天虎小旅記

橘 泉弥

天虎小旅記

 夜空に浮かぶ月を見て、虎は深く嘆息した。一体いつになったら天へ帰れるのだろう。下界の時はあまりにも遅い。移ろう季節も、森の豊かな表情も、彼の心を癒す事はない。

 濃紺の空に微笑む月はただ、虎を見守るだけであった。

 

 

 その日、人間達が縄張りに入った事はすでに分かっていた。一人二人ではない。まるで近所の村の住人全てがやって来たようだった。

 彼等はしばらく森にいたが、夕刻になると去って行った。

 何をしに来たのか気にはなったが、三月程前村へ行き、弓で追い払われてから、虎は人間に近付かないようにしていた。

 だから、こんな夜中になって人間達の痕跡を見に行くのだ。

 無数の足跡をたどって行くと、少し開けた場所に、今朝は無かった祭壇らしきものができている。

 その上には、村の正装を身に纏った少女が一人、座っていた。微かな泣き声が虎の耳に入る。

 なぜ森にいるのだろう。村人とはぐれたのだろうか。

 虎は祭壇に上って少女の前に立ち、数年振りに声を発した。

「孩子、何を泣いている」

 少女は驚いた様子で顔を上げた。

 まだ成長途中の面は秀麗で、虎は美しいと思った。

「今の声、あなたですか?」

 少女が小さな声で言う。子ども特有の高い声だ。

「左様」

 虎は答えた。

「何故泣いている」

 涙で頬を濡らしながら、少女は話し始めた。

「私の名は、苑玉静と申します。あなたへの生贄です」

「贄だと?」

「はい」

 三月ほど前、村に蒼い虎が現れた。人々が弓で追い払ったところ、雨が降らなくなってしまった。

 川は干上がり作物は枯れ、蔵の食料も底をつきかけている。

 そこで村長は、自分の娘を人身御供として虎に許しを請い、降雨を願う事にしたのだ。

「どうか私を食べて怒りを静め、村に雨を降らせてください」

 虎は深く息をついた。村人達は、何か勘違いをしているようだ。

「帰れ。おれに天候を操る力など無い」

 それだけ言って少女に背を向け、虎は祭壇を後にする。

 住処へ帰ろうと歩いていると、祭壇の方から絹を切り裂く悲鳴が聞こえた。あの少女の声だ。

 踵を返し、来た獣道を駆け戻る。

 巨大な熊が祭壇の上で少女を襲っていた。

「やめろ!」

 虎は祭壇に飛び上がり、敵と対峙した。

 大声で威嚇し追いかけまわすと、大熊は逃げて行った。

「怪我は無いか」

 震える少女に声を掛ける。

「……」

 返事は無い。見ると、その煌びやかな衣装は赤く染まっていた。

「孩子、傷を見せなさい」

 少女は戸惑いながら、服を崩し肩の傷を虎に見せる。

「じっとしているのだぞ」

 そう言うと、虎は少女の肩をべろりと舐めた。少女は思わず縮こまるが、虎は構わず二度、三度と傷を舐める。

「これで良いだろう」

 虎が顔を離すと、少女は目を丸くした。肩にあった大きな傷が、跡形もなくなっていた。まるで怪我などしていなかったかのように肌は白く、痛みも引いている。

「森は危ない。分かっただろう。さっさと村へ帰れ」

 虎は少女に背を向けて、祭壇を降りる。人間のする事はよく分からぬが、あの少女が村に帰れば、きっと村人も贄など無駄だと悟るだろう。

 しかし、少女は虎の後ろをついてきた。微妙な距離を保ちながら、必死に虎を追いかけてくる。

「……何故ついてくるのだ」

 虎は一旦脚を止め、後ろの少女に呼びかけた。

「帰れと言ったであろう。お前の居場所は、此処ではないはずだ」

 少女はうつむき黙っていたが、少しして小さな声を出した。

「帰りません」

「何だと?」

 蒼い身を持つ虎に、少女は拝礼し静かに言葉を続ける。

「先刻、あなたは私の傷を癒して下さいました。その身も含め、普通の虎ではないとお見受けします。どうか、村に雨を降らせてください」

 虎は閉口してその場に座る。

「確かに、我は天虎である。しかし傷を癒すことはできても、天候を操る事はできぬ。そんな力は無い」

 説明しても少女は動かない。

「どうかお願いします」

 仕方が無い。虎は溜息をついて尾を揺らす。前足で三度地面を叩き、牙のある口を開いた。

「土地神よ、我の前に姿を現せ」

 小さなつむじ風が吹き、二人の前に土地神が現れた。黒い道士服を身に纏った老人の姿で、身の丈は一尺八寸程である。

「お呼びでしょうか、蒼虎様」

「ああ」

 目を丸くする少女の隣で、虎は土地神に用件を伝える。

「この土地は三月も雨が降っていない。村は困窮しているそうではないか」

「左様でございます」

「そなたの力で、村に雨を与える事はできるか?」

 土地神は深々と頭を下げた。

「恐れながら、私はただの土地神でございます。土地神は土地を守るのみ。天候を操る事はできませぬ」

「そうか……」

 その返答を聞いて、虎は尾を降ろす。土地神にも不可能となると、なす術は無いのだろうか。

 虎の隣で落胆する少女を見て、土地神は言葉を続けた。

「森の奥、翠琉瀑布に住む竜神様なら、何とかできるかもしれません」

「誠か?」

「はい、水神様であらせられますから、雨を降らせるなど、容易い事でございましょう」

 これは朗報であった。虎は、竜神に雨を降らせてもらうと言えば、少女も素直に村へ帰るだろうと考えた。

「その滝は何処にある?」

「此処から西へ五十里程歩いた場所にございます」

「そうか」

 虎は傍らに立つ少女に顔を向ける。

「聞いただろう孩子、我が竜神に頼んで、雨を降らせてやる。約束しよう。我に任せて、お前は村へ帰れ」

 生贄として森に来た少女は、少し考えた後頭を振った。

「私も一緒に参ります」

「何だと?」

 少女は再び、虎に拝礼する。

「村の皆は、雨を降らせようと必死に雨乞の儀式をしています。だから私も、役目を果たさなくてはと思うのです。どうか、連れて行ってください」

 その声はよく聞けば震えていたが、虎はそれに気付かなかった。ただ、物好きな孩子もいたものだと、憮然としたくらいである。

「好きにするがよい」

 この日はもう月が昇り始めていたので、出発は明朝とする事になった。

 夜を凌ぐ為、虎は少女を自分のねぐらへ案内した。

 小さな洞窟に着くと、少女は不思議そうに辺りを見回す。岩肌の壁に、数編の詩が彫られていた。

「その辺で寝ろ。明日は早い」

 虎はそう言い、少女に背を向けて臥した。それきり何も言わなくなったので、少女も洞窟の隅で横になる。

 入口から差す淡い月光が、虎の毛皮を更に蒼く染めていた。

 夜更け。梟や蟋蟀の鳴声の中、虎がぱたりと耳をかえすと、微かに忍び泣く声が聞こえた。少女のものだ。

 なぜ彼女が泣いているのか、虎にはよく解らない。帰れと言って帰らなかったは少女の方だ。

 彼女も子どもなりの思考を持っているのだろうが、そのセカイを思い出すには、虎は少し成長し過ぎた。対処の方法も思いつかず、虎は夢路に戻ったのであった。

 明朝、虎と少女は西へと旅を始めた。目的の地は翠琉瀑布、竜神に雨を乞うのである。

 虎は、あれこれ考えを巡らせながら獣道を進む。今からでも少女を村へ帰せないものかと、悩んでいた。

 森は危ない。それは熊の一件で、少女も思い知った筈だ。なのに何故ついてくるのか。虎が雨を降らせると約束したのだから、それを信じ親元で待てば良いものを。

「きゃっ」

 不意に虎の後ろで声がした。振り返ると、少女が派手に転んでいる。

「怪我は無いか?」

「はい」

 気を付けて見ると、進んできた道は足場が悪く、歩きにくそうだ。

「成程、これは人間の脚では難儀だろうな」

 虎は孩子の歩みを考えず進んでいた事に気付く。そして、子どもと歩くのは面倒なものだと大息を吐いた。

「孩子、我の背中に乗るか?」

 訊くと少女は恐縮した。

「い、いえ、そんな、蒼虎様に乗るなんて、申し訳ないです」

「構わぬ。怪我をするよりは良いだろう」

「でも……」

 虎が何度勧めても、少女は承諾しなかった。仕方なく、虎は少女の歩調に合わせて進む事にしたのだった。

 陽が傾き始めると、少女の歩みはさらに遅くなった。疲れてきているのだろうが、本人は何も言わない。その為、虎は少女の疲労に気付かなかった。

「今日はこの辺りで休む事にしよう」

 黄昏時になって虎が言うと、少女はほっと息をつく。それを見てやっと、虎は少女の疲労に気付いたのだった。

 適当な岩陰を見つけ、一頭と一人は腰を下ろす。

「明日も朝から歩く。早く寝ろ」

 余程疲れていたのだろう。虎が言うと、少女は半ば倒れるように横になった。少し離れた場所で虎も伏せる。

 秋になり乾いてきた風に耳をすませていると、また、小さな泣声が聞こえてきた。

 虎は、子どもとは面倒なものだと思いながら立ち上がる。そして少女のすぐ隣にまた伏せたのだった。

「蒼虎様……?」

「夜は冷える。風邪を引いたら捨て置くぞ」

 脅しが効いたのか、少女は遠慮しつつ虎にすり寄る。

 その小さな温もりの中、毛皮が少し濡れた気がしたが、虎は気にしないふりをした。

 翌日も朝から西へと進む。二日、三日と旅は続いた。

 虎はゆっくりと歩いていたつもりだったが、五日目の太陽が南の空に移る頃、少女の足元がおぼつかなくなった。今にも倒れそうになったので、鈍感な虎にも流石に分かった。

「どうした?」

「何でもありません。大丈夫です」

 少女は口ではそう答えるが、腹は正直に返事をした。その音を聞いて虎ははっとする。

「お前、森に来てから何も食していないではないか」

「申し訳ありません……」

「何を謝る。生きているのだから当たり前だ」

 失念していた。虎の身体の自分とは違い、人間はこまめに食が必要なのだ。

 虎は急いで一羽の兎を狩ってきた。

「喰え」

「ありがとうございます」

 そう言いつつ、少女は兎に手を付けない。

「どうした、早く喰え」

 虎が促してもおどおどするだけで、動こうとしない。

「どうしたのだ」

 何回か訊くと、少女はやっと白状した。

「その、食べ方が分からなくて……」

 兎の捌き方を知らないという。これだから子どもは、と虎は溜息をついた。

「この地域の正装ならば、短刀を持っている筈だ。それを出せ」

 少女は帯の後ろから小さな刃物を出した。

「袖を汚さぬよう少し捲れ。先ずは下処理からだ」

 虎は細かく捌き方を指示していく。少女は戸惑いながらもそれに従い、何とか動物を食べ物にした。

 火をおこし、肉を焼き始めると、少女は訝し気に虎を見た。

「あの……」

「何だ?」

「蒼虎様は虎なのに、どうして兎の捌き方をご存知なのですか?」

 その質問に、虎は少々押し黙る。

「申し訳ありません、気になってしまって……」

「いや、構わぬ」

 蒼い尾を振り、虎は静かに語り始める。

「我は、名を銘周飛という。元は天帝に仕える文官だ」

 何年も何年も、真面目に誠実に働いてきた。出世の為に仲間を蹴落とす事もせず、ほんの小さな諍いも起こさず奉仕してきた。

 ただ一度だけ、罪を犯したのだ。

「つみ、ですか?」

「そうだ。天帝の御息女に、見入ってしまった」

 それが主人に見つかり、咎められた。

「何と恥ずべき事か。下界に、しかも強欲で不浄な虎なぞに堕とされるとは」

「……」

 少女は何も言わない。火の爆ぜる音だけが、橙の森に響いた。

「……そろそろ焼けただろう。喰え」

 肉を頬張る少女を見ながら、虎は思考に耽る。下界に堕とされたのは、確か五年前の筈だ。今年、中秋の名月が昇れば天へ帰れる。もう少し。もう少しの辛抱だ。

 少女が食事を終えるとすぐ、虎は立ち上がった。

「行くぞ」

 自分は天に帰った後、如何するのだろう。こんな恥を晒しては、もう元のように官吏としては働けない。しかし別の職を探そうにも、自分に他の才の無い事は承知していた。

 黙って歩く虎を、少女が走って追い抜いていく。

「蒼虎様、花畑です!」

 その言葉に虎が顔を上げると、目の前に黄色い花の池が広がっていた。

 虎は構わず進もうとするが、少女は花の中に座り込んだ。やれやれ、と虎も腰を下ろす。

 少女は虎に背を向けて花を摘む。口ずさんでいるのは村に伝わる民謡だった。

 伸びやかな声が、悲風に乗って秋の森を渡る。木々も動物も渇いた空までも、その歌声に耳を傾けているようだった。

 しかし、その声はだんだん小さくなり震えてくる。そして終にはぱたりと止んだ。

 虎が顔を上げると、少女は手を止め、じっと俯いていた。

「孩子、どうかしたか」

 声をかけると、少女は目元を拭い虎を振り返る。

「蒼虎様に、冠を作りました」

「冠?」

「はい!」

 童女は笑って、困惑する虎の頭に黄色い花冠を乗せる。

「あの、つみ? の事とかは、私にはよく分かりません」

 言葉を探すように俯いてそう前置きし、少女は改めて虎を真っ直ぐ見つめる。

「でも、蒼虎様は、悪い方じゃないです」

 虎が半ば驚いて見返すと、少女はまた下を向いた。

「その、ゆっくり歩いて下さいますし、兎の捌き方も教えて下さいました。それに……ええと、布団にもなって下さいましたし……」

「布団!」

 虎はその言葉の選択に笑い出す。布団になった心算は無かったのだが、子どもから見るとそうなるのか。

「す、すみません」

「いや、構わぬ」

 慌てて謝る少女に、虎は笑いながら返した。

「……そうか。我は悪い奴ではないか」

「はい」

 少女が大真面目な顔で頷くので、虎はまた可笑しくて笑ったのだった。

「行こう。お前の村に、早く雨を降らさねばな」

「はい!」

 二人は西へ西へと歩いた。

 夜は少女の方から虎にすり寄ってきたが、虎は別段嫌がらなかった。それよりも、毛皮を濡らす涙を気にしたのである。

 しかし、意を決してその訳を孩子に問おうとした時には、少女は寝息を立てていた。

 旅を始めて八日目、二人はとうとう辿り着いた。翡翠とも琉璃とも例えられる滝が見えた時、歓声をあげたのは何方だったか。

「着いたぞ」

「はい。着きました」

 一頻り滝を眺め休息をとった後、此処に棲むという竜神に呼びかける。

「竜神様、どうか姿をお見せ下さい」

「お願いがあります」

 二人が呼びかけると、水神はすぐそれに応じた。

 三丈を超える身は白い鱗に覆われており、全身が秋陽に煌めいている。二人は揃って拝礼した。

「ほう、天虎と女孩子の組合せとは珍しい。この年寄りに何か用かの?」

 その強大な力に反し、竜神の口調は優しい。

「はい、この先の村への降雨を依頼致したく、参上仕りました」

「成程、雨を望んでおるのじゃな」

「左様でございます」

 虎の言葉に、竜神はうーむと唸った。

「わしも随分と歳をとった。上手く雲を呼べるかどうか」

 虎の横で黙っていた少女が、一歩進み出る。

「お願いします。どうか村に雨を降らせて下さい。……私が、贄になりますから」

 それを聞いた虎は驚倒した。

「孩子!」

 慌てて見やると、その肩は小さく震えている。

「お前、まさかその心算でついてきたのか!」

「はい。それが私の役目ですから……」

 虎は声を呑んだ。毎夜泣いていたのはこの為だったのか。滝に着いたら死ぬつもりで、今まで旅をしてきたのか。

 それが幼い精神にどれ程つらい事なのか、虎にも容易に想像がついた。

「お前……っ!」

 言葉を続けようとする虎を、竜神が制す。

「女孩子や」

 老龍は優しく少女に語りかけた。

「本当に良いのか? そなたはまだ幼い。これから先、長い未来が待っておる」

 少女は黙ってその声を聞いている。

「ここで死んだら、もう村に帰れぬのだぞ。両親に会う事も、友と遊ぶ事もできぬ」

 柔らかな頬を雫が伝う。

「よく考えてみなさい。本当に、此処で死しても良いのか?」

 少女は暫く黙っていたが、やがて小さな声を発した。

「……生きたい、です。死にたくない。村に帰りたい。父様と母様に会いたいです」

「そう。それで良い」

 隣で成行きを案じていた虎は、安堵の息を漏らした。もし少女が改心しなかったら、脅してでも止める心算だった。

「それにのう、贄など無くても、少しの捧げ物さえあれば雲を呼ぶ事はできる」

「捧げ物、でございますか」

 虎と少女は顔を見合わせる。供物を用意する必要があるなど、虎は考えもしなかったし、少女は少女で自分を捧げる気でいたのだ。

 戸惑う二人を見て、竜神はほっほと笑う。

「案ぜずとも良い。そなた等がここまで来たその旅路を、捧げ物として受け取ろう。よくぞ、此処まで参った」

 竜神はそう言って空へ跳ねた。乾いた碧空を舞い、雲を呼ぶ。

 雲は竜神の呼び掛けに応え、すぐさま恵みの雨となって降り注いだ。

「この雨は五日続くじゃろう」

 地上へ降り立つと、竜神はまた優しく言った。

「ありがとうございます!」

 少女は満面の笑みで礼を述べる。虎もその隣で拝礼し、感謝の意を示した。

「さあ、村へ帰り、両親と共に喜ぶが良い」

「はい!」

 二人は竜神に改めて謝辞を述べ、雨の中帰途についたのだった。

 大きな役目を果たし終えたからか、少女の眼に子どもらしい輝きが戻った。夜に寄り添って眠っても、もう虎の毛皮が涙で濡れる事はない。二人は秋の更けていく森の中を、また八日かけて村へ帰るのだった。

 民家の屋根が木々の向こうに見えると、帰って来たのだと実感が湧く。

「村の入口まで送ろう」

「はい。ありがとうございます」

 旅も終わりに近付き、虎と少女は友となっていた。虎は少女と別れ難く感じており、その為に村まで送る事を提案したのだ。少女が笑顔で親の腕に抱かれるのを、見届けたいと思っていた。

 夕刻になって村の端に着く。約束の五日が過ぎ、雨はあがっていた。

「では、家に帰るがよい」

「はい」

「もう会う事も無かろう。天命まで懸命に生きよ」

 少女は眼に涙を浮かべ、虎に強く抱き付いた。

「ありがとうございました。さようなら、蒼虎様」

 少女は村の中へ歩いていく。虎はそれを物陰から見ていた。

 長旅に耐え村に雨を降らせた少女は、英雄として歓迎される。父母に温かく出迎えられ、よく帰って来たと喜ばれる。

 虎は、そう思っていた。

 しかし、現実は違った。

 少女を見た村人達は、恐怖の眼差しを少女に向けた。雨が降ったという事は、少女はあの虎に喰われたはずだ。村に恨みがあったから、鬼となって現れたのだ。彼らの眼には、そう映った。

 村人達の視線には気付かず、少女は笑顔で家へ走る。村に帰って来た喜びと、両親に会える嬉しさで、周りが見えていなかった。

グォンだ……!」

 誰かが言った。

 その時になって初めて、少女は自分に向けられた異様な視線に気付く。その場に居るのが恐ろしくなり、今来た道を駆け戻る。

 その背中に、とす、と静かな音を立てて矢が刺さった。

「孩子!」

 虎は物陰から飛び出し、少女に駆け寄る。

「返事をしろ、玉静!」

 揺さぶっても返答は無い。

 巨大な怒りが虎を包んだ。憤怒は炎のように燃え上がり、その身体を支配した。

 虎は、弓を持った男に襲いかかった。倒れたところを前足で踏み、逃げられないよう抑えつける。

 その喉笛を喰い千切ろうと身をかがめた時だった。

 枯れた花冠が、地面に落ちた。少女が虎にと作ったものだ。乗せていた事さえ忘れていた。

「蒼虎様は、悪い方じゃないです」

 脳裏に少女の笑顔が浮かぶ。

 今ここで男を殺したら、少女を裏切る事になる。しかしこの怒りは如何すればいい。

 虎は吠えた。天に向かって、感情の全てを詰め込んで叫んだ。

 男を解放し、村人達に背を向ける。少女を蒼い背に乗せて、虎は村を後にした。



 夜空に浮かぶ月を見て、虎は深く嘆息した。

 結局、天からの遣いはそのまま返してしまった。帰りたくなかったのかと訊かれれば嘘になる。しかし、虎は地を終の棲家とする事に決めたのだ。

 少女と共に、生きる為に。

「どうかなさいましたか、蒼虎様」

 虎の力で回復した少女が、ねぐらの洞窟から顔を出す。

「何も無い。ただ空を見ていただけだ」

「私も御供していいでしょうか」

「勿論だ」

 虎と少女は並んで星空を見上げる。

 濃紺の空に微笑む月はただ、二人を見守るだけであった。

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