下
「私も狂えたらいいのに」
葵は紅葉した木の間に咲く桜を見つめて言った。意識せず呟いた言葉は空風にさらわれていく。
昼休憩を告げるチャイムが鳴った。いたる所から笑い声が聞こえてくる。
葵の横を子供達が駆けていった。
「廊下は走らない決まりでしょう」
「ごめんなさぁい」
けらけらと子供達は反省しない。
子供達が笑える世の中になって、嬉しいはずなのに葵の心は冷えていた。自分の幸せが後ろめたいのは気のせいではない。
狂い桜が散っている。花弁を十枚集めたら、詞は帰ってくるだろうか。葵は叶わない願いを夢想した。
桜より向こうに記憶が散らつく。瞬きした先には、鉄色があった。現実か夢か迷う葵の耳に子供達の笑い声が届く。
見覚えのない軍人に葵は身構えた。失礼がない程度に軍人を観察する。
背の高い老人もいたものだ。葵は最初、そう思ったがそうではなかった。軍帽から覗く髪は確かに白いが老人と言うには顔付きが若すぎた。
軍人が適度の距離で止まり、敬礼する。
葵は底の見えない瞳に見下ろされた。
「陸軍遺品返還部です。空木葵さんですね。陸軍第三独立部隊、佐久田詞士官の手紙を預かっております。お受け取り願います」
詞は自分で戦地に行くことを決め、そこで命を散らした。学校でその伝えを聞いたのは終戦日の一週間前だ。
「手紙だけ帰ってきたんですね」
わかってはいたが、送り主のいない手紙ほどむなしいものはなかった。
白い男は何も答えはない。
手紙から視線を上げた葵は底の見えない瞳とぶつかった。見送った日の曇天を思い出す。
葵は最後まで何も言えなかったことを忘れた日はなかった。
「お勤めご苦労様です」
葵は白い男から手紙を受け取った。まだ、日に焼けていない。つい最近送られたようだ。
白い男はいつの間にか姿を消していた。
葵は手紙の不格好な文字を見つめる。中身を見るのが恐ろしい。
どうして手紙をくれたのかは気になる。手紙の内容も気になる。
それでも、終わりになるのは怖かった。
じっと見つめていた封筒にぽとりと水滴が落ちる。見上げれば、雨雲が高い空を隠していた。葵は慌てて屋根の下にもぐる。
雨はしばらく止みそうにない。時間を確認すれば、昼休憩の半分は残っている。
葵は深く息を吸って、細く吐いた。
『空木葵様
しばらく会えていませんが、元気にしていますか。
僕のいる部隊は本当に強い人ばかりで、負ける心配はなさそうです。ちょっとは役に立てるかな、って思っていたけれど、世の中そんなに甘くありません。
空木さんは先生になれましたか。空木さんが先輩なんて変な感じですね。頑張って追い付くので、理想の先生になっていてください。
実は先日、桜を見つけました。異国にも桜があるなんて不思議ですね。桜を見ると貴女の姿を思い出して、花弁を十枚集めてしまいます。今回はずるをしていません。周りにはからかわれながら、手にすることができました。
この花弁を先生になれた貴女へ贈ります。
本当は帰ってから贈ろうと思っていましたが、我慢できませんでした。
もうすぐ、この戦争も終わります。また、皆に会えると思うと今から楽しみです。
僕は帰ったら、正々堂々とあの桜に挑もうと考えています。良ければ、僕の茶番に付き合ってください。
では、また。
佐久田 詞』
封筒を覗きこめば、丁寧に折りたためられた油紙が入っていた。震える手で広げると、茶色に枯れた花弁が確かに十枚ある。桜と言われなければわからないほど、年月がたっていた。
葵は言葉が出てこなかった。気の抜けた詞の笑い声が聞こえるようだ。
どうして帰ってこなかったのだろう。
どうして死んでしまったのだろう。
悲しいの一言では済まなかった。手紙を握りつぶして投げ捨てたかった。それなのに、額に擦り付けて、どんどん溢れる涙で濡れないように守っている。
こんな葵を見たら、詞はどうするだろうか。なぐさめてくれるだろうか。
違うな、と葵は思った。隣で笑いあいたい、と思った。このままでは隣にいけない。そんなのわかっていた。
「お天気雨だ!」
「空木せんせ、何してるのー!」
「晴れてるのに雨とか変なの!」
二階から子供達の声が葵を呼んだ。
水で濡れた土は光に反射して輝いている。今の葵には少しだけ眩しすぎた。空を見上げる余裕もない。
雨が降っているのに、空は晴れている。中途半端でどっちつかず。
いつかの詞も日照り雨を見てはしゃいでいた。
詞が隣にいる気がするのは思い出のせいだけではないだろう。
葵は手紙を二つに折りたたんで、胸ポケットにしまった。ぬかるんだ土に足をとられながら走り出す。
「ほら、濡れるわよ。教室に入りなさい」
「先生に言われたくなーい」
空にはたくさんの笑い声が響いている。
(終)
空に走る かこ @kac0
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