第4話――雨の足音

 丘に沿って伸びる小道を歩き、いろいろな木々や草花を見て、昼には雨音とひなたのお手製の弁当を食べ、気づけば時刻はもう夕方だった。

 初夏の夕方だから、日はまだ高い。

 歩き疲れた僕と雨音とひなたは、森林公園のてっぺんの展望台にあるベンチに腰を下ろし、眼下に広がる街の風景を眺めていた。

 初夏のさわやかな風が吹き抜ける。風は緑の香りがした。

「今日は楽しかったです。わたし、きっと今日のこと、ずっと忘れないと思います」

 雨音が一言一言を噛みしめるように口にする。

 僕も同感だった。

 何をするわけでもない、ただ、三人で歩くだけ。やたらと張り合いたがる女の子二人に挟まれる格好で、三人で同じものを見て、三人で同じように驚いたり、喜んだり……。こんなに楽しい体験は、これまでの十数年の人生で初めてだった。

「私もまあまあ楽しかったわ。あんたがみーくんにべったりなのは気に入らなかったけど」

 ひなたも「まんざらでもなかった」というように笑って見せる。

 あれだけ張り合っていたのに、女って生き物は男には理解出来ない精神構造をしているのだろう。今ではまるでずっと前からの友人だったかのように微笑み合っている。

「ちょっと私お手洗いに行ってくるね。みーくん、くれぐれも雨音に変な願い事しちゃだめだよ?」

 軽く弾みをつけて、ひなたがベンチから立ち上がる。

 ああ、これはひなたなりの気の使い方なんだろう。「わたしが居ないうちに、最後の願い事しちゃいなさい」という。

 ひなたはゆっくりとした歩調で公衆トイレのある建物の方へと歩いて行く。

「では……そろそろ最後の願い事をおっしゃって下さい」

 雨音の静かな声が僕の耳に届く。

 最後の願い。

 これを叶えたら、雨音はきっと僕の前から消えてしまうのだろう。

 そんなのは……嫌だった。

「願い事、本当に何でもいいんだよね?」

「はい。でも、無限に願い事を増やせ、っていうのはダメですよ?」

 僕はすぅっと大きく息を吸い込むと、自分でもびっくりするほど大きな声で彼女に告げた。

「最後の願い事だ! 僕の友達になってくれ! 友達だ! 一緒にどこかに出かけたり、他愛のない話をしたり、そんな友達になってくれ!」

 ぎゅっと目を瞑って、絞り出すような声で僕は続ける。

「このまま僕の目の前からいなくなるなんて、そんなこと言わないでくれ! 願い事は何でもいいんだろう? だから、友達になってくれ!」

「……わかりました。わたしは今日からあなたの友達です」

 雨音は静かに応えてくれた。その声は、あまりに静かで、優しくて、透き通っているかのようだった。

 僕の心にほんの少しの希望の灯りがともる。でも、その灯りは厳しい現実の前に吹き消されてしまった。

「じゃあ……」

「でも、叶えられる願い事はあと一つだけです。だから……わたしはここには残れません。わたしの居た空に帰ります」

 膝の上で固く握られていた僕の拳に、細く柔らかな雨音の指がそっと触れてくる。

「大丈夫です。わたしは雨の精霊です。雨が降ったとき、わたしはあなたの傍に居ます。もう会えないわけじゃありませんから」

 雨音の声が、だんだんと遠いものになってくる。握りしめた拳の上から、雨音の指の感触が消えていく。僕は目を開けることが出来なかった。

「わたしから一つだけお願いしてもいいですか?」

 僕は歯を食いしばって目を閉じたまま、コクリと頷いた。

「あなたの名前を教えて下さい。友達なら、名前を知っていないと困るでしょう?」

「……広海。広い海って書いて、ひろみだ」

「広海……いい名前ですね」

 雨音の声はますます遠く、かすかなものになっていく。

「雨は地に降って、川となり、やがて広い海へ流れていきます。雨の日があれば陽の光にあふれた晴れの日もあります。私たちが友達になるのは、きっとずっと前から決められていたことですね」


 その時、頬にぽつりと冷たいものが当たった。


「また、いつか……会いましょう。わたしの大切なお友達……広海くん」

 

 ぽつり、ぽつり……。僕は固く閉じていた目をそっと開く。

 ベンチの隣に座っていた雨音の姿はもうなかった。

 空は晴れているのに、太陽は輝いているのに、小さな雨粒が、ぱらぱらと僕の周りに降り注ぐ。突然の天気雨だった。

 ああ、これは雨音の僕たちへの挨拶なんだと僕は感じた。

 雨粒とは違う、熱い滴が頬を伝う。

「行っちゃったのね……」

 いつの間にか戻ってきていたひなたが、僕の隣に腰を下ろす。

「信じられないけど、本当に雨の精霊だったのね、あの子」

「うん。最後にきっちり願い事を叶えて、それから帰って行ったよ。」


 雨はまだ降っている。

 陽の光を反射しながら、ぱらぱら、きらきらと。


「最後の願い事、何にしたの?」

「それは内緒だよ」

「そっか。でも、大体想像がつくわ。もし私がみーくんだったら、こういうもの。『私と友達になって下さい』ってね」

 そうか。雨音はひなたとも友達になれたんだ。

 いや、もしかしたらライバルなのかな? でも、何についてのライバルだろう。僕は雨音とひなたが何故あんなに張り合っていたのかが今ひとつ理解出来ないでいた。

 まあいいさ。僕の貧相な想像力では、到底正解にはたどり着きそうにない。だから、僕は考えるのをやめた。

 僕だけでなく、ひなたという友達にも雨音は別れの挨拶の雨を降らせているのだ。また会いましょう、と。それで十分じゃないか。

 西に傾きはじめた太陽に照らされながら、僕たちは雨音の去っていく足音のような天気雨に濡れていた。

 雨がやむまで、ずっと。


                                 おわり

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雨の足音 東 尭良 @east_JP

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