中
葵は図書室で軍歌が書かれた本を探していた。少し、昔のものも見てみたい。そんな簡単な理由だ。
「こんにちは」
声をかけられて、葵はそちらに視線だけを向けた。詞だ。
「こんにちは。偶然ですね」
そうですね、と笑いながら詞は葵の後ろの本棚を探し始めた。この列の本棚には軍に関するものが集められている。
「戦地に行くことにしました」
葵は穏やかな声に自分の耳を疑った。驚きの顔を向ければ、詞は身構えた様子もなく本を選んでいる。
高等師範学校から戦地に赴く者は少ない。先日、学徒出陣が命じられたが、教師になる学生は特別に徴兵を免除された。
もとより、二十歳を過ぎていない詞には、関係のない話だ。
「……理由を聞いてもよろしいでしょうか」
葵は詞に訊いた。
軍に勤める父が死んだから、と詞は言った。重ねて、弟も死んだ、と教えてくれた。いつもの声で答えられる。
それでも、葵は詞が行くべきではないと思っていた。何とかして、引き止めなければと頭を働かす。
「僕だけ何もしないのはずるい気がして」
寂しそうな声音につられて、葵は詞の横顔を見た。いつもの笑顔のはずなのに、物悲しく映る。
戦場に行くことが全てなのだろうか。そう訊くのは、はばかられた。
葵は詞から顔をそらして本を探す振りをした。頭に入ってこない文字を指だけで追う。臆病な葵は死と隣り合わせの戦場に自分から飛び込む理由が理解できなかった。
どちらが正しいのだろう。葵は言葉にできないまま、世界が黄昏時に落ちていく。
「異能って知っていますか」
葵は背中から聞こえた声に心がざわついた。信じられない気持ちと納得する気持ちが混じりあう。
入隊できる特例を思い出せば、自ずと答えは出る。
どう答えるべきか、葵は悩んだ。ふるえる指先がすべり、一冊の本が落ちる。
慌てる葵を他所に、本が動きを止めた。本が中に浮いている。何も支えがなければ、本は落ちるものだ。その理を無視して、本は床から離れ詞の手中に収まった。見えない糸で操られているようだ。
葵は本から目を外さずに首を振った。異能のことは聞いたことはある。でも、信じたくなかった。
詞はさみしそうな笑みをにじませて、口を開く。
「桜の花弁を十枚」
葵は詞の顔をうかがう。目のあった詞は口端を上げた。
「ずるをして、すみません」
葵は何も言ってやれなかった。
✵
帝都一番を誇る駅は人でごった返していた。
寒空の下、重い雲からちらちらと降る雪はコンクリートに染みを作りながらすぐに溶けていく。
葵はなかなか顔を上げることができない。場違いな気さえしてきた。
「……お気を付けて」
やっと出た言葉は、葵が本当に言いたい言葉ではなかった。周囲の目がある中で、国を裏切るような言動はできない。罰を受けるのが自分だけならいいが、詞に及んだら困る。視界がにじむのをぐっと我慢した。
「はい、
壮年さが浮かぶ面々の中で、まだ年若い詞の姿は浮いていた。
周りの兵や見送る人も、意外そうに目を丸くしてそらしていく。
兵は二十歳から徴兵される。特例として、軍学校所属の学生や異能持ちの希望者は戦地に赴くことができた。
自然の理を越えていく異能持ちは、万に一人いればいいと言われ、人口増加の進むこの島国では下降の傾向であった。脈々と血を繋ぐ一族に生まれることが多く、平々凡々と過ごす民のもとに生まれることは極めて稀だ。
異能の兆候が出たものは国に申告することが法律で定められ、市民にも広く伝えられた。しかしながら、子供を取られては堪らないと法律を蹴る者は少なからずいた。偏見の目を恐れ、口を閉ざす者も多い。
「鼻、真っ赤ですよ。風邪をひかないでくださいね」
「佐久田さんには言われたくありません」
面白くない葵は詞を睨みつけた。
鼻を赤くした詞は力の抜けた笑い方をする。
「じゃあ、行ってきます」
あっさりと言われた門出の挨拶に葵は応えられなかった。
乗降場に響く蒸気の音が速まっていく。
唐突に汽笛の甲高い音が響いた。皆の視線が一瞬それた隙に詞は動く。
「必ず帰ってきます」
葵は驚いて、詞を見つめ返した。耳の横で呟かれた言葉の意味を理解する前に、大きく見開いた目から涙が一粒こぼれおちる。
涙はコンクリートに落ちて雪の後と区別がつかなかった。
詞は一層笑って、葵の背を優しく叩くと、軽い足取りで汽車に乗った。すぐに鉄色の塊にまぎれる。
汽車がゆっくりと動き出した。
万歳と声が響く乗降場。
姿の見えない友に葵は力の限り手を振った。
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