泡-ABUKU-

瀬古 礼

第0話 画師・猿島良久の独白

 すっかり世間では「猿島良久さるじまよしひさの絵と言えば、それすなわち春画である」という認識になってしまっているらしいが、それは大きな誤解なのだと私は声を大にして言いたい。


 もちろん、春画という文化そのものを否定するつもりなどは毛頭ない。実際、俗に“浮世絵”と呼ばれているもののうち、およそ四分の一ほどの作品は皆春画なのだ。芸術家としてあるをもつ私のような半端者に、どうしてそのような需要の高い作品群の価値を全否定することができるだろうか。


 だがそれでも、私の絵が春画という扱いを受けることだけはどうしても我慢が効かないのである。


 巷で受ける春画というものは、どこか滑稽さを帯びた、老若男女問わず楽しめる読み物だ。敢えて正直な感想を言わさせて頂くと、それらはとても芸術作品だとは言えない「幼い読み物」なのである。最近では、鯉のぼりの中で身体を重ね合わせる男女を描いた作品がおおいに流行したのが記憶に新しいが、そんな場面設定ばかりが先行した作品を私は絶対に芸術だとは認めない。

 その他にも、奇抜なだけであまり美意識が感じられないものなどは掃いて捨てるほどたくさんある。あの北斎が描いた春画でさえ、女と「蛸」の性交を描いた作品なのだ。春画とは要はそのようなものなのである。けれども、このような奇抜さだけの目立つ嗜好が広く受け入れられるということは、私の想像よりもそれらは時代の真ん中に近しい場所に位置しているということなのだろう。


 しかしそれは、芸術家精神に逆行したあまり宜しくない風潮であるように思えて仕方がない。読者に媚び、斬新さだけで見る者を寄せつけようとする春画たちを眺めていると、どうも自らの絵を、芸術を、魂を磨こうという気概が感じられないのだ。私はそんな絵を描く芸術家にはなりたくない、私だけは“真の芸術家”でありたい。そのような宿願に突き動かされながら筆を握り続けているうち、私は遂にこの境地へと辿り着くことができた。


――私という芸術家は、我が妻、阿波あわの姿を後世に残すために生まれてきたのだ。


 黒檀のように艶めく黒髪、雪のように繊細な柔肌、そして清流のように透き通った声。まるで“美”という言葉がそのまま人間と化したかのような阿波のその美貌はまさに江戸の、いや日本中の宝だ。しかし、彼女はその美しさを決して驕らない。貴賎を問わず全ての人間に対して平等に接し、天女のような慈愛に満ちた微笑みを向ける。

 そんな彼女に巡り合えた時、もう存在そのものが芸術だと感じた。だがしかし、それはあくまで私がそう感じたというだけであって、阿波は間違いなくただの人間なのである。過ぎ行く年月が彼女の寿命をすり減らしていく。刻一刻と、芸術が死んでしまうその日が近づいてくる。その日が来てしまう前に私は彼女を、いや芸術を、永久に残る媒体でこの世に遺さなくてはならない。


 だから私は毎日のように阿波の絵を描く。


 私の営む貸本屋の客に笑顔を向ける阿波を描く日もあれば、一糸纏わぬ姿で私を見つめる妖艶な阿波を描く日もあった。


 しかし、どれだけ熱心に描いても阿波の美しさは表現しきれないのだ。


 今回こそは、と自信をもって仕上げたものであっても「お疲れ様です旦那様、お茶にでも致しましょうか」と私を覗き込むあのつぶらな瞳につかまってしまうと、もう駄目だった。どうして彼女の瞳はあれほどまでに奥深くまで透き通っているのだろうか。この世のありとあらゆる美しいものだけを詰め込んで凝縮したかのようなあの色合いは、あまりにも不純な物が混ぜこまれすぎたこの世の絵の具では到底再現できないのではないかという、そんな空恐ろしい予感さえ私に感じさせるのである。


 そうやって描き貯めた失敗作たちを集めた画集を、偶然とある一人の客に見られたことがあった。私としてはそれらの作品はあまり人には見せたくない代物だったのだが、しかし残念なことに、彼はそれらをおおいに気に入った様子だった。「普段の倍の額を出すからどうかこれを貸してくれないだろうか」とあまりにも熱心に頼み込まれたため、私は阿波には内密にしたまま、その画集を貸本として商品の棚に加えてみることにした。


 情けない話だが、画師としてあまり成功していなかった私にとって、貸本屋での収入こそが生活を保つ上での生命線であった。そのため、通常の倍の金銭が生じるという話はすこぶるありがたいことだったのである。


 しかし後から考えると、これがどうにも誤った判断だったようだ。冒頭で話したように、私の描いた画集が春画であるという誤解が広まってしまったのである。

 確かに画集には、阿波の裸体や妖艶な印象の一枚絵の収録が比較的多かったようにも思う。しかしそのような誤解は私にとって完全に計算外だったのだ。


「猿島という画師の描いた春画集がなんとも色っぽい」

「主流の春画とはやや様式が異なるが、美人の淫らな姿がどうにもたまらん」


といった評判が口頭で江戸の街中を駆け巡り、阿波の絵は不完全かつ不本意な形で世の中に知れ渡ってしまったのである。無論私の貸本屋でしかそれらを取り扱っている場所はなかったため、貸本屋の売り上げはおおいに伸び財布も潤ったのだが、私にとってそれは絶望以外の何物でもなかった。


 聖母マリアと呼ばれる聖女の絵には、誰も邪な感情など抱かないだろう。それは描かれているのがたとえ彼女の一糸纏わぬ艷やかな姿であっても、またその絵を見るのが彼女を聖女だとは知らない人物であったとしても、決して変わらない。一体何故なのか、これは私の持論なのだが、その絵を描くことができるのは彼女を描くに値する力量を持った芸術家だけだからである。

 彼らは聖女だけがもつ厳かな風格や温かな雰囲気を感じ取るだけでなく、それらを絵の具に載せて表現することができるのだ。まさに神業としか言いようのないその力は、並大抵の画師には真似することすら叶わない至極の技術なのである。


 つまりだ、私の描いた阿波の絵を見て欲情する人間がいたということは、画師としての私の力量は阿波という神聖な女性を描くのにふさわしくなかったということである。それは確かに悔しいことであったが、それ以上に情けないものだった。私の腕が未熟なばかりに、聖潔な芸術が汚されてしまった。真の芸術家を志す私にとって、これ以上に物悲しい気持ちにさせられることはない。

 私はさながら悪戯がばれた幼子のように、恐る恐る阿波に詫びた。


「私がもっと成熟した画家であれば、お前がこのような下卑た目で見られることなどなくて済んだのに。本当にすまないことをしてしまった。今度のことで私はもう二度と絵などというものは描かないでいようと腹に決めた。だからどうか許してほしい」


しかし阿波は私の予想とは裏腹に、優しさに満ちた笑みを浮かべながらこんなことを言うのだった。


「何をおっしゃいますか。私は旦那様の絵が江戸中の評判となったことが心底誇らしいのですよ。だから、そのようなことなどどうかお気になさらず、旦那様の道を究めてくださいませ」


 私は泣いた。彼女に対して取り返しのつかないような無礼をはたらいてしまった私を、どうして阿波はこんなにも励ましてくれるのだろう。どうして私を慰めるように、そっと抱きしめてくれるのだろう。


 この日、私は珍しく一度も筆を執らず、彼女を抱いた。


 愛おしい我が芸術の化身を、二度と他人の下卑た目線に晒させるものか。私のぶつける激情に善がる彼女の麗しい声を聴いていると、自然とそう決心がついた。しかしそのためには、まず私自身の抱えるこのをどうにかしなければないようである。父から受け継いでしまったこの欠陥を、如何にして克服すればよいのだろうか。

 一度このようなことを考えだすと私の思念はもう止まらなくなってしまう。心の欲するままに押し倒したのにも関わらず、気が付くと私は、彼女を半ば上の空で抱いてしまっていた。おそらくそれは阿波にも伝わっていたのだろう。


「旦那様、今この時だけは私の、阿波のことだけをお考え下さい」


阿波は寂しげに潤んだ瞳でそう呟くと、いつもにもなく深く、甘い口付けを交わしてきた。そのあまりの甘さに、私の中では“品格を保ちつつも色っぽい”この阿波の芸術的な姿を今すぐ描きたいという欲が膨らみ始めたのだが、阿波への想いと自らの性的衝動によってこれに蓋をした。

 今夜だけは画師としての自分を忘れ、阿波という名の芸術を独り占めにできる優越感に浸ってもいいだろう。私は一匹の雄として、純粋に彼女を求めた。


 私達の間でこれほどまでに熱く甘い夜は、この日以外ただの一度もなかった。



                 (※)



 今振り返ると、私は芸術という名の虚像を追い求めるあまり、阿波という一人の女性と全く向き合えていなかったように思う。彼女は私を必要としてくれていたというのに、向き合ってくれたというのに、私はいつも彼女とは逆の方を向いてしまっていたのだ。


 彼女がいなくなってから早半年、ようやく気付けたことがある。


―――芸術家としても、夫としても、私は愚かな半端者であった。


 もっとも、全てがあぶくのように弾けてしまった今となっては、そのような気付きなど何の意味もなさないのだが。



                 (※)



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