私だけの夏休み

 それから5日後、出社した由香里を待っていたのは、机の上に積み上げられた書類の山と、パソコンの画面を埋め尽くす付箋やメモの海だった。一週間休んだツケを目の当たりにし、早くも仕事の意欲が削がれていく。


「あ、東さん。おはようございます。今日来るの嫌だったんじゃないっすか?」


 コーヒーを入れてきた原田が戻ってきて尋ねた。由香里の机の惨状を見てげんなりしている。


「うん、覚悟はしてたけど、まさかここまでとはね……。状況把握するだけで1日かかりそう」由香里が苦笑しながら言った。


「俺、手伝いましょうか? 今ちょうど手空いてるんで」


「ありがとう、助かる。でも原田君の方こそ大丈夫だった? 課長に電話しろって言われたの拒否したんでしょ?」


「あー……あれね。さすがに勇気入りましたけど、あれ以上やったら東さんが可哀想だなって思って」


「その気持ちは嬉しいけど、あんまり無茶しちゃダメだよ? 原田君まだ2年目なんだし、新人って目つけられやすいんだからね?」


「大丈夫っすよ。俺、別にこの会社にしがみつきたいとか思ってないし。古くさい考え押しつけられるなら辞めるだけなんで」


 原田は人目も憚らずにそんなことを言う。由香里は肝を冷やして辺りを見回したが、幸い、他に出社している者はいない。まったく怖いもの知らずの新人だ。


「それより、旅行は楽しかったんすか?」原田が尋ねた。「まぁ、最初の2日は俺が邪魔しちゃったんでアレですけど、その後はどうだったんすか?」


「うん、すっごい楽しかった! いろんな観光地回って、美味しいもの食べて、思いっきり沖縄満喫できたよ!」


 事実、あれ以降の旅行は本当に楽しかった。友人とのお喋りに花を咲かせているうちに蓄積された疲れが解放され、本来の自分を取り戻していくような感覚があった。

 その時由香里は思ったのだ。これこそが自分にとって必要な時間。何物にも代えられないかけがえのない時間。年齢を重ねても役職に就いても自分にとって大切なものは変わらない。由香里はこれからも友人との他愛もない時間を大切にして生きていきたかった。


「あ、課長……」


 原田が由香里の後方に視線をやった。由香里が振り返ると、吉村が疲れた顔をして出社してきたのが見えた。クールビズだというのにご丁寧にジャケットを羽織り、暑さのあまり余計に体力を消耗しているように見える。


「課長、おはようございます!」


 由香里が元気に挨拶すると、吉村がちらりと顔を上げて由香里の方を見た。途端に眉間に皺が寄る。


「あぁ、東さん……。やっと戻ってきてくれたんだね。君がいない間大変だったんだよ?」


「ご迷惑をおかけしました。でもおかげでリフレッシュ出来ましたので、前よりも仕事の能率は上がると思います」


 由香里は笑顔を作って言った。その反応が意外だったのか、吉村が不可解そうに眉を顰めた。


「課長はいつから夏休みですか? せっかくですので、旅行にでも行かれたらいかがですか? 気分が変わっていいですよ」


「旅行、ね……。僕はいいよ。人が多くて疲れるだけだし、かといって家にいたところで家族に邪魔者にされるだけだ。本当のこと言うと夏休みなんていらないんだけどね。クーラーの効いた社内で仕事をしてる方がよっぽどいい」


 吉村はそう言うと背中を丸めて自分のデスクの方へ歩いていった。中年の悲哀を丸ごと背負っているかのようだ。


「会社にしか居場所がない管理職の典型っすね」原田がぼそりと言った。「自分が会社好きなのは勝手だけど、俺らにまでその考え方押しつけないでほしいっすよね」


「そうね。でも……ちょっとずつ変わっていくかもしれないよ」


 由香里がそう言って鞄から社用携帯を取り出した。由香里が電源を切った直後に2件着信があったものの、以降は一度も連絡はなかった。由香里はそれを、吉村が自分の考えを受け入れてくれたことの現れではないかと思っていた。もっとも、何度電話しても無駄だと考えて諦めただけかもしれないが。


 由香里はふうっと息をつくと、デスクに着いて書類の山に手をつけ始めた。仕事に打ち込むことを美徳とする意識がまだまだ根強いこの社会で、由香里のような人間が自分を貫いていくのは容易なことではない。

 それでも由香里は、簡単に流されてはいけないと思った。社会人になれば、人は仕事を理由にして多くのものを失っていく。学生時代の友人との付き合いも、打ち込んでいたはずの趣味も、自分の時間も。

 でも、全ての人間が心まで仕事に捧げられるわけではない。寝食を忘れて仕事に没入するか、割り切って淡々と進めるか、どのようなスタンスで仕事に当たるかは個人の自由だ。決して他人から強要されるものではない。

 だからこそ、自分にとって本当に大切なものは何かを見極めていかなければならないのだ。会社のやり方に合わせるのではなく、自分の考えに合う会社を選択していく。一つの会社の色に染まるのではなく、複数の会社を渡り歩きながらより自分らしい生き方を模索していく。

 そうすることで、自分にとって本当に大切なものを見失わずに生きていくことが出来るのかもしれない。

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夏休みは誰のもの 瑞樹(小原瑞樹) @MizukiOhara

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