お腹がパンパンバレンタイン

 逆に考えれば、この七つの皿のお寿司をわたしは独占できるわけです。誰の邪魔も入りません。さらには、スパークリングなロゼワインも、丸々一本ひとり占めです。横取りされる心配はありません。今は唖然とするよりむしろ、感謝と愉悦に浸るべき時です! そう思い直しました。祝砲を放ちましょう!


 ポンッ!


 ワインの栓を抜きました。さあ、歓喜の宴です! ビール(発泡酒)や缶チューハイとは違う、粒の大きな泡がグラスの中でシュワシュワと湧き立ちます。スパークリング! 白のシャープさをいくぶん穏やかにして、赤のボディを若干併せ持ったバランスの良い存在感が、わたしの喉を駆け抜けます。きたー! この時を待ってました!


 さて、お寿司です。どれからいこうかな~。迷いましたが、まずは基本のマグロにしましょう!

 ……ああ……赤身、やっぱり好きです。濃いけどさっぱりしてて、シャリという相方とのコントラストで魅せるスタイルです。醤油とわさびが、それをさらに引き立てます。期待通りにパーフェクトです! 響きます。余韻さえもおいしくいただけます。何を言っているのでしょうか。そこへワインを流し込みます。びっくり! 全然ケンカしません! 管楽器どうしのアンサンブルみたいだと思いました。


 次は、サーモン、いきましょう! お魚どうしの違いを楽しみます。

 なるほどなるほど、このなめらかな質感は、マグロとはまったく別物です。当たり前ですけど。そして、サーモンと言えばこの香り! なんだか、懐かしささえ覚えてしまいます。新鮮だけど、親近感、みたいな感じでしょうか。脂も。しつこくないけど伸びがあります。シャリを包み込み、そして溶け合うハーモニーです。ノルウェーの人たちに感謝です。今日買ってきたこれはチリ産って書いてありましたけど。そういえば、このワインもチリ産でした。だから、というわけではないですが、相性もバッでした。これまた味わいを補完しつつ、脂と炭酸の組み合わせには、一定のカタルシスがあります。


 続いて。ホタテです! 貝柱だけをこうして味わうなんて、とても贅沢だと思います!

 おほほ! とても上品でとろっとしてて、ふわふわ感さえありますわ! しかも、噛めば噛むほど、より味わいが濃くなると言いましょうか……奥が深いです! 貝だけに。コホン! ここはちょっとワインのほうが強かったかもしれません。ちょっとだけですけど。でも、それはそれでありだと思いました!


 ではでは……お稲荷さんもいってみましょうか。スンスンと匂いを嗅いでみます。これまたお上品な匂いがします。めんつゆを入れたのはほんの少しだったのに、かなり効いてます。

 がぶり、と噛んだ瞬間、じゅわっとジューシーが炸裂しました。すごいです! 味の濃さは控えめな仕上がりで、油抜きもしっかりやりましたので、はんなりさっぱりの色白なお稲荷さんといった感じです。これはどんどんいけちゃいます。いけるかな? とにかくおいしいです。ワインとの相性は……まあ、普通でした。



 と、滑り出しは絶好調でしたが、さすがにさすがに、終盤戦で箸が止まりました。はい。もうお腹がパンパンです。今、最期のホタテを飲み込みましたが、マグロとサーモンとお稲荷さんが……まだ残ってます。わたしは炭酸には強いタイプでして、それでお腹が膨れるということは無いので、ワインのせいじゃなく純粋にお寿司でパンパンです。ギョーザの時と違って、絶食していたわけではなかったので、限界が来るのも早かったと言いますか……無念です……。

 さて、どうしましょう。というか、どうしましょう。お稲荷さんは明日に持ち越せそうですが、握りはダメです、生ものですから。もったいないです。せっかく作ったのに、せっかくおいしいのに……。


 その時でした。わたしの後ろの方で、喇叭らっぱのような大きな声がするのを聞きました。


『ちょっと作りすぎまして……これ、よかったら、食べてもらえません?』


 あっ、そういえば……! よく漫画なんかで、そんなシーンがあったような? ありましたっけ? 何でしたっけ? 読んだことありましたっけ?


 ……でも、そんな概念があったような気がします。

 そして今、そんな啓示を受けたような気がします!


 つまり、お隣さんに、作りすぎた料理をおすそ分けしちゃうというお話です。えっ、これってもしかして、新しい出会い的なフラグ的な何かですか? そっ、そんなことって実際にあるんでしょうか?


 冷静になりましょう。私の家は、というか部屋は、ここのワンルームマンションの一階です。もう住んで二年になりますが、両隣にどんな人が住んでるのかは知りません。わかりません。もしかしたら誰も住んでいない空き部屋かもしれません。その可能性はありますが、そうじゃなければ、わたしと同じひとり暮らしの、つまり独身の、誰かです。学生かもしれませんし、社会人かもしれません。そして、男の人かもしれませんし、女の人かもしれません。この場合、どれが来ると当たりなんでしょうか? というか、当たりってなんですか?!


 冷静さが足りてませんでした。落ち着きましょう。今の第一の目的は、この食べきれなかったお寿司たちの行き先を見つけてあげることです。新たな出会いだなんて、そんな邪念は捨て去りましょう。いくら今日がバレンタインデーだからといって、お寿司を渡す女子なんて、普通に考えておかしいです。そんな私事は脇に置いておいて! もう夜の九時になっちゃいます! 早くしないと非常識です! いえ、すでに十分非常識な時間帯ですけど!


 わたしは心のどこかでやっぱり、新しい出会いに期待していたのでしょう。一番見栄えのするお皿に、菜箸を使って残ったお寿司をせっせとまとめ、ラップをして、ドキドキにワクワクさえ混ぜこんで、マンションの廊下に出て、左隣の部屋のピンポンを押したのでした。とても大胆だったと思います。外はまだ雨が降ってました。


『……はい?』

「あっ、すみません夜分遅くに! あのっ、と、隣に住んでる大道寺と言いますがっ! がっ!」

『はい……』


 男の人の声でした。ドキドキがドキンドキンになるのがわかりました。すぐに、内側からガチャンガチャンと鍵を開ける音がして、そしてドアが開きました。

 その中にいたのは、おそらく社会人の男の人で、わたしより五つは年上に見えました。お兄さんです。背が高くて、肩幅もあって、ガッチリしてて……目が泳いじゃいました。顔を合わせるのがとても恥ずかしい気がして、わたしはうつむいちゃいました。さっきまでの大胆さは消え失せちゃってました。俯いたまま、わずかに残っていた勇気を出し尽くして、わたしは言いました。


「あっ、あのっ、これ! 食べてもらえませんか!」

「えっ?」

「す、すみません、ちょっと握りすぎちゃいまして……」

 

 握りすぎとは、一体なんなんでしょう。お寿司を握りすぎておすそ分けとは、一体なんなんでしょう。こんな遅い時間に、初対面の男性相手に、一体わたしは何をしているんでしょう。なんだかもう、すごく自分が情けない気がしてきて、でもお腹はパンパンで、本当にわけがわかりません。これで断られたら、わたしはもうほかの部屋のピンポンが押せる気がしません。なんとか……なんとか、受け取って欲しい。あつかましくも、しまいにはわたしはそう願ってました……なんとか、なんとか……!


「え、頂いちゃっていいんですか?」

 なんと! そんな声が聞こえました!

「えっ! いいんですか?!」

 思わず聞き返しちゃいました!

「え、あ、はい……?」

「あっ、いえっ、じゃなくてはい! あ、ありがとうございます! どうぞどうぞどうぞ! おいしかったですよ! じゃなくて! お口に合うかどうかわかりませんが! 毒とかは入ってませんので! ひー!」

「はい……」

 お兄さんは呆気あっけにとられてます。

「お皿は玄関先に置いておいて下さいー! 失礼しました! ではっ!」


 言うだけのことを言うだけで精一杯で、私は逃げるように自分の部屋のドアを開けて中へ入り、バタンと閉めちゃいました。ああ、まさかまさか、あんな快く受け取ってくれるなんて思いもしませんでした。感じのいい人でした。

 と言っても、あんまりちゃんと顔を見れませんでしたけど。髪の毛が濡れてたのは、お風呂あがりだったのだと思います。服も部屋着っぽかったので。でもダサくないおしゃれな部屋着でした。うちのお父さんとは大違いです。わたしはすぐ俯いてしまったので、それだけは見えました。もしちゃんと顔を上げていたら、お兄さんの顔に見覚えがあったことに気づけたでしょう。この時はわかりませんでした。


「ぎゃひー……」


 とにかくわたしは、すごく恥ずかしいことをした気がしてしまってました。キッチンの後片付けをしながら、そんな気分を拭い去ろうと、ワインの残りをぐいぐいと飲みました。もうお風呂には入ってましたから、歯を磨いて、そしてベッドに飛び込みました。さっきのことをまた思い出してしまい、何か別のことを考えようと抵抗しているうちに、寝ちゃってました。


 こうして今年のバレンタインデーは終わりました。買ってきたチョコレートは冷蔵庫に入れっぱなしで、食べるのをすっかり忘れてました。


                             ~つづく






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腹ペコ海香のひとりぼっち料理帖 黒猫 @chot_soyer

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