大樹に捧ぐ決意

 翌朝、3人は再びレンタカーを走らせていた。向かった先はガンガラーの谷と呼ばれる森だ。鍾乳洞が崩れて出来たらしいその森は手つかずの自然がそのまま残されており、ガイドなしでは入ることが出来ない。それだけに中には神秘的な雰囲気が漂い、まるで秘境を探検しているような気分になれると評判だった。

 現地に到着し、ケイブカフェと呼ばれる鍾乳洞にあるカフェで受付を済ませる。辺りにはすでに多くの人が詰めかけ、これから始まる神秘と異国の旅に胸を高鳴らせているのがわかる。由香里もその非日常な空間に圧倒されていたが、どうしても鞄の奥にしまい込んだ社用携帯が気になってしまっていた。昨日はあれから鳴らなかったが、今日もまた最悪のタイミングで呼び出されないとも限らない。

 やがてガイドが現れ、ツアーの説明をした後で一同はいよいよ森へと出発した。一歩足を踏み入れた瞬間、目の前に広がる圧倒的な自然に参加者の誰もが息を呑み、まるで聖域に足を踏み入れたような厳かな気持ちにさせられた。溢れ出す大地と生命の息吹を前にしては声を発することすら憚られ、誰もが陶然とため息を漏らして辺りを見回している。心地よい静謐さが辺りを包み込み、心の淀みが綺麗に洗い流されていくようだ。

 そうして歩き続けること約50分、一同はこの森のハイライトである大主うふじゅガジュマルに辿り着いた。何本もの細い幹が連なって一つの大木を形成し、空高くそびえ立っている。無数に伸びる枝と葉が空を埋め尽くす様は、この神聖な空間を外界から守ろうとしているかのようだ。見上げているだけで思わず跪きたくなってしまうほどの威厳を感じさせるその姿は、まさに森の長老とも言うべき存在感だ。

 ガイドの案内で、グループごとに記念撮影をすることになった。5分ほど並んだところで由香里達の順番が回ってくる。


「はい、じゃあ撮りますよー」


 ガイドの一声で、3人は口角を上げて顔を作った。そうしてとっておきの一枚が撮影されようとしたまさにその瞬間―—由香里の鞄の中で呼び出し音が鳴った。

 3人は思わず視線を下げ、その瞬間にシャッター音が鳴った。もちろん誰もカメラ目線ではない。


「ごめん……。ちょっと待ってて! すぐ終わらせるから!」


 由香里は慌てて列の後方へと駆け出した。まったく、どうしてこうも図ったようなタイミングで連絡してくるのだ。由香里は腹立たしい思いで携帯を取り出して耳に当てた。


「もしもし、原田君!? 今度はどうしたの!?」


 さすがに苛立ちを隠す余裕はない。だが、通話口から聞こえてきたのは原田の声ではなかった。


『……あぁ、東さん? 僕、吉村だけど』


 由香里の動きがぴたりと止まった。慌てて声色を作り替える。


「あ、あぁ……すみません課長。てっきり原田君かと思って、失礼しました」


『いや、本当は僕も原田君に連絡してほしかったんだけどね。彼、もう東さんに連絡するの嫌っすよとか言って聞かなかったんだよ。それで仕方なく僕が連絡したってわけ』


 なんと、原田は昨日の約束を守ったというのか。由香里は原田に感謝の念が湧き上がると同時に、彼の今後が心配になった。


「……それで、今度はどうされたんですか? 私、業務の進捗状況については全て引継書に書いていたと思うんですが」


 由香里も小さな抵抗を試みたが、吉村は全く意に介していない様子で続けた。


『いやね、君が上げてくれたS社の営業成績報告書なんだけどさ、わからないとこがあるから教えてほしくて』


「……それ、今じゃないといけませんか? さすがに私も報告書の内容を全て記憶しているわけではありませんし……」


『そうなの? でも、君も今年から主任になったんだからさ、自分の案件くらいはきちんと把握して、いつ何を聞かれても答えられるようにしておくべきなんじゃない?」


 由香里は小さくため息をついた。詩織の言ったとおり、吉村課長は根っからの会社人間のようだ。自分が滅私奉公の生き方をしてきたから部下にも同じことを求める。その考えを変えることはきっと容易ではないのだろう。でも―—。


『もしもし? 東さん? 聞こえてる? 君の報告書なんだけどさ……』


「……課長」


 由香里が静かに吉村の言葉を遮った。自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。


「1人でも欠けたら回らない仕事って……何なんでしょうね」


 吉村が次の言葉を呑み込む気配がした。由香里は続けた。


「私達はいつもいつも仕事のことを考えてなきゃいけないんですか? たまには仕事から離れてゆっくりすることも許されないんですか? 会社のために個人を犠牲にして……それで私達は、本当に幸せになれるんですか?」


 吉村は答えなかった。由香里の言葉に感銘を受けているわけではないだろう。でも否定もしないということは、少なくとも耳を傾けようとしてくれているようだ。


「私は今夏休みなんです。年に数回しか会えない友達と、年に数回しか行けない旅行に来ているんです。これは私にとって何よりも大切な時間、誰にも譲るつもりはありません。

 だから私……もう電話には出ません。必要なことは全て引継書に書いてあります。誰か1人でも欠けた途端に仕事が止まるなら、それは仕事の方がおかしいんです」


 由香里はそう言って電話を切った。吉村が何か言った気がしたが構わなかった。そのまま電源を切って鞄の奥底に埋もれさせる。


「由香里、大丈夫? そろそろ出発するみたいよ」


 いつの間にか近くまで来ていた詩織と菜摘が声をかけてきた。由香里が振り返ると、腕時計を気にしながらこちらを見ているガイドと目が合った。


「うん、終わったから大丈夫。それに、もう電話には出ませんって課長にきっぱり言ったから」


「マジで!? じゃあこれからは邪魔されずに済むね!」菜摘が歓声を上げた。


「でも大丈夫? 後でまずいことにならない?」詩織が心配そうに尋ねてきた。


「うーん、その時はその時かな。先のことばっか心配してたら今が台無しになっちゃうし。あたしはもっと、2人と一緒にいられる時間を大事にしたいんだ」


 それこそが由香里の出した結論だった。会社のためではなく、自分のために生きること。自分にとって最も大切だと思えるものを守ること。私の時間は私だけのもの。誰にも脅かすことなど出来ない。

 晴れやかな由香里の表情を見て、詩織と菜摘も感じるものがあったのだろう。2人で顔を見合わせた後、由香里に笑顔を返してきた。


 由香里達が合流したところでガイドが人数を数え始めた。由香里と視線が合うと咎める目つきになり、由香里はばつが悪そうな笑みを浮かべて頭を下げた。こんな森の奥深くで職場からの電話に出るなんて場違いもいいところだろう。

 でも大丈夫。もうこの神聖な雰囲気をぶち壊すようなことはしない。森だけじゃない、あたしの夏休みにも、もう誰にも立ち入らせはしない。

 ガイドの先導で、一同は再び森の奥へと進み始めた。皆が新たな動植物との出会いに胸を弾ませている中、由香里は名残惜しそうにガジュマルの樹を見上げた。樹は来た時と変わらずにどっしりと構えて自分達を見下ろしている。その雄大な姿を見つめながら、由香里はひっそりと微笑んだ。

 あたしもこの大樹のように、いつでもブレない自分でいられるといい。仕事との狭間で悩むことがあっても、最後には自分の大事なものを取り戻せるような自分でありたい。そんなことを考えながら、由香里は大樹に別れを告げた。

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