ネコの葬式を行って一週間。

少し寂しいと感じるときさえあれど、悲しみにまで発展することは未だない。最初の内はことある毎に、あぁ、そういえばいないんだった…。と思っていたが、今ではそんなこともなくなった。

 存在しないという事実が、ネコがいた日々を上回った。 弟はまだしょげているらしかった。早々に立ち直った私を見たら、きっとまたあの視線を送ってくるに違いない。

 ネコは私にとって大切な存在だった。だけどそれがいなくなった今、訪れたのは悲しみでも虚無感でもなく、ネコが来る前の、アパートでの一人暮らしだった。

 悲しいという感情とは、何だか無縁な気がした。

いくらネコの死をなぞっても、生を振り返ってみても、悲しみとはぷつりと途切れてしまっていて、どうにも繋がりそうになかった。

 私がなくして悲しいものって何だろう。

何をなくしても、案外平気なんじゃないかと思う。諦めが早いのか、重要視していないのか。どちらだろう。そういえば父が死んだとき、弟は葬式が始まってから少し涙ぐみ始めた。父が死んだという報告を受けたときは平然としていたが、葬式が始まった途端に悲しみだしたのだ。対して私は終始ぼんやりとしていて、その時もまたお疲れ様、だけだった。

 結局、なくしたら悲しいものは、なくしてみないと分からないんじゃないだろうか。だからって手当たり次第に何かをなくしていくわけにもいかないし。

 一番大切なものはなくしてから気付く、なんてよく言うけれど、本当にその通りだと思う。

そして、それは決して悪いことではないのだろうと。

 人間と言うのは、図太い生き物だ。飼い猫が死んだくらいじゃ、少なくとも私の根と葉は衰えない。 

 何かをなくすことは、本当に大切なものを見つけることに繋がっていく。これはもう、消去法だ。

 いつか本命をなくすときまで、些細なものをたくさんなくし続けるのだろう。それは私にとっては些細でも、他人にとっては本命かもしれない。逆に誰かの些細が私の本命であるかもしれない。

 大切なものは人それぞれで、本人もよくわかっていない。

 まだ三十代。大きな病気をしなければ、あと何十年も生きることになる。その長い間に、きっとそれは見付かるのだろう。

 何となく晴れやかな気分になって、気まぐれにキャットフードを一粒、口に放り込んだ。

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キャットフードの味は。 識織しの木 @cala

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