も亀のように首をすぼめてこちらを見ていた。体育すわりで組まれた腕の上に可愛らしい顔が乗っている。その瞳の虹彩に吸い込まれそうになる。照れ笑いを浮かべる彼女を見て、僕もにやけてしまう。


大きな音を立てながら、花火が打ちあがり、咲きほこり、消えていく。その繰り返し。花火の灯りが時折、暗闇の僕らを明るく照らす。蛍光灯の灯りとは違う、白い光。僕と彼女は高地の原っぱに居る。

 花火の破片ひとつひとつが確かな輪郭を持って、僕らの頭上に咲いていた。

 彼女が、鮮やかに色づいて見えた気がした。


 ***


 その日の夜、風呂上がりの僕は満足げな心持ちでくつろいでいた。ずっと好きだった子と付き合えることになったのだ。これ以上のことはない。世界から色が消えたのも彼女と付き合うためだったのだと思えばそこまで悪いものではない。この時の僕はそう思っていた。


「ユウー、ちょっとおいで」


 リビングから父さんの声がした。僕は返事をして、リビングに向かった。


「どうしたの?」


 リビングでは父さんと母さんが神妙な面持ちで僕のことを見ていた。まるで何かを見透かそうとするような。


「なあ、ユウ、正直に言ってくれ。何か父さんたちに隠していないか?」


 眼鏡をかけた角刈りの父さんが真剣な口調で言う。四十歳にしては老け込みすぎているようにも見える父さんは、仕事一筋の人間だった。


「ええと、なんのことだろう」


 一瞬、彼女が出来たことを聞いているのかと思った。けれど、こんな重苦しい雰囲気を醸し出す理由が何なのかわからなかったから、僕ははぐらかした。


「家のパソコンの履歴をみたんだが・・・」


 そういって父さんは僕に見慣れたパソコンの履歴画面を見せた。家族共有のパソコンで僕は変なサイトを調べることはなかったはずだ。


 履歴を一つ一つ見ていく、母さんが見たであろう料理レシピのサイト、父さんがよく見る海外ニュースサイト、そして僕が検索する日々の娯楽たち・・・変わった様子は一見ない。


「・・・どういうこと?」


 僕はよくわからなくなって二人の顔を交互に見る。母さんはさっきから口を押えて暗い顔になっている。一体何があったというのだろう。僕の見えている視界にその原因は見当たらない。


「この『色が見えない』という検索結果はなんだい?」


 父さんは低い声のまま画面を指さした。あっ、と僕は声を漏らす。


「ユウ、色が見えなくなったのかい?」


「いや、そうじゃないよ、ちょっと気になっただけで」


「本当に、色が見えないわけじゃないんだね?」


 父さんの目が血走っているように見えて、恐怖を感じる。


 なんだか不思議な感覚だった。確かに履歴を消し忘れていたのは失敗だったが、心のどこかでバレても大丈夫だと思っていた。『色が見えない』と検索したからと言って、実際に検索者がその症状になっていると考えるのは無理があると思ったからだ。現に僕の日常生活に支障は今の所なかったし、怪しまれる要素はなかったはずだ。どうして、そこまで疑うのか不可解だった。もし仮にネットで検索されるような症状なら素直に親に相談できたかもしれない。けれど、この瞬間の両親の顔つき、雰囲気、口調に違和感を覚えた僕はこの秘密を隠し通すことにした。


「ほんとに違うってば。眠いからもう寝るね」


 僕は目をこすって眠い演技をしてその場を去ろうとした。


「ユウ、色が見えなくなったらすぐに言うのよ。分かった?」


 それまで黙っていた母さんが擦り切れるような声で僕に告げた。良く分からない

という印象を与えるための「うーん」という声だけを発して僕は自室に戻った。


 ――何かがおかしい。


 僕の心にまた不安の暗雲が立ち込めていた。


***


 一夜明けて、朝食の席に着くと昨日の暗くやつれたような母さんの姿はなく、いつもの元気で明るい母さんがそこにいた。今日の朝ご飯はトーストとスクランブルエッグ、サラダだ。色味はないが、形でモノを判別するのには慣れてきていた。


「今日の授業はなんだったかしら?」


「国語だったと思う。来ても来なくてもいいよ」


「もう、またそんな可愛げないこといって。お母さんは見に行きますからね」


 今日は日曜だというのに何故か参観日の特別授業が予定されていた。せっかくの日曜日にどうして学校に行かなければならないのか、トーストにかじりつきながら不条理を嘆く。


 それに――普通に会話してはいるが、昨日の夜の一件があったせいで、僕は少しだけ両親に不信感を抱いていた。昨日のあれは夢だったのかと思うほどに今日の母さんはイキイキとしている。父さんは――もう仕事に行っているようだ。

 モノクロな世界になってから三日目ともなると、なんだかそれに慣れてきていた。信号の判別も今では自分一人で出来る。学校の宿題だって色を聞かれることはない。文字を書いて、周りのみんなに合わせていれば大丈夫。僕はこの自分の開き直り方を自分で褒めてやりたくなった。色が見えない世界でも皆と同じ生活が出来ている自分を誇っていた。


 だが、事件は起きた。


 事件は朝の会が始まるよりも前、ぱらぱらと生徒が登校してくる時間帯に起こった。僕は一足早く教室について本を読んでいた。


「きゃああああああああああああああ」


 突然、校舎中に響き渡るような音量の叫び声がどこからか聞こえてきた。僕はその余りの大きさに座ったまま跳ねてしまった。教室には僕一人、なんだかいてもたってもいられなくて声がしたであろう方に向かっていた。なんだか嫌な予感がした。


 叫び声の後も、その声の持ち主の声はうっすらと響いていた。何かつぶやいているようにも嘆いているようにも聞こえた。僕は一つ一つの教室を見回しながら廊下を進んだ。僕の中学校は一学年四クラス。見つけるのにそんなに時間はかからなかった。


 一人の女子生徒が座り込んでしまっていた。他の生徒はまだ登校していないようで、教室には肩を上下させ、何かを呟き続けるその生徒だけがそこにいた。僕はその後ろ姿に見覚えがあった。


「大丈夫?」


 恐る恐る声をかけた。まだマイと決まったわけじゃない。もしかしたらケガをしているかもしれない、ありとあらゆる可能性を考慮して、そう声を掛けた。


「はぁ、はぁ・・・ユウ?」


 涙目でこちらを見るその女子生徒は安城マイに他ならなかった。


「マイ・・・どうした? 大丈夫?」


 見た所、ケガをしているわけでもない。一体何があったのかと心配しながら彼女の元に寄った。髪は乱れ、制服は着崩れている。


「色が・・・色が・・・」


「色?」


 その瞬間、僕は浮かび上がる仮説を心の中で押しつぶした。


「色が・・・色が・・・」


 気が動転しているのか、僕に抱き着いてきた彼女はそのまま同じ言葉を繰り返していた。


「大丈夫、大丈夫だから。」


 マイの頭をなでながら僕は何の慰めにもならない言葉を掛ける。

 

 一分ほどたっただろうか。荒かった彼女の呼吸は落ち着き、焦点の合っていなかった目もようやく現実にピントを合わせるようになっていた。


「何があったの?マイ」


「色が・・・全部、色がないの・・・」


「・・・」


 沈んでいた仮説がドロドロの沼から上がってくるのを感じた。


「今日朝起きてたら、全部色が無くなってて、学校に来るときも車の中でずっと目を瞑ってたの。学校に来たら、意識がはっきりしたら治るだろうって。でも、それでも色が無くて・・・私・・・私・・・・」


 マイは喋っていくうちに、また呼吸が荒くなり、肩を上下に揺らし始めていた。僕は抱きしめる力を強めた。こんなマイを見るのは幼いころからの記憶を振り返っても初めてだった。


「大丈夫、大丈夫だから・・・」


 僕も同じだよ、と言ってあげれば彼女を元気づけられただろうか。どうだろう。世界に一人だと思っていたら、実は二人いたという事実はどれほど絶望に安寧をもたらすというのだろう。でも実際、僕は心のどこかで安堵してしまっていた。彼女も僕と同じなんだと思って安心した。決して事態が改善されるわけではないけれど、この拭いようのない暗闇の不安から抜け出せたように思ってしまった。

 けれど、それを彼女に伝えはしなかった。彼女に信じてもらえるような証拠を僕は持ち合わせていなかった。彼女の反応が普通だとすれば僕の「モノクロ世界」への適応は異常そのものだ。


 そもそも、彼女と僕が同じ症状だという確証もない。確かめるすべもないのだ。安易に彼女の気持ちを理解したつもりになるのは得策ではないだろう。


「どうしよう、どうしよう私・・・」


 そうこうしているうちに漸く救急箱を持った養護教諭の先生が来た。ケガを考慮して救急箱を持ってきたのだろうが、その箱の中に彼女を治療できるものは望めそうにない。


「大丈夫? 何があったの?」


 若い女性の養護教諭がマイの隣にいる僕に問いかける。


「ええと。彼女、ちょっと気が動転してしまったようで・・・」


 色が見えないと言ったところで誰がそれを信じようか、治療のしようがない。


「先生、私、色が、色が見えないんです!」


 マイはそう強く言い切った。僕はマイを見張った。先生もその言葉に明らかに反応を示していた。


「安城さんあなた・・・」


 先生の顔が急にひきつった。まただ、昨日両親が見せたあの顔。心配している顔ではない、もっとこう、別の・・・忌避したいものに出くわしてしまった時のような・・・。


「先生、私、色が見えません!」


 マイは再度言う。僕は彼女の口を無理やりにでも塞ぐべきだったのかもしれない。


「分かりました。とりあえず安城さん、私と保健室に行きましょう。」


 先生は神妙な面持ちのままマイに肩を貸し、僕に教室に戻るよう促して二人で保健室へと向かっていった。マイは少し安堵したような顔をして「ありがとうございます」と言っていた。先生の顔はずっと固まったままだった。残った僕は徐々に生徒が教室に入ってくる中で一人自分の非力さを痛感していた。



 数分後、保健室から帰ってきたマイは先程のような青ざめた顔ではなく、ほんの少しだけ、いつもの快活さを取り戻した顔つきだった。今日は早退するために荷物を回収しにきたらしい。僕は思い切って彼女に提案することにした。


「マイ、色が見えないって言うの止めた方が良いんじゃないか。」


 僕の直感がそう告げていた。何かがおかしいこの世界で「色が見えない」とハッキリ言ってのける彼女に、誇らしさと共に心配も感じていた。


「え、なんでよ」


「その、なんていうか・・・」


 何かがおかしいなんて、そんな陰謀論みたいなことは言えなかった。


「私が変なこと言ってると思ってる?」


「そういうわけでは・・・」


「じゃあなんでそう言うの?」


 マイの口調が少し荒くなる。もっともなことだ。


「なんというか、うまく言えないけど・・・」


「心配してくれてるんだよね、ありがとう。ごめんね、ちょっとメンタルに来てて」


「僕の方こそ、ごめん。力になれなくて」


「そんなことないよ、私が叫んじゃった時、一番に来てくれたのはユウだった。私、嬉しかったんだよ?」


「安城さん、お迎えがきましたよ」


 廊下の向こうから養護教諭の先生の声が聞こえてくる。


「あ、はーい、行きます。じゃあまたね、ユウ、しっかり休んでくる」


 僕は必死に声を絞り出す。


「マイっ・・・」


「ん?」


「その・・・」


 僕は黙りこくってしまった。言葉が上手く出てこない。そんな僕にマイは優しく語り掛けた。


「私、色が見えないって言ったじゃない? でもね、ユウは違ったの。」


「?」


「ユウには色が見えたの。モノクロじゃなくて、生きているユウが鮮やかに。白馬の王子様っていうのかな。なんでだろね、それこそ幻覚かな?」


 そう言って笑う彼女は無理しているようにも見えた。


「ユウには私の色、見える?」


「・・・僕は・・・」


 答えられなかった。


「ごめん、変だよね、今の忘れて。じゃあ行くね。また」


「・・・また」


 そう言ってマイは、先生と彼女の両親が待つ玄関に駆けていってしまった。

 マイがどこか手の届かない遠くに行ってしまうような、そんな気がした。


 その日の授業参観は滞りなく行われた。僕の母さんも授業を見に来ていた。なぜか職員室が一日中騒がしかったことや、緊急保護者会が開かれたこと以外何も、おかしくはない。僕はそうやって心を落ち着かせた。何も変わったことなんてない。皆と合わせていれば大丈夫。

 ・・・マイは・・・大丈夫だろうか。


 ***


 僕の不安は的中していた。


「安城さんとこの娘さん、今日一杯は診療所で様子をみて、明日都市圏の大きな病院に入院するらしいわ」


 家に帰ってきた母さんは僕にそう告げた。さも当たり前と言わんばかりの顔で、その病状の一切を僕に説明することなく、坦々と。


 ――入院? なんのために? 遠くに行ってしまうのか? いつ帰ってくるんだ? そもそも治るのか?


 僕は疑問と不安でいっぱいになって、日が暮れてしまった時間になって家を飛び出していた。制服を着たまま、所持品も何もない状態でただ走った。僕が住んでいる地域は田舎だ。皆が通う診療所は一つしかない。そこめがけてひたすらに走った。5キロメートルほどの道のりを、帰宅部の足で絡ませながら、それでも走った。汗をまき散らしながら、負の感情を振り切るように走り続けた。


 診療所には電気が付いていた。いつもは老人しか通っていないような診療所のはずなのに、なんだか駐車場には車がいつもより多く停まっているようにも見える。息を切らし、へとへとになりながら僕は入り口へと向かった。しかし、診療時間はとっくの昔に終わっているらしく、自動ドアは開かなかった。受付の奥に見える白い灯りがマイの存在は教えてくれている気がした。

 僕は診療所の周りを一周した。空いている窓を探した。夏前のこの時期であるならば一つくらい空いている窓があってもおかしくないと思ったからだ。

 だが、窓は全て閉まり切っていた。カーテンも閉じられて内部はまったくもって見通せない。マイがいるかもわからない。明日には居なくなってしまうマイに会って言葉を伝えることすらできないのか、そう肩を落とした時――


「ユウ?」


 小さな窓がガラリと空いた。そこからマイの顔が覗いた。彼女の顔はまたも青ざめたような、すこし元気のない顔をしていた。


 ***


 マイの手助けによって僕は診療所の中に入ることが出来た。幸いマイの病室は他の病室とは隔離されているところにあるらしく、早々バレることはないとマイは言った。


マイは足をベッドに縛り付けられその自由を奪われていた。一時は腕も縛られていたらしいが、今は緩められているという。


「なんで、こんなことに・・・」


 マイは患者であるはずなのに、なぜこんな拷問のような待遇を受けなければならないのか、心の奥から怒りが沸々と湧いてくる。大人たちへの不信感が怒りへと変わってくる。


「大丈夫だよ、ユウ。私は元気になって帰ってくるから」


「そんな顔して何が大丈夫なんだよ」


 明らかに元気のないやつれた顔をしている。それもそうだ、誰も信じてくれない、自分がおかしくなったと自覚してしまったら人間なんて簡単に壊れるに決まってる。 この数時間で恐らくマイはひたすら否定され続けたのだろう。色が見えないなんてありえない、と。そうに違いない。


「色が見えないって言うの止めなかったんだな」


 咎めるように彼女に言ってしまう。


「うん・・・だって、ホントのことだもん」


「結果がこの処遇じゃ、たまったもんじゃないでしょ」


 嘘をついてしまえばよかった、流されてしまえばよかった。周りに合わせていればこんなことにはなっていなかったはずだ。彼らの「色が見えない」という言葉に対する反応は異常そのものだ。


「これから、マイはどうなるんだ?」


「大きな病院に転院して、精密検査するらしい。ちょっとこわいけど、きっと大丈夫だよ」


「・・・」


 それだけのことなんだろうか。大きな病院に行って治るような症状ならあそこまで大人たちが異常な反応を示す理由は一体何なんだ。何かあるはずだ。手術の成功率が低いとか費用が莫大とか、そんな理由が。


「診療所の先生が居る場所分かる?」


 僕はマイに院長室への道順を尋ねた。彼女は自分がここまで運ばれてきた経緯を思い出しながら、時折辛そうな表情を浮かべ、僕にある程度の地図をノートの切れ端に書いて渡してくれた。手作り感のある地図が絶望渦巻く僕の心を、少しだけ心をほっこりとさせてくれた。


「何しに行くの? 見つかったら大変よ?」


「大丈夫。ちょっと様子を見てくるだけ」


 怒りの余り、殴りこんでしまうかもしれない、けれど、今はそれよりマイの情報を仕入れるのが優先事項だった。


 地図を頼りに、忍び足で診療所を進んでいく。年季の入った検査装置や装飾が少しだけ恐怖を煽った。暗い受付を壁伝いに進んでいくと、その先の部屋から光が漏れているのが見えた、なるほど、確かにマイが居た部屋からはだいぶ遠い。道理で物音や話し声で気づかれなかったわけだ。

 だが、ここでも見つかるわけにはいかない。彼らからすればマイに会いに来ている僕も監禁対象になる可能性があった。真意がつかめていない以上、安易な接触は控えなければならない。部屋の前まで息をひそめてたどり着き、扉の隙間から中を伺った。老朽化しているお陰で扉は完璧にしまってはいなかった。


「―――――」


「――――――――――!」


 ・・・何かを喋っている・・・もっと耳を澄まそう。


「ですから、この診療所で出来ることはもう何もないと先ほどから言っているではないですか」


「だが・・・あんたらのしようとしていることは本当に治療なのかね?」


 部屋の中には白衣のおじいさんと、それを取り囲む黒スーツの男が三人立っていた。おじいさんに詰め寄っているようにも見える。


「あなたのような医者の端くれにお伝えすることは何もありません」


「せめて、彼女と彼女の家族が納得するよう説明するのが医療に従事する者の務めではないのかね」


 白衣のおじいさんが少し声を荒げた。


「私たちは医療ではなく、国家の安全を守る責務がありますので」


「あんたらのしようとしていることは隠蔽でしかない。この先も同じ症状の子たちが現れるたびに存在ごと消して有耶無耶にしようというのか?」


「必要とあらば」


「そんなことを世間が許すわけがなかろう!人を何だと思っとるんじゃ。」


 一際声が大きくなる。存在を消す・・・? なぜそんな話になってしまうんだ。治療ではなかったのか。


「現に彼女の両親は国家の方針に賛成していただいております。反対しているのはあなたのような老年層のごく一部のみです」


「そもそも事態を知っているのは医療従事者の中でも、事態に直面した院長クラスの一握りのみだからじゃ。金を握らせて黙らそうとしたってワシはそうはいかんぞ」


「彼女の引き渡しには応じてもらえないと、そういうわけですか」


「わしにも医者の矜持がある。人の命を軽んじることはわしの目が届く限り許さん」


「あれだけ乱暴にベッドに括り付けておいていまさら何を」


「・・・あんたらが送り込んできた若い者の癖に、よう言うわい」


「残念です」


 そういうと僕の目の前で信じられないことが起こった。


 喋っていた黒スーツのリーダー格の男が、残りの二人に目配せをしたかと思うと、即座に二人は老人を羽交い絞めにし、口を布で覆った。サスペンスでしかみたことの無い光景が現実に起きていた。その恐怖に足がすくむ。動けなくなる。

 医者のおじいさんも最初は藻掻いていたが、徐々に力は弱まり、最終的に頭を下にぶらんとしてぐったりしてしまった。生きているか死んでいるかも見当がつかない。


 ――マイが危ない。直感だった。


 恐怖ですくむ足を何とか地面から引きはがすように動かす。マイが連れていかれるのは時間の問題だ。彼女を救えるのは僕しかいない。動け、動け。太ももの骨から動かすように僕は前に進む。早く、早くいかないと。


 恐怖ですくんだ足が漸く動き出したころ、院長室から黒スーツ三人がおじいさんを運び出していた。僕はもう走ることに必死だった。途中何かにあたって物音がした気もしたが、それどころではなかった。


「マイ!」


 病室ではマイが驚いた顔で僕を見ている。良かった、まだ無事だ。


「どうしたの?そんな焦って」


「早く出よう、今すぐだ。じゃないと手遅れになる」


 彼らはとにかく危険だ、そういいながら僕はマイの拘束を外そうとした。ベッドに固く結ばれていて簡単にはほどけない。くそっ、くそっ!


「ユウ、ほんとにどうしたの。大丈夫だって、帰ってくるから」


「帰ってくるもんか!」


 僕は叫んでしまっていた。帰ってこれるわけがない。存在を消すって言ったんだ、彼らは。それが何を意味するのか中学生の僕でもわかる。そもそもあんな乱暴な人たちにマイを渡せない。


 マイは死ぬかもしれない。


 だから僕が助けるんだ。

 固く結ばれた拘束具を左足だけ外せた。もうひとつ、もう一つ外せばマイは――


「何をしているのかね?」


 背筋が凍りつくような低い、父さんの声よりももう一際低い声が刺さる。動きを止めてマイを見る。マイの目も恐怖でいっぱいだと分かった。


「この人を助けようと」


 震える声でそう答えた。子供の情けで、世界は変わると心のどこかで思っていた。本気で願えば世界は変えられると、その力があると思っていた。


「健気なもんだね。お友達と別れるのがつらいのか」


 男たちが近づいてくるのが分かる。でも、僕は手を動かし続けた。何かが起こると信じていた。


「大丈夫、お友達は元気になって帰ってくるよ」


 僕はその明確な嘘に腹が立って振り返った。


「―――ッッ」


 絶句した。

 黒、黒、黒。

 真っ黒で漆黒で暗黒。

 黒スーツだからじゃない。この人間自体が真っ黒だ。僕にはそう見えた。

 黒い大きな塊が三つ僕の前に立ちふさがった。あまりにも大きく。声も出ない。


「じゃあ、安城マイさん、行きましょうか」


 僕は言わなければならなかった。「やめろ」と。彼らから彼女を奪い返さねばならなかった。けれど、僕はそれから一歩も動けなくなった。

 マイも言葉ではなく表情で僕に訴えていた。「助けて」と。


 マイを二人の黒が運びだし、残ったリーダー格の黒が僕に言った。


「君はマイさんとはどういった関係? ここに入ってきた所を見ても、ただの友達ではなさそうだけど」


 穏やかな口調で諭すように話すが、確実にそこに恐怖が残っている。


「・・・」


「答えたくないか・・・」


「・・・」


 黙っていることだけが、僕に出来る唯一の反抗だった。


「ところで君は、色が見えるかい?」


 酷く顔を歪ませる黒。

 僕は心臓をわしづかみにされた気がした。これだ、この言葉だ。

 僕は、黙り続けた。


「色が見えないときは遠慮なく言うんだよ?早めに治せばすぐに友達の元に帰ってこれるからね」


 見え透いた嘘に僕は握りこぶしを作った。僕に力があって、背が大きければこんなやつ・・・


「それじゃあ、おじさんたちはマイさんをつれていくから、君も早くおうちに帰りなさい。親御さんも心配しているはずだからね」


 そういって、大きな黒は診療所を出て、マイを載せた車と一緒に走り去っていった。

 また、僕には何もできなかった。蛍光灯がチカつきだして、白と黒を交互に作った。


 ***


 診療所からの帰り際。いつもと同じで、モノクロなだけの世界がもう遠くに見えていた。非現実から現実に戻ってきたはずなのに、大きな喪失感と受け入れられない現実が目の前に広がる。目は虚ろ、歩くことしか出来ない。家に帰らなければ僕は生きられないから。超人無敵のヒーローではないから。その絶望だけを背負っていた。


 マイ・・・ごめん・・・


 心の中でひたすら繰り返した。彼女を永遠に失ってしまった。僕はなにをしてるんだ。彼女を救えなかった。


 刹那――


 クラクションと共に白光が目を覆った。


「あぶねえだろ! 気を付けろよ!」


 そう言って真っ黒なスポーツカーの運転手はまた走り出した。

 僕は間一髪のところで道路の脇に引き寄せられた。どうやら車道にはみ出てしまっていたらしい。


「まったく、あんなスピード出しているからギリギリまで歩行者に気付かないんだろうに。困ったもんだね、ああいう若いのは」


「・・・おばあちゃん」


 隣のおばあちゃんが僕の命を救ってくれていたらしい。ただ、その感動は少なかった。僕の人生は絶望一色だ。


「ユウ君、ぼーっとしてたみたいだけど、元気無さそうだね。お母さんには内緒でウチによっていかないかい?」


 僕はなされるまま、おばあちゃんの家に上がり込んだ。


 二日前、僕の世界が色を失った日、おばあちゃんの庭に来たのを思い出した。


「ユウ君。お茶でいいかい?」


「・・・ありがとうございます。」


 ぶっきらぼうな態度でお礼を言うことに罪悪感はあったが心の芯から僕は冷え切っていた。

 おばあちゃんは庭が見える縁側に机と椅子を出して腰かけるよう促してくれた。僕はその手順をなぞる。


「マイちゃんがこの町を出たってのは聞いたよ」


 僕はハッとする。マイ・・・そうだ。マイを助けなきゃ。

 立ち上がろうとする僕をおばあちゃんはなだめた。


「気持ちはわかるけど、落ち着きな。いまからじゃ追いつけないよ」


 僕はやっと意識が戻ってくるのを感じた。お茶の味がする。目の前の景色に、おばあちゃんに漸く意識が向かう。


「・・・その、すみません」


「何を謝ってるんだい、大丈夫だよ」


 おばあちゃんはお茶を啜った。二日目のようなエプロン姿ではなく、今日はマダムのような恰好をしていた。模様だけが黒で認識できた。


「あの、マイのこと・・・」


「ユウ君がよく遊んでた子だろ。噂を聞いて、何かあったんじゃないかと思って家先で待ってたら轢かれそうになってるユウ君ときた。・・・驚いたよ。何があったんだい」


 昔は良くおばあちゃんもマイの家族も呼んでバーベキューをしてたような気がする。いつからかめっきりそういった近所づきあいはなくなったけれど。


 僕は僕が見たありのままを、僕が「色の見えない」ことは伏せて、しどろもどろになりながら伝えた。おばあちゃんは静かに聞いていた。


 話を聞き終えたおばあちゃんは、


「そうかい。大変だったね」


 それだけ言ってまたお茶を啜った。


「で、これからどうするんだい?」


 おばあちゃんは深刻そうな顔で僕を見た。


 どうするか、なんて分からない。どうしたらいいか分からない。大切な人を失ってしまったことでそれどころではない。


 黙っている僕に呆れたのか、おばあちゃんはお茶を啜って別の質問をしてきた。


「んで結局、ユウ君は今、色が見えてるのかい?」


 強烈な記憶が僕の脳にフラッシュバックする。大きな黒が押し寄せてきたあの瞬間が。おばあちゃんは僕をどうするつもりなんだ。思考が先を行き過ぎて言葉は出なかった。それは答えを出しているようなものだった。


「いや、この質問は野暮だね。忘れとくれ」


 そう言っておばあちゃんは再再度、お茶を啜る。僕をどうにかしてやろうとは思っていないらしい。


「結局さ、都合の悪いことを大人たちは別の色で塗りつぶしちゃうのさ。真っ黒にね」


 庭の植物たちを遠い目で見るように、おばあさんは僕にしゃべりかけた。


「でも、塗りつぶされたって、その色に染まる必要はないんだ。下地に残ってる色は決して消えやしない」


 おばあちゃんがなにを言おうとしているのかよくわからなかった。下地・・・僕の下地とはなんなんだ。


「あなたが白に見えたなら、それが白色でもいいの、赤色でもいい、青色でも、黄色でも。周りの人間に合わせてあなたの色を決めなくてもいいわ。あなたの人生はあなたにしか彩れないからね」

「だから、ユウ君は今の気持ちを忘れちゃだめだよ」

「世の不合理不条理を、声を大にして叫べばいいの。大きな闇に押しつぶされそうになるかもしれない。けれど、それがあなたの望む道なら、目指す世界なら、あなたは立ち止まってはいけない。」

「だから、今は耐えなさい。つらいかもしれないけれど、大きく咲くための準備期間だと思って耐え忍ぶの」


「もしどうしても前に進めなくなったら、またここに戻っておいで。いつでもおばあさんは歓迎しますよ」


 お茶を合間に啜りながら、おばあちゃんは坦々と続けた。もっと他にも何か、それこそ植物の知識を教えてくれていた気もしたが、よく覚えていない。僕は、そのひとつひとつに頷き続けることしか出来なかった。


 最後におばあちゃんは


「さて、何の花の苗が欲しい?」


 いつものおばあちゃんの微笑が僕にほんの少しの希望をくれた。


 それからも日々は歯車のように回り続けた。


 ***


 あれから五年が経った。僕は成人した。あの件以降も突如として中学生が都市圏に入院するという事例は起こり続けた。僕の調査によると、年々その数は増えている。都市圏に運ばれた人たちがどうなっているのか、それを知る術はなかった。あの手紙に、返信が来るまでは。


 『僕/私の世界に色はない』


 僕はありとあらゆるネットワークサービスを使い、同志を募った。マイノリティーである自分を認めることにした。彼女がしたように。日々匿名の同志が着実に増えてきている。「世界から色が消える現象」としてこの件は公にすべきだというのが僕の考えだ。

 何か、この症状には秘密があるはずだ。国が隠そうとするほどの、何か重大な秘密が。そしてその秘密を明らかにしないことには、誰も救われない。

 今になってそんなことをしたって意味はないかもしれない。彼女は救えないかもしれない。けれど、彼女を救える可能性は0ではないはずだ。なら、行動するしかなかった。


 相変わらず僕の視界はモノクロな世界だけど、彼女と過ごした時間は確かに生きていて鮮やかに残っている。


 自分であることを捨ててまで、僕は皆と一緒に居たいわけじゃない。君の隣に居られれば、それでよかった。もう遅いかもしれないけれど、叶わないことは分かっているけれど、それでも僕はもう一度見たいと願ってしまうんだ。


 君と、君の色彩を。







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