Epilogue.蒼天

二人、平たい地面の上で

 抜けるような青空が広がっている。

 日差しは強く、セカンドトリスはまるで春が来たような陽気に包まれていた。

 ベリアルは、パラダイス・ロストの屋上にいた。

 黒と赤のパラソルを差し、デッキチェアに寝そべって、優雅な昼下がりを過ごしている。


「……ここまで無防備でも、誰も殺しにこない。地獄ではありえないな」


 呟きつつ、何本目かのコーラの瓶を開ける。

 そうして瓶に口を付けようとしたが、それは天使の手によって妨げられた。


「――それで? 地獄側の対応は?」


 デッキチェアの側に立ち、冷えたコーラを手にしたラジエルが見下ろしてくる。

 ベリアルはけだるい表情のまま、テーブルからヘルフォンを取った。


「アザゼルを向こうに送った。あいつをどうするかは魔王次第だね」

「てっきり殺したのかと思ったけど」

「そりゃひと思いに殺してやりたかったよ。でも、あんな大物を簡単に殺すのは立場上許されないものでね。それに、あいつはいろいろと有益だ」


 片手でヘルフォンをいじりながら、ベリアルは肩をすくめる。


「他のエグリゴリの顛末、天界と接触した方法に、あのクリーチャーの製法……他にも使えそうな情報が目白押しだ。――だから、この通り」


 ベリアルは、ヘルフォンに映ったある画像をラジエルに見せた。

 まず、山羊の頭部を思わせる形をした灰色の霊素核が目を引く。それは発泡スチロールの箱に詰められ、何故か大量の氷の中に埋もれていた。

 そしてそれを見下ろし、得意げに笑うベリアルの自取り。

 画像には人間の言語でこう書いてあった――『霊素核冷凍したったWWWW』


「アザゼルの霊素核を摘出し、然るべき方法で封印。それをとりあえず冷凍し、昨晩クール地獄宅急便で万魔殿宛てに送った。今頃はルシファーがレンジで解凍してると思う」

「……冷凍する意味あったの?」

「生ものじゃないか」

「そういう観点はなかったわ……」


 ラジエルはこめかみを押さえ、深くため息を吐いた。

 その隙に、彼女が持ったままのコーラにベリアルはそろそろと手を伸ばす。


「――それで?」


 しかし、コーラは遠ざけられた。

 わずかに眉を寄せるベリアルに対し、ラジエルは首を傾げる。


「貴女はこれから、どうするの?」

「どうする、ねぇ……」


 ひとまずはデッキチェアに寝そべり、ベリアルはキャンディのケースを取り出した。

 先日は空っぽだったそれには、赤いキャンディが満たされている。

 ルシファーが地獄からわざわざ送りつけてきたものだ。それを開けるでもなく、かしゃかしゃと振りながら、ベリアルはぼんやりと空を見上げた。


「君こそ一体どうするんだ?」

「しばらくは地上で過ごすことになりそうだわ。こんな体じゃ天界に戻るのは難しいし、戻ったところで出来る事は少ない……」


 ラジエルは渋い表情で軽く顎を揺らし、自分の背中を示して見せた。

 翼は――失われたままだった。


「もしかしたらラファエル様が……神とともに至高天へと去った天使の誰かが、手を差し伸べてくれるかもしれない。でも、それがいつになるかは……」


 ぎこちなく肩を回すラジエルをよそに、ベリアルはキャンディを一粒だけ口に運んだ。


「じゃ、私も地上にいる」

「……何故?」

「なんだ、忘れたのかい?」


 デッキチェアから立ち上がり、ベリアルはラジエルを見下ろす。

 無意識にか後ずさりする彼女を緑の瞳に映し、虚無の悪魔はいびつに笑った。


「君は私のペットだぞ? 勝手な行動は許さない」

「……じゃあ貴女、私が天界に帰ると言ったらどうするつもりだったの?」

「地獄に落とす。どんな手段を使っても」

「……あれだけいろいろなことがあったのに、それでも変わらないのね」

「そんなに簡単に変わるわけがないじゃないか。何兆年、悪魔をやってると思ってるの?」


 こめかみを抑えるラジエルに、ベリアルは涼しい顔で肩をすくめる。


「それにさ、君……私を再教育するんだろう?」


 その言葉に、ラジエルは動きを止める。

 腰の後ろに手を回し、ベリアルはにんまりと笑う。

 それはいつものうつろな笑みではない――いたずらっ子のような微笑だった。


「私を監視して、観察して、再教育する……途中で投げ出していいの? 先生ちゃん?」


 にやにやと笑うベリアルを前にして、ラジエルはこめかみを抑える。

 その唇が、緩やかな弧を描いた。


「……教え甲斐があるわね」


 晴れ渡る冬空と、セカンドトリスの街並みを背にして、ラジエルは勝気に微笑む。

 光輪もなく、翼もない。

 きっと誰も、彼女を地上に落ちてきた天使だとは思わないだろう。

 けれども陽光に煌めく青い瞳は、いかなる宝玉よりも――星よりも美しい。

 その瞳は、まぎれもなく神秘と叡智の天使のそれだった。


「貴女を教えて、導く――堕天使にもう一度善性を与えることができるか、興味があるわ」

「善性……ぞっとしないね。ま、やれるものならやってみなよ」


 ラジエルは笑みを深めると、さっきから持ったままだったコーラを差し出してきた。

 それを受け取り、ベリアルはすっかりぬるくなったコーラに口をつける。

 そして少し考えるそぶりを見せたあとで、飲みかけのそれをラジエルへと突き出した。


「――私は必ず君を地獄に落とす」 


 誓いめいた言葉を添えて。

 それをラジエルは静かな表情で聞き届けて、コーラを受け取った。


「――私は必ず貴女を天に還す」


 ささやき、天使はコーラに口をつける。

 そして、派手にむせた。どうやら、炭酸飲料を口にするのは初めてだったらしい。

 仰天の表情でコーラを見つめるラジエルに、ベリアルはたまらず吹き出す。


「ああ……愉快だ」


 抜けるように青い空の下――平らな地面の上。

 悪魔は至極満足げに、いまだ呆然としている天使の頭を軽く撫でてやったのだった。


              Fin

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レクチャー・フォー・デビル 伏見七尾 @Diana_220

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