雨乞いの火種

倉井さとり

雨乞いの火種

 アザミは校舎こうしゃ廊下ろうかを走っていた。何故なぜか? 犯人はんにんつかまえるためだ。あともう少しで手がとどくというところで、そこからどうしても距離きょりめることができずにいた。


「こら! 廊下ろうかはゆっくり走れ!」


 突然、アザミはうしろから声をかけられる。生活指導せいかつしどうの先生だ。

(うるさいなあ! それにゆっくり走れってなんだよ!)とアザミは、心のなかさけびつつも走るのをやめた。こんなことで内申ないしんひびいたらたまらない。さいわいなことに、犯人はんにんも足をとめた。


「いいか廊下ろうかは走るなよ」


 先生はゆっくりとのたまい、そのを立ち去った。いつもなら長いお説教せっきょうが始まるところだか、おそらく、言い間違いがずかしかったのかもしれない。


かえしな」


 アザミは犯人はんにんへ手をし出す。


「わかったってぇ~」


 犯人はんにんもとい、――スミレはいきを切らしながらも、いつものように、語尾ごびばしたあまったるい声で言った。


 血をけた、双子ふたごいもうと。アザミと同じ顔がそこにあった。2人は一卵性いちらんせいなかでも、とくに顔がていた。かがみうつる自身と、片割かたわれとの見分みわけがつかないだろうというくらいに。

 アザミの髪留かみどめをしている今のスミレの姿は、アザミよりもアザミらしかった。

 スミレはかみをほどき、髪止かみどめをおずおずとアザミにし出した。


書類しょるいもあんだろ」


 ひったくるように髪止きみどめを受け取りながら、アザミは言った。


「わかったよぉー。ていうか書類しょるいってぇ……」


(昔はこんなしゃべり方じゃなかったのに……)とアザミは、小さい頃のスミレを思い浮かべた。すると自然といかりがおさまった。

 スミレは悪びれもせずに「せっかくの親切しんせつを~」と言いながら、ふところから封筒ふうとうを取り出し、アザミにし出した。


「小さな親切しんせつおおきな大々だいだい大迷惑だいめいわく!」


 アザミは怒鳴どなりながら、封筒ふうとうを受け取る。


「もう、大きい声出さないでぇ。ふふ、でもぉ今どきラブレターなんてね~」


わるい?」


「ううん~。でもふるいよねぇ」


「せめて古風こふうと言ってよ」


古風こふうぅ」


「……」


奥行おくゆきありすぎだよ~」


おくゆかしいの間違いでしょ?」


「まぁ、どっちもたようなもんだよぉ。早くわたせばいいのにぃー」


「うるさいな」


 いきくようにアザミは言った。


いとしの雨野あまのクンにさぁー」


「自分のタイミングってもんがあるの」


 アザミは思った、スミレの言うとおりではあると。アザミはここ1年のあいだ雨野あまのという同学年の生徒せいと好意こういいだいていた。かと言って、なにか行動を起こしたことは、今まで一度もなかった。片想かたおもいのままでいいなんて思わない、ただ勇気ゆうきがなかったからだ。


 アザミにとってこれがはじめてのこいだった。


 きっかけは些細ささいなことで、それは人違ひとちがいだった。つまりスミレと間違われ、声をかけられたのだ。 

 雨野あまのとスミレは図書委員としょいいん所属しょぞくしていた。

 スミレは普段ふだんほんなどまったく読まない。なのに何故なぜ図書委員としょいいんになったかといえば、ただらくそうだったからだ。


 アザミたちの高校は生徒数せいとすうがあまり多くなかった。それなのに委員会いいんかい役割やくわり豊富ほうふにあった。おそらく、生徒数せいとすうが多かった頃の名残なごりなのだろう、生徒せいととしてはたまったものじゃない。


 役割やくわりなかには面倒めんどうなものも多い。だからスミレは、読書好どくしょずきのクラスメイトを退けて、図書委員としょいいんになった。スミレは昔からあまり他人たにんのことを考えないたちだった。これまで、ずいぶん非難ひなんもされたが、スミレはそのすべてをなあなあでおさめてしまうのだ。そうまでして図書委員としょいいんになったスミレだが、真面目まじめ役割やくわりげてはいなかった。サボることもよくある。だから雨野あまのはいつも、スミレにこまらされていた。


 ある時、アザミが廊下ろうかを歩いていると、突然、うしろから雨野あまのに、肩を少し乱暴らんぼうに引かれた。

 雨野あまのおこっていたし、当然アザミも頭に血がのぼった。2人で言い合いをし、やがて雨野あまの勘違かんちがいだとわかり、そして2人であやまり合い、笑いあった。


 それから、廊下ろうかで顔を合わせれば話をするなかになった。今では図書室としょしつあそびにくこともある。

 いつから雨野あまのを好きになったか、アザミにも分からなかった。しゃべるうちなのか、スミレの文句もんくを言い合ううちなのか、あるいははじめからだったのか。


 そのうちにスミレもアザミの恋心こいごころに気がつき、その背中を押し始めた。

 今回のように強引ごういん手段しゅだんを使ったりして。

 スミレは昔からよく、アザミを出しき、もの権利けんりうばったりした。だから最初、アザミは思った。スミレは雨野あまのうばうつもりなのだと。しかしどうやらそういうわけではないようだった。スミレはスミレで、別の相手にこいをして振られたり、を繰り返していた。


 しかし、スミレが誰かのためになにかをするなんて、アザミには信じられなかった。直接ちょくせつめたこともあった。本当は、雨野あまの横取よこどりする気じゃないのかと。するとスミレはこう答えた。


 ――えぇ~、タイプじゃないよ~、堅物かたぶつだしさぁ~――


 スミレはどちらかというと、ノリの軽い男がこのみのようだった。確かに雨野あまのは、スミレのタイプとは正反対せいはんたいに思えた。しかしアザミは、スミレの行為こうい違和感いわかんぬぐうことがどうしてもできなかった。


頑固がんこだなぁー」


 スミレが言った。廊下ろうかかべに背中をあずけ、かみを指にきつけてもてあそびながら。


 アザミは、視界しかいすみなにか動いたように感じ、まどの外に目をうつした。陽射ひざしが強く、遠くの景色けしきれている。校庭こうていでは、陽光ようこうなか、1人の男子生徒だんしせいとが歩いていた。アザミは男子生徒だんしせいとを目で追った。どうやら、アザミの知らない生徒せいとのようだった。アザミはスミレに視線しせんを戻す。スミレは、じっとアザミの顔を見ながら、笑っていた。かべに背中をあずけたまま、腕をみ、頭を軽くゆらゆららしながら。


なによ」


「べっつにぃー」


 スミレはへらへらとした態度たいどで言う。そして、かべから体を離し、そのを立ち去ろうとする。


「それと今日きょう当番とうばんでしょ」


 スミレは今日きょう図書当番としょとうばんたっていた。アザミはそれを、雨野あまのから聞いて知っていた。


「そうだっけー?」


(おぼえてるくせに……)アザミはそう心のなかつぶやいた。

 スミレは勉学べんがく成績せいせきは良くなかったが、頭は悪くなかった。特に記憶力きおくりょくはすこぶる良かった。アザミにしてみれば異常いじょうとも思えるほどに。


わすれずに行きなよ。こないだだって……」


「思うんだよねぇ~わたし、当番とうばんなんか必要ないってぇ」


「ちょっと、なにひらなおってんのよ」


「まぁ聞きなってぇー。ほんにバーコード付けてさ、読み取り設置せっちすればいいんだよぉー。無人化むじんかしちゃえばいいのにねぇ」


返却へんきゃくはどうすんの?」


「そこは自分でたなに戻してもらうわけよー。自己責任じこせきにんでねぇ」


「みんな、ちゃんと戻さないんじゃない?」


「わたしは、そこがおかしいと思うわけよー。無料むりょうりておいて、かたづけは他人たにんにやらせるなんてさぁ~。それくらい自分でやればいいのに~」


「……」


 アザミは反論はんろんしようと思ったが、言葉が見つからなかった。


「自分は楽しむだけ楽しんで、読みわったら他人任たにんまかせだもんねぇー。どうかと思うなぁー学校なのにぃ」


「だからって、あんたがサボっていい理由りゆうにはならないよ」


 アザミは少し語気ごきを強め言った。


「そうかなぁ? 理由りゆうってそういうものだと、わたしは思うけどねぇ」


 ぎゃくにスミレは力をきながら言葉を返した。アザミは別に、スミレの言うことすべてに否定的ひていてきというわけではなかった。ただ、雨野あまのの優しさに付け込むのがゆるせなかったのだ。


「あんたのサボりだって同じことでしょう」


「わかってないなぁー」


なにがよ」


自覚的じかくてきいなかってことがぁ問題もんだいなのぉ」


「そんなの……」


 アザミが言い返そうとした瞬間、スミレはきゅうに走り出した。


「ちょっと! まだ話はっ……!」


 アザミも、スミレをつかまえようと、脚に力を込める。がすぐに出端ではなくじかれてしまう。

 スミレはくるっと一回転いっかいてんしながら、アザミに向かってなにかをほうり投げた。アザミは不意ふいをつかれバランスをくずしながらも、そのなにかを片手かたてでキャッチした。見るとそれは、なにかのかぎのようだった。


「それ、雨野あまのクンにわたしておいてねぇ、わたし体調たいちょう悪くて早退そうたいするからさぁ~」


 スミレは、アザミにおとう気も起こさせないほどの全力疾走ぜんりょくしっそうで、見る見る遠ざかっていく。

(なにが体調たいちょう悪くてだ……)アザミはあきれて、めまいすら起こしそうだった。

 アザミは、スミレの後ろ姿に目をらした。あのうしろ姿は、どれくらい私にているのだろうかと考えながら。


 学校の人間――教員きょういんたちは少しあやしいが――アザミとスミレがどういう人間であるか、ある程度ていど理解りかいしていた。


 だから、スミレがどんなに突飛とっぴなことをしても、アザミだと勘違かんちがいする人間はいない。しかし、うわさだけはいつもアザミを取りいていた。あるいは、もしかしたら、あれはアザミだったんじゃないか、というように。同じ顔の人間がやることだから、どうしてもまわりの人間には、スミレの行動こうどう強烈きょうれつなイメージがえつけられる。特に、クラスや学年の違う生徒せいとたちには、それが顕著けんちょだ。


 見も知らぬ生徒せいとから好奇こうきの目を向けられ、ときにはあからさまに噂話うわさばなしをされた。

 アザミにはそれが――れているとはいえ――不快ふかいだった。スミレの、あの不遜ふそんみで、四六時中しろくじちゅうはやし立てられているようで。


 アザミは、かぎに付けられたタグに目を落とした。そこには『書庫しょこ』と書かれていた。


 放課後ほうかごになり、アザミは雨野あまののクラスに向かった。


雨野あまのくん」


 アザミは、自分のせきかえ支度じたくをする雨野あまのに、声をかけた。


「ス、どうしたの、アザミさん」


 雨野あまの視線しせんがアザミの髪留かみどめに向けられる。


「……申し訳ないんだけど、当番とうばんわってくれない?」


 言いながらアザミは書庫しょこかぎかかげた。


「また、早退そうたい?」


「うん、ごめん……」


「きみがあやまることじゃないよ」


 雨野あまのは笑いながら言った。自分のことのように言うアザミが可笑おかしかったし、雨野あまの自身、こんなことは日常茶飯事にちじょうさはんじだったからだ。


当番とうばんきらいじゃないしさ」


 実際じっさい雨野あまのは、図書室としょしつの空気が好きだったし、読書はもちろん、本棚ほんだなならほんながめているだけで幸せを感じるのだった。


「いつもごめんね」


「だからあやまらなくていいのに」


 あやまるアザミに、それをさえぎ雨野あまの、それが、2人のいつものやり取りだったし、お約束やくそくのようになっていた。


図書室としょしつで話さない? おちゃぐらいなら出せるしさ」


 雨野あまのは言った。


「うん、くよ」


 アザミには言葉をはっした感覚がなかった。まるで、言葉が自然とこぼれたように感じた。こうしてスミレのことで平謝ひらあやまりを続けるのも、雨野あまのと話をするための口実こうじつのようなものだった。


 図書室としょしつはいつもしんとしていた。生徒数せいとすうが少ないのもあるが、最近、近くに、市営しえいの大きな図書館としょかん設立せつりつしたため、図書室としょしつ利用者りようしゃっていた。


 雨野あまの司書室ししょしつでおちゃれ、それにお茶請ちゃうけも準備じゅんびした。この図書室としょしつ司書ししょ教諭きょうゆではなかったから、生徒せいとにとやかく言うことはなかった。そのてん雨野あまのはいたく気に入っていた。

 かたりと音を立てて、雨野あまのは受付のカウンターにおぼんを置いた。


「ありがと」


 と言ってアザミは、頭を軽くげた。

 2人はいつも、受付のカウンターにならんですわり、少し横目で話をした。受付のまえすわるわけにもいかないし、なにより、向かい合って話すよりも話しやすかったのだ。アザミも、そして雨野あめのも。


 放課後ほうかごだというのにまだ明るくて、夕方という感じがしない。まどから、どこかの運動部うんどうぶの掛け声が聞こえた。そのさわがしいはずの声が、何故なぜか遠くに感じられた。せみの鳴き声はさらに遠い。


「そういえばさ」


 雨野あめの遠慮えんりょがちに言った。


なに?」


 アザミも遠慮えんりょがちに答える。


「少し前にスミレさんがさ、きみの振りして話しかけて来たんだ」


「えっ? スミレなにか変なこと言わなかった?」


 アザミはあせり、早口になる。


「変ってほどじゃないけど……」


「けど?」


 雨野あまのが答えようとした時、1人の女子生徒じょしせいと図書室としょしつに入ってきた。女子生徒じょしせいとほん返却へんきゃくをすませると、熱心ねっしんほんながめながら、あれこれとほんき出して、立ち読みをし始めた。


「あの子はホラーが好きなんだよ」


 と雨野あまのは、アザミにささやいた。

(どうでもいい情報じょうほうだなぁ……)とアザミは思った。

 雨野あまのはいつもそうやって、図書室としょしつ利用者りようしゃ趣味しゅみをアザミに語って聞かせた。そのときの雨野あまのは、どこかきして見えた。アザミには少し悪趣味あくしゅみなように感じられたが、雨野あまのが楽しそうなので、いつもおとなしく耳をかたむけていた。


「ふーん。見掛けにらないね」


「そうなんだよ。あんなに快活かいかつそうなのに」


 雨野あまのは嬉しそうに言った。


「しかも、結構けっこうエグいのばかりりていくんだよ」


「エグいって?」


「血みどろなスプラッターとか」


「いい趣味しゅみしてるね」


 アザミは言ったが、それはどちらかというとあの生徒せいとたいしてというよりも、雨野あまのに向けた言葉だった。


「確かにね」


「ホントにね。それで?」


「えっ?」


「だから、スミレの話」


「ああ、そうだった」


 雨野あまのは少し笑い、切り出そうとするが、すぐにまた口をつぐんでしまう。


「どうしたの?」


「……うん……それが、『私のどんな表情ひょうじょうが好き?』って聞かれた」


「なにそれ」


 アザミは思わずとげのある声を出してしまう。


「いや、僕に言われても……」


「ああ、ごめんね。つい……」


 身内みうちのおかしな言動げんどうを、アザミは寒気さむけを感じるほどずかしく思った。


「ううん。それにしても悪戯いたずらが好きだよね。スミレさん」


「ごめんね、きつく言っておくから」


「ああ、いいよ別に。おこらないであげて」


 と言って雨野あまの微笑ほほえんだ。

 それを見た途端とたん、アザミは自分のいかりが消えていくのがはっきりと分かった。少ししゃくに感じるが、こればかりはどうしようもない。雨野あまのには、そういうところがあった。そこにいるだけでの空気をなごませてしまう、雰囲気ふんいきのようなものといえばいいのか。だから、笑いかけられでもしたら、もうどうしようもないのだ。

 その拍子ひょうしにアザミは、自分で意図いとしない言葉をはっしてしまう。


「それでなんて答えたの?」


 出してしまった言葉はもう戻せない。アザミは平静へいせいよそおうが、ずかしさに体が熱くなるのを感じていた。


「ん、あ、……いや、ほらすぐにスミレさんだって分かったから、誤魔化ごまかしたよ……」


「そう……」


 雨野あまの返答へんとうのしどろもどろになにかを感じ、アザミはなおずかしく思うのだった。

 しばしのあいだ、気まずさに2人は沈黙ちんもくした。

 それをやぶったのは、雨野あまのの、いきにもた小さな息遣いきづかいだった。


 アザミはほんのわずいかりを感じた。どうしていきくのを聞くだけで、こんなに心がなごんでしまうのかと。


「おちゃなおしてくるね」


「あ、……うんうん、ありがとう……お願いします」


 どうして敬語けいご、とアザミは自分にあきれる。アザミはひとり、お茶請ちゃうけをポリポリと食べた。軽い食感しょっかん菓子かしは、ほんのり甘く、何故なぜだかスミレの顔が思い浮かんだ。


 それから1週間後しゅうかんご、アザミはまた放課後ほうかご図書室としょしつで、雨野あまのと話す機会きかいた。れいによってスミレのサボりのためだ。


 いつも2人の話題わだい中心ちゅうしんはスミレだった。アザミはそれを少し不満ふまんに感じていたが、雨野あまのと話ができるだけでよかったし、最近は少しずつ、スミレにらない2人だけの会話もえていた。なのに、何故なぜか、今日きょう雨野あまのは、スミレの話ばかりした。それも、どこか、ねつっぽく。あんなになごんだ雨野あまのの声を聞いても、アザミはどうしてか焦燥しょうそうを感じるばかりだった。

 雨野あまのはまるで、なにかの種明たねあかしでもするかのように得意とくいげに、あることを語り出した。


 美術びじゅつの時間――雨野あまのとスミレは選択科目せんたくかもくで同じ美術びじゅつえらんでいた――のこと、スミレのえがいた絵の上手うまさに、先生までもふくめ、そのにいた全員の人間がおどろいたのだと。


 アザミにとってもそれは初耳はつみみだった、スミレに絵の才能さいのうがあったなんて。一瞬いっしゅんおどろくが、それはすぐに消える。スミレには昔からそういうところがあった。正直、双子ふたごであるのが不思議なほどアザミにくらべ、スミレは優秀ゆうしゅう多芸たげいだった。しかしスミレは、それを人前ひとまえに出さない。できない振りをするのだ。それだけならいい、でも、スミレは違う……笑うのだ。本当は自分にはできるのだということを。そして、できない周囲しゅういを。


「僕、絵のことはよく分からないけど、……なんだかすごくかれたよ」


 それを言う雨野あまのの顔は大人おとなびていて、アザミは何故なぜだか背筋せすじわずかに寒くなった。


 アザミは雨野あまのとのおしゃべりをえたあと美術室びじゅつしつに向かった。日が長いとはいえ、もうあたりは暗くなっていた。

(なにしてるんだろう私)心のなかつぶやく言葉さえ、どうしてか、すさんでいた。


 暗い階段かいだん一段いちだんのぼたびみじめさがつのった。なんでわざわざ向かいの校舎こうしゃまで。もうこんなに暗いのに。さっきあんなにしゃべったのに、雨野君あまのくんの言葉を思い出せない。浮かぶのはスミレの言葉、スミレの顔、スミレの声。


 アザミは、絵の置かれているであろう美術準備室びじゅつじゅんびしつけた。


 暗い部屋にはたくさんの自画像じがぞうが置かれていた。目がれず、まるで自画像じがぞうたちが暗闇くらやみけているように感じる。そして、呼吸こきゅうたび変化へんかする、においの濃淡のうたんに合わせて、自画像じがぞうの口元が動くような錯覚さっかく

 目がれ、お目当めあての自画像じがぞうを見つける。が突然、その自画像じがぞう実際じっさいしゃべった。


「あれぇ~、なにぃ~」


 アザミは、いきう音を立てるほどおどろく。そこにはスミレ本人がいた。窓際まどぎわ椅子いすせ腰掛け、ふでを持ち、その目の前には画架がかに立てられたカンバス。


「……なにしてんのこんなところで」


 アザミの声は少しふるえていた。


「それはお互いさまだよー。それに見たら分かるでしょ~、絵だよぉ絵~」


「ほ、放課後ほうかごもやってんだ、熱心ねっしんだね。図書委員としょいいんはサボるくせに」


「ん~、まーねー。でぇ? アザミはぁ?」


「……ん……私も絵だよ、あんたの絵を見に来たの、上手うまいってうわさを聞いたから」


「ふふ、雨野あまのクンに聞いたのねぇ」


「悪い?」


「ううん、いいと思う、すごく。雨野あまのクン熱心ねっしんめてくれたからぁ」


「そう。そんなにいい絵なんだ? 見せてよ私にも」


「もうれるなー、いいよ、じゃ~ん」


 スミレは、すわったまま、カンバスを画架がかから持ち上げると、胸の前にかかげ、アザミの方に向けた。その絵は本当にリアルだった。あたりをかこむおびただしい自画像じがぞうよりも、飛びけて上手うまい。でもそれは自画像じがぞうではなかった。


 アザミは確信かくしんした、これは自分だと。2人の顔の造形ぞうけいは、自身たちでも見分みわけがつかないほど、そっくりだ。でも、表情ひょうじょうまで同じなわけじゃない。アザミは、……スミレがこの絵のように、こんなに気持ちよく笑うところなど、ただの一度も見たことがなかった。スミレが笑うときはいつだって、あざけりと得体えたいの知れない好奇心こうきしんが、ほんのわずかにけて見えるのだ。


「これ、私でしょ」


「バレちゃったぁ~?」


なんで?」


「なにぃ、おこっちゃったぁ?」


「違う」


「それより、帰ろうよぉ、用務員ようむいんのオジサンうるさいしぃー」


 そう言ってスミレは絵のかたづけを始めた。しかし、ほか生徒せいとの絵が所狭ところせましと置かれているためか、スミレは窮屈きゅうくつそうに作業さぎょうを進めた。


「なんでこんなせまところいてるわけ、となりに広い教室があるのに、それに電気もつけないでさ」


「ああ、それはねぇ~、となりからだと図書室としょしつが、丁度ちょうど、木にかくれてみえないのよー。わたし、実物じつぶつ見ながらじゃないと上手うまけないんだよね~。それにぃ、アザミがこんなふうに笑うのはぁ、雨野あまのクンとおしゃべりしてるときだけだしね~。電気はほらぁ、明るくしちゃ余計よけいに見えなくなっちゃうしぃ」


 アザミは腹にめた感情かんじょうき出したかった。でも乗せる言葉が浮かばない。だから、口から出るのは、腹圧ふくあつに押し出されてれる、かすかな吐息といきだけだった。暗い準備室じゅんびしつには、スミレの甘ったるい鼻歌はなうたと、ふでを洗う水っぽい音だけがひびいた。スミレはふでを何度も執拗しつように洗った。洗っては顔に近づけ点検てんけん、を何度も繰り返した。満足まんぞくそうな鼻歌はなうたから一続ひとつづきにスミレは言った。


「帰りましょ。いえにぃ」


 そしてスミレは、呆然ぼうぜんと立ちくすアザミの横をすりけ、がらがらと音を立て準備室じゅんびしつけた。の拍子ひょうしにアザミはわれに帰る。あわててスミレのあとい、準備室じゅんびしつから出る。とその時、何処どこからか、かぼそい音が聞こえてきた。まるであかぼうの泣き声のような。でも違う、こんなにいきの長いあかぼうが――人間がいるわけない。はい直通ちょくつうでポンプをつないで、空気でも送らないかぎり。

 それはサイレンだった。消防車しょうぼうしゃだ。


「あ~、火事かじだぁ」


 スミレは言って、廊下ろうかけ出した。暗いためか、アザミには、まるでスミレが幽霊ゆうれいのように廊下ろうかすべっていくように見えた。


「ど、どこくのよ――!」


屋上おくじょうだよぉ、火事かじを見なくちゃ~」


 スミレは小走こばしりなのにもかかわらず、廊下ろうか暗闇くらやみの奥へと、またたに消えていく。アザミはいそいでそのあとう。遠ざかる足音に、何故なぜだかアザミはあせりをおぼえた。そのき先を知っているというのに。


 階段かいだんがり、はなたれた屋上おくじょうへのとびらくぐける。

 スミレはフェンスぎわにいた。アザミはゆっくりとスミレに近づいてく。


 スミレは、両手を肩のあたりまで上げ、フェンスを強くにぎめ、顔をフェンスにこれでもかと近づけ、るように目を見開みひらいていた。

 その視線しせんの先では、ほのおかがやいていた。距離きょりはかなり遠い。なにえているのかここからでは分からない。でも確か、あのあたりは住宅地じゅうたくちのはずだ。


「キレーねー。花火なんかよりずっとキレー」


 スミレは言った。こんなに目を見開みひらいているのに、まばたひとつしない。


綺麗きれい? なに言って……」


ほのお魅力みりょくは、一気いっきやしたらあじわえないよねぇ。少しずつ変わるから面白おもしろいんじゃんねぇ」


 あんなに遠くの火事かじの光がここまでとどくわけない、なのにほのおをじっと見るスミレの顔は、ほのおに合わせてれているように感じた。

 アザミは、スミレの顔を見詰みつめながら口をひらいた。


「なんで私の顔をくわけ?」


 アザミは、自分の顔が、相当そうとう強張こわばっているのをはっきりと感じていた。しかしスミレは、普段ふだんどおりのへらへらとしたみをアザミに向けた。


雨野あまのクンにぃプレゼントしようと思ってぇ」


「や、やめてよ、迷惑めいわくがるに決まってる」


「分かってないなぁ~、――絶対ぜったいよろこ絶対ぜったいに」


 と断言だんげんし、スミレは、くぐもった、せせら笑いをらした。


「……そもそも、どうして? なんで私たちにかまうの。人助ひとだすけなんてあんたらしくないよ」


「だってぇ~。自分と同じ顔をあいしてる人がいるなんて、悪い気はしないじゃない? たとえばさぁ~、自分と同じ顔の肖像画しょうぞうがをさ、誰かがでてくれるなんて、すこし気持ち悪いけど、ぞくぞくしない? だからあれだよ。なんだっけ? なさけはなんとかかんとかってやつぅ?」

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