空に走る

無月弟(無月蒼)

太陽と月のような

『海が太陽のきらり』―—消去。

『葉桜の君に』―—消去。

『雪を溶く熱』―—消去。


 パソコンに保存してあった書きかけの小説を、次々と消していく。

 いや、あれらは小説と呼べるような代物じゃない、ただの駄文だった。だから全部、消去してやったんだ。


 いくら書いても、できるのは酷いものばかり。とても元作家が書く文章とは思えずに、ここまでくるといっそ笑えてくる。

 最愛の夫、橘詞がこの世を去ったあの日。きっと作家としての私は、彼と一緒に死んでしまったのだろう。

 あの日以来私、橘葵は、小説を一切書けなくなってしまった。


 ……詞のバカ、必ず帰ってくるって言ったのに。


 大きなプロジェクトに関わっていた彼は数年……あるいは数十年かかる大仕事を成し遂げるために、遠くへ旅立っていた。

 会えなくなるのは寂しかったけど、詞には詞のやりたい事、やるべき事があったから、背中を押して送り出したのに。あの時見せてくれた笑顔を最後に、二度と会えなくなるだなんて。


 詞が旅立ってから数年が経ったある日、向こうで事故が起きて、詞が亡くなったと知らされた時、私の中にあった何かが壊れた。


 どうやら私は、自分で思っていたよりもずっと、詞のことが好きだったらしい。

 ひとつ年上の幼馴染み。気が弱くて、引っ込み思案だった私の手を、ずっと手を引いてくれていた詞。


 そんな詞が死んだ後も、私の生活はさほど変わりはなかった。

 朝起きて、ご飯を食べて、小説を書く。なのにパソコンを前にしても書けない、書けないのだ。


 物語を書けなくなった作家に、価値は無い。

 私の担当編集者だった基山皐月さんは、最後まで励まし続けてくれたけど、結局調子は戻らずに。やがて、会社との契約は打ち切られた。


 別にショックではなかった。ただ、そんなショックを受けなかった自分は、本当にもう脱け殻なんだって、まるで他人事のように思えて。ただ虚しく思えた。


 それからまた時が経って。何か書けないかと思って、時々こうしてパソコンと向き合ってはいるけど、結局は何も変わらないまま。


 巷に雨が降るごとく、我が心にも雨が降る……。たしか、ヴェルレーヌの詩だっけ。

 詞が死んだ時からずっと、私の心には雨が降っている。それは決して止むことのない、冷たい雨。


 パソコンに表示されている真っ白なWordを眺めながら、ため息をついた。

 きっと私はもう二度と物語を作ることなく、抜け殻のように年老いて行くのだろう。詞のいない、この世界で……。



 ――ピコン。

 メールを受信しました。



 ……珍しい。パソコンにメールが届くのなんて、いつ以来だろう。

 アイコンをクリックしてメール画面を表示させて……息を飲んだ。


 メールの送り主は、死んだはずの詞だった。



 ◇◆◇◆◇◆◇◆



 詞が旅立って行った場所。それは空よりもさらに先にある、宇宙だった。


 増加の一途をたどる人口問題の解決を宇宙に求めた、フロンティア計画。

 人類が移り住む新たな星を発見すべく、外宇宙を旅していく。若くしてそんな大きなプロジェクトの一員に選ばれて、宇宙船に乗り、地球を旅立って行った詞。


 彼は太陽のような人で、対して私は月だった。

 月は、太陽が無いと輝くことができない。詞が何光年も離れた場所に行くことで、私達の間には太陽と月よりも遥かに遠い距離ができてしまったけれど、それでも彼は私を照らして、輝かせてくれていた。あの日までは……。


 遠い宇宙の果てで、起きた事故。ワープに失敗した宇宙船が消息を絶って、乗組員が全員死亡したというニュースは、当時大きな話題となったけど、私にとってそれは、受け入れられるものではなかった。


 それまでだって離れていたのに。詞はもういない、二度と会うことができないんだって思うと、それからは全てがどうでもよくなっていった。

 何をするにもやる気というものが起きないし、小説も書けない。全てがどうでもよくなっていった。だけど……。


 デスクトップに表示された、詞からのメール。

 激しく動くことを忘れていた心臓が、慌ただしく鼓動を刻みはじめる。


 震える指でマウスを動かしながらメールを開くと、綴られた言葉が画面いっぱいに表示された。



『未来の葵へ。そっちは、元気でやってる?

 こっちは少しまずいことになって、もしかしたらこれが、最後の連絡になるかもしれない。


 一つ約束してくれ。もしも俺が戻らなくても、俺の分までしっかり生きるって。

 必ず帰るって約束を果たせそうにないのに、こんな事を頼むなんて図々しい話だけど、お願いだ。


 俺は葵の書く物語が好きだから。

 俺が夢を求めて遠くまで来たように、葵は地球でペンを走らせて、素敵な物語を書いてほしい。


 きっと大丈夫。葵ならできるから』



 読み終えた後、目から涙が零れていることに気がついた。


 言いたいことだけを捲し立てた、一方的な文章。だけどどうしてこんなに、胸が熱くなっているのだろう。


「詞っ……詞ぁっ!」


 気がつけば、声を上げて叫んでいた。

 それは私の中に火が灯った瞬間。凍てついていた心は溶かされ、止まっていた時がようやく動き出す。


 詞……また、逢えたわね。

 募っていた寂しさが、悲しみ、切なさが、涙となって溢れ落ちていく。

 後に残るのは愛しさ。望んでいた形とは違うけれど、再び逢うことのできた大切な人への、激しいほどの愛しさだった。



 消息を絶った宇宙船の乗組員達から送られたメールが、次々と家族の元へ届いたというニュースが世間を騒がせたのは、それから間もなくの事だった。



◇◆◇◆◇◆◇◆



 宇宙船の事故は船が沈む直前に、緊急用の特殊通信によって知らされていた。

 連絡を受けたプロジェクト本部はあらゆる手段を駆使して船の安否を確認したけれど、それは悲しい現実を裏付けただけだった。


 だけど事故から数年が経って、どうして急にメールが届くようになったのか。その理由は、宇宙船が地球から数光年も離れた所にいたのが原因だった。


 光の早さでも数年かかる距離。つまりそこから放たれた電波は、地球に到達するまで数年を有するということ。

 だから本来はメールとは違う、特殊な通信方法を用いて連絡を行っていたのだけど……。


 大きな事故に遭い、死を覚悟した乗組員達。せめて最後に家族や愛する人達に何か言葉を残したいと思ったけれど、普通の方法ではとても全員分のメッセージを送る時間はない。


 だから各自持っているパソコンを使って、メールという方法で最後の連絡を試みた。

 届くまで、大きな時を有することは分かっていただろう。もしかしたら、届かない可能性だってあったかもしれない。

 だけどそれでも伝えたくて。放たれた電波は、ずっと暗い暗黒の宇宙を旅してきた。


 感謝の気持ち、別れの言葉、生きた証……。それらがつまったメールは長い年月を経て、ようやく地球へと届いた。愛する人達の元へ。

 そんなことを、テレビで偉い学者さんが言っていたっけ。


 旦那がプロジェクトの一員にも関わらず、難しいことはてんで分からない非理系の私は、それを受け流すように聞いただけ。正直、メールが届いた経緯なんてあんまり気にならなかった。

 二度と会うことのできない詞からメールが届いた。それだけで、心が満たされるには十分だったから。


 詞からのメールを読み返すのが、もうすっかり日課となっている。

 パソコンの画面に表示された、愛する人からの言葉。私に再び走り出す力をくれたこのメールは、きっと一生大事にとっておくことだろう。


 窓の外に目をやると雨が降っていて、だけど太陽が輝いている。

 雨が降っているのに晴れている、お天気雨。それはまるで、今の私の心を表しているよう。


 詞が死んでから心の中に降りだした雨は、今も止まずにいる。最愛の人を亡くした悲しみは、きっと一生癒えることはないだろう。

 だけど雨は降っているけれど、もう前みたいに全てがどうでもいいなんて思っていない。

 だって約束したから。詞の分まで、しっかり生きるって。詞という太陽はいなくなっても、月はいつもここにあるって、わかったから。


 メールを受け取った後、私は数年ぶりに物語を書くことができた。

 出版社の契約は切れていたけど、担当編集者だった皐月さんが上と掛け合ってくれて、書籍化が決まったよ。


 ファンタジー小説で、空にあるって言われている天空の島を目指して、飛行船に乗って冒険の旅に出る男の子のお話。

 え、主人公が誰かに似てるって? ふふふ、気のせいじゃないの。

 タイトルは、『空に走る』。私の最高傑作よ。

 

 ねえ詞、天国なんてあるのかな?

 もしもあるのなら、これからも空の上から、私を照らしていてね。



 了

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空に走る 無月弟(無月蒼) @mutukitukuyomi

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