カリンバを片手に

鎌上礼羽

カリンバを片手に

 私は瀬戸内海を望む駅で下車をした。改札すらないひなびた駅のプラットホームのベンチに座って、リュックサックからカリンバを取り出した。一番長い鍵盤を親指で弾いてポロンと音を流す。随分と遠くまで来た。五度ほどの乗り換えをしただろうか。


 今朝の登校中、どうした事か大阪駅の乗り換えでいつも通りの電車に乗れなかった。満員電車に押し込まれたときに急に息苦しくなって慌てて抜け出した。物理的に潰される閉塞感だけではなくて、水に溺れてしまったような感覚がした。途方に暮れて駅構内を彷徨って二時間が経過した頃、何の気なしに西方面に向かう電車に乗り込んだ。四国に海が綺麗な駅があると聞いたことがあった。お金はなんとか足りそう。目的なんてなかったけど嫌な記憶の染みついたこの街から離れたくてそこへ行くことにしたんだ。


「歩くか。」


 平日の昼間にも関わらず、絶景スポットとして有名なこの駅には一眼レフカメラでしきりに景色を撮る人の姿があった。独りで穏やかな内海の景色を味わいたかった。

 カリンバを片手に歩いていると、いい塩梅の堤防があったので腰を下ろした。リュックサックを横において遠くを眺める。

 恵美(えみ)もここへ来れば死んだりしなかっただろうか。波の立たない茫漠たる海を見て私の心も凪いだのだ。こうして生きている私には恵美の気持ちは分からない。恵美を苦しめた理由はいくらでも思い付くけれど、死のうとしたことは理解ができなかった。とはいえ私が親友を失っても尚、何故生きているのかと問われたら答えなんてなかった。

 リュックサックから一枚の紙切れを取り出す。これは恵美が云ってしまった前日すなわち一昨日、彼女から教室でカリンバとセットにして渡されたものだ。


「恵美、大丈夫? 着替えないと。」


 一昨日私が朝礼の開始を待っていると、恵美が私の隣の席に着席した。爽やかな秋晴れなのに彼女の髪とワイシャツはずぶ濡れだった。私も時々そんなことがあるけれど、着替えなくては気持ち悪い。しかし彼女は着替えそっちのけで鞄を漁っていた。


「よかった、濡れてないみたい。これ、朱里(あかり)ちゃんにプレゼントしようと思って。」


 恵美は防水対策のビニール袋に入ったカリンバと封筒を取り出した。


「何これ?」


 一昨日までの私はカリンバなんて見たことも聞いたこともなくて、最初は楽器だとすら認識しなかった。手のひらサイズの木箱の上に、長さの違う金属の板がお行儀よく並んでいる外見は、鉄琴にも似ているようだった。


「カリンバ。アフリカの楽器なんだけどね、金属の鍵盤を親指ではじくとオルゴールみたいな音が鳴って素敵だよ。明日、朱里ちゃんの誕生日だからプレゼントね。」


 誰にかけられたか知らない水に濡れていたとしても、にこにこと私にプレゼントをしていた恵美が翌日に自殺を決行するなんて考えてもみなかった。


「へぇ、ありがとう。弾いてみるよ。」


 音楽に自ら触れた試しもない人生だったがカリンバとやら、難しくはなさそうだ。


「お手紙入れてあるけど、明日まで読んだら駄目だよ。」


 恵美は誕生日前日に渡しておきながら、当日まで開封するなと不可解なお願いをしてジャージを持って教室を出て行った。


 親友の死と共に迎えた誕生日は人生で最悪な気分だった。今も恵美から貰った手紙は未開封だ。

 私だって恵美と同じく虐められていたけど、二人なら苦痛も乗り越えられる気がしていた。ところが、これも虐めに真っ向から向き合えず及び腰な自分を肯定するための都合の良い解釈だったのかもしれない。友人でありながら彼女の気持ちを察せずに、私は何の策も労せずただ耐えるという選択をしてしまっていた。

 死にたくなるほど恨んだ世界で彼女が遺書として記した手紙には、現実から逃げ続けていた自分を詰る(なじる)言葉が綴られているかもしれない。そんな不安から開封できずにずっと荒れ模様だった私の心は、さざ波の海を前にして静まってきていた。

 私は開封するならば今しかないと確信し、大いなる海の力を得て封筒を開いた。


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朱里ちゃんへ


お誕生日おめでとう!

WBTBSHIHBBNBTBTOITESHIBWBSEDBTTB.


カリンバ用の楽譜を載せるね。カリンバの各鍵盤に刻印された番号通りに弾くと、朱里ちゃんも知っている曲になるはずだよ。いっぱい練習してくれると嬉しいな。


右手: 3*3*3*3*2*3*6*3*2*2* 2*2*2*2*1*2*5*2*1*71* 67 ・・・・

左手: 4 5 72*1 6 3 ・・・・


恵美より

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「えっ?」


 私を批判する言葉は愚か、手紙の大部分は楽譜に割かれていて、恵美の胸中が少しでも見えるかと思って開いた手紙からは何も読み取れない。と、思ったが二行目に謎のアルファベット配列がある。もしやこれを読めば恵美の思いが分かるのではないか。


「ワビテビシハビ・・・」


 英語とも日本語とも言えない文字列は口にしてもやっぱり分からない。こういうことって苦手だ。いくら頭を捻ったところで名案が出てこない。一度手紙から目を離してお茶を口に含んで、海と空の境目を見てみた。


「あー。」


 私は恵美からの手紙の一行ですら理解してあげられないのか。こみ上げてきた苛立ちを海へと発散させた。

 焦りは禁物だ、落ち着け。こうして再び手紙を見てみると、手紙のほとんどが楽譜の数字で埋められていることに気づかされる。更に恵美は前日、音楽経験のない私にわざわざカリンバをプレゼントしたのだ。彼女の伝えたいことを受け取るのにはカリンバを演奏するのが重要なのではないだろうか。もしかすると、カリンバの演奏がアルファベット配列を理解するのには大事なのかもしれない。

 私はカリンバを両手に持って鍵盤の番号をたどって弾き始めた。時間経過なんて忘れて、とてもメロディーが分からないようなたどたどしいリズムでポロンポロンと鳴らしていった。

 私が下手なせいか長距離運搬のせいなのか歪んだ音がときどき鳴っていたけれど、日が傾く頃には恵美が載せた楽譜の正体が見えてきた。恵美も好きで超有名なアニメ映画の挿入歌だ。だけど、この曲を私にいっぱい練習してほしいという意味が分からない。二人の特別な思い出なんかはなかった。


「何で。」


 目から涙が零れ落ちた。いくらカリンバを奏でてもやっぱり恵美が理解できない。夕暮れの堤防で私はもう自棄に(やけに)なりながら、憑りつかれたように弾き続けていた。それはもう恵美が細心の注意を払っていたカリンバを涙で濡らしてしまっていることにすら気が付けないほどだった。


「カリンバですか、珍しいですね。」


 ふいに背後から声を掛けられた。ハッとして顔を上げたら辺りは薄暗くなっていた。


「あ、はい。」


 朝から食事も疎かにしていた私の声は掠れていた。振り返ると若い男性がこちらを向いていた。常時であれば、独りで日暮れに若い男性から話しかけられるというのは中々怖いシチュエーションだが、私はいっぱいいっぱいでその点は気に留めていなかった。


「何を弾かれていたのですか?」


 口調からして紳士的な印象を持った。カリンバを知っているわけだし、ともすると男性は音楽に造詣が深いのかもしれない。


「カリンバをくれた友人の手紙に書いてあった、番号の楽譜を練習していました。曲名は書かれていませんでしたが。」

「それは素敵ですね。良ければ聴かせていただけませんか?」


 男性は興味津々といった様子で堤防に座って、ちゃっかり聴く態勢になっている。暇を持て余しているようにも見える。


「あの、少しお時間いただいてもよろしいですか?」


 私は藁にも縋る思いで尋ねた。困り果てていたところでやってきた音楽の有識者らしき人だ。


「ええ、構いませんが。私は散歩をしていたところですから。」


 私からの突然のお願いに男性は一旦は驚いたような素振りをしながらも、即座に落ち着いた態度になったことを確認して私は続けた。


「友人からの手紙ってこれなんです。カリンバと一緒にプレゼントしてもらったのですが、この部分を読み解けませんか?」


 今日の内に膝の上で縒れて(よれて)しまった手紙を男性に見せた。いつまで経っても読み解けない暗号配列を指さすと、男性は手紙を手に取ってじっと見つめて言った。


「なるほど、ありがとうございました。期待をさせすぎてしまっては申し訳ないですが、解く筋道は分かった気がします。」

「本当ですか!」


 男性はしっかりと忠告をしているのに、私は羨望の眼差しを向けざるをおえない。苦節半日ほど何の手掛かりも得られていなかった私にとって男性の言葉は十分すぎた。私の左右の親指はすっかり赤く腫れあがっていた。


「そうですね。やはり、あなたが練習していた曲を弾いてもらう必要があると思います。ご友人はカリンバをプレゼントされていますし、文面からも演奏を強く望んでいることが伺えますから、そこに種があると考えて良いかと思います。」


 ここまでの私の想定と寸分違わぬ考え方だ。私が長時間をかけてカリンバを弾き続けていたことが無意味ではなかった嬉しさ反面、単純すぎる推理に不信感も募った。しかし私には他の糸口も掴めていないわけだし、可能性のあるかぎり弾くことにした。


「はい、わかりました。弾いてみますね。」


 何時間も奏で続けて指に馴染んだ旋律を再現するようにして弾き始めた。改めて聞くと所々歪な音があれどもカリンバの音色の美しさを実感させられる。指はヒリヒリと痛んだ。


「ありがとうございます。」


 男性はそう言って私の演奏を制止した。演奏開始から一分にも満たない早さであった。まさか恵美からのメッセージが分かったというのだろうか。


「え、分かったんですか?」

「はい、なんとなく。」


 そのまさかであった。一瞬にして解決するこの男性、相当の切れ者なのだろうか。ポロシャツにジーパン姿だったが聡明な雰囲気は確かに漂っている。


「教えていただけますか?」


 ただ、私にとっては男性が何者であるかよりも、暗号の答えが重要だ。男性とはこれっきりの関係だろうから。


「もちろんです。では、カリンバを貸していただけますか?」


 私は言われたままにカリンバを男性の掌に置いた。祈る気持ちを込めて恵美からのプレゼントを託した。「失礼します。」と言って男性は受け取ると一番長い鍵盤、1の鍵盤を指で弾いて尋ねた。


「こちらの音階は分かりますか?」


 私は音痴ではないけれど、生憎絶対音感はない。


「いえ、1の音としか。」


 男性は何かに納得したように頷いて質問を続けた。


「失礼ですが、音楽の経験はございますか?」

「いいえ、全くありません。音楽の授業だけです。」


 その通りなのだが、絶対音感がないということで音楽経験がないことを察したのだろうか。それとも演奏の様子で判断したのだろうか。


「それをご友人も知っていたのではないでしょうか? 手紙を最初に拝見したときに、五線譜の楽譜ではなくて番号のみが並んだ楽譜というのに違和感がありました。カリンバは音階に合わせて鍵盤に番号が刻まれたものも多く、五線譜の音符ごとにその番号が添えられた初学者向けのカリンバ用楽譜というものも流通しています。ですが、五線譜がなければリズムが分かりませんから一般的にはありえません。今回は手紙という書式の為や、リズムの指示が無くとも分かってしまうほどの有名楽曲であったという理由も思い浮かびましたが、恐らく何よりも楽譜を読むことに不慣れなあなたを思ってのことでしょう。番号を追えば演奏が出来ると伝えるだけなので、混乱を来す要素はありませんよね。」


 ああ、手紙から分かったのか。当初は五線譜ではないので驚いたが、カリンバとしては一般的なものかと思っていた。


「確かに、何とか弾くことができました。」


 むしろ、五線譜の音符の読み方に自信がなかったので有り難く感じたほどだ。


「実はこの暗号、音楽に一度でも慣れ親しんだことのある人にとってはそれほど難しいものではありません。ちょっと注意深く聞いてみていただけますか。」


 すると男性は1の音から順番に指で弾いて私に聴かせた。


「どれか変だと感じる音はありませんでしたか?」

「あ、6の音が変だと思います。」


 一音ずつ順に音を聞けば、6の音に歴然としたズレを感じた。演奏中に歪んだハーモニーを作っていたのはこれか。


「はい、この音だけ調律がずれています。それも恣意的なまでにです。」

「恣意的ということは恵美がわざと正解の音からずらしたということですか?」


 男性が恣意的だというのであれば、きっとこれは一般的には有り得ないほどの音のズレだということなのだろう。


「そういう意味ですね。6の音は実は他の音に近づけてあるのですが分かりますか?」


 また男性は鍵盤を順番通り鳴らした。


「7の音ですか?」


 用心深く聴くと音と音の幅が異様に狭い部分があった。6から7の間で音の違いがあまり感じられない。


「はい、もちろんぴったりと同じではありませんが。ところで先ほどあなたがおっしゃっていた1の音ですが、この鍵盤にはアルファベットのCも刻まれていますよね。」

「本当ですね。」


 練習中は番号ばかりに必死になっていて、視野が狭くなっていた。今になって見ると、全ての鍵盤には番号に加えてアルファベットも刻まれていた。一度は目に入っていたかもしれないが、意味が分からないので頭から排除していたのだろう。


「Cは音階のドをアルファベットで表記したものなんです。ドからシまでの音階にはそれぞれアルファベット表記ありましてね。音楽経験のある人であれば、アルファベット表記が目に入ればドからシの音階に置き換えて呼ぶ人が多いかと思います。ですが、あなたは仕切りに音を番号で呼んでいたものですから。」


 そっか、あのときに私の音楽未経験を確信したわけか。男性は更に説明を続けた。


「調律の狂っている6の鍵盤にはAと書いてありますから、本来はラの音ということになります。そして7の鍵盤はBと書いてあってシの音です。これでいかがでしょうか。暗号が読めませんか?」


 やっとカリンバの音とアルファベットが結び付いたのだった。音階にアルファベットの表記があるなんて発想は毛頭なかった。挙句、故意に音が変えられているなんて。


「6が7の音に近づけられていたということは6が7になっていると捉えられるから、原文のAがBになっているということか!」


 私は直ぐに手紙を手に取って、暗号配列のBをAに置き換えて隠された原文をつくった。


=====================================================

WATASHIHAANATATOITESHIAWASEDATTA.

=====================================================


「ワタシハアナタトイテシアワセダッタ。」


 噓つき、幸せだったら死んだりしないはずだ。最後の最後まで私が気に病まないようにするなんて本当にお人好し。恵美は死後の私のことまで分かってくれているのに。


「ご友人は亡くなったのですね。」

「はい、昨日。」


 悔しさと寂しさと悲しさと思い出がぐちゃぐちゃに混ざってしまって泣けてきた。ようやく、恵美は確かに死んでしまったのだという実感がこみ上げてきていたのだ。


「それはお悔やみ申し上げます。」


 堤防で話しかけた女子高生に泣かれてはさぞかし困っているだろう。男性は席を外して帰ってしまうものかと思えば、私が落ち着くまで静かに隣に座っていた。堤防に押し寄せる波音だけが聞こえる。


「不謹慎でしたらすみませんが、ご友人は何故暗号にされたと思いますか?」


 そして男性は私が泣かなくなったのを見計らって再び話し始めた。


「何故でしょうか、昨日から恵美の考えていたことがさっぱり分からないんです。教えていただけますか。」


 私は涙声で揺れていて泣き疲れて思考が止まりかけていた。丸投げをしたところで男性は恐らく答えを持っているのだろう。


「こちらはお誕生日プレゼントのようですが、ご友人から開封日の指定はありましたか?」

「はい、一昨日に渡されたのですが友人の誕生日は昨日だったので、誕生日の当日まで開封をしないようにと言われていて、結局ここで開きました。」

「そうですか。」


 男性は私の返答を聞いて悲しげな顔で俯いた。


「初めに暗号の意味ですが、仮にそのまま『私はあなたといて幸せだった。』と書かれた文面を見たら普通の人間は自殺を疑うでしょう。しかし手紙は自殺を決行する当日には登校できないので前日までには渡さなくてはならない。あなたはご友人からの言付けを守ったようですが、万が一手紙を前日に読まれても悟られないようにする工夫として暗号があったと思います。

 そして暗号の性質もよく練られていると思います。あなたが音楽未経験であることを踏まえると、アルファベットと音階が容易には結び付けられないでしょうが、何人か尋ねていればいずれ解ける程度の難易度です。暗号の短さは、最低限にして規則性を分かりにくくする意味もあるでしょうね。既にBの比率が多くなっていますから、これ以上の長さでは正当法以外で直ぐに解かれてしまう可能性が高まってしまいます。一日の間だけ隠すための暗号としては大変優れていると感じました。

 最後に、暗号をあなたに解かせる上では手紙と同時にカリンバを渡す必要がありますよね。だからカリンバと手紙をセットに贈っても違和感の生じにくいあなたの誕生日を選んだ。

 ご友人の行動からの推測にすぎませんが、その計画性の高さや周囲に阻止されないための作戦の綿密さから、長期にわたる彼女の自殺への強い意志を感じます。」


 私は唖然とした。男性の観察眼にも驚いたが、


「そんなに死にたいなんて、苦しんでいたなんて分からなかった。」


 私の目は節穴だったのかもしれない。放課後、恵美と一緒に辛いことを笑い飛ばしていた私は何を見ていたのだろう。


「仕方ありませんよ。今し方言った通り、ご本人が巧妙に隠されていたのですから。」


 そんなこと知っている。


「でも、友達だったんです。」


 目立ったSOSであれば見逃すはずがないけど、秘めた心であっても気づくのが友達ではなかろうか。


「ご友人が暗号にしてまで伝えたかった言葉をもっとよく噛み砕いてください。『私はあなたといて幸せだった。』書いているのですよ。少なからずあなたといた時間は幸せだったということですから、あなたの感知しない所で悩みがあったということでしょう? 友達と全てを分かち合えるはずだというのは、それこそエゴというものです。この言葉にはあなたに悔いて欲しくないというご友人の気持ちが詰め込まれているはずです。」


 特に面白みのない、辛いことばかりの学校で過ごせていたのは恵美の存在のおかげであったろう。いつしか私は恵美を逆境に立ち向かう戦友のように感じていたせいで、思い上がっていたのかもしれない。親友とはいえ所詮は別の人間であることを、理解できない部分は当然あることを忘れかけていた。


「でも、私は何もしてあげられませんでした。」


 だとしても、自殺を計画して決行するときには人生で最大の苦痛を伴ったはずだ。最近を思い返しても、私は恵美に何もしてあげてられていないじゃないか。恵美は悔いて欲しくないとしても、どうしたって悔やんでしまうんだ。


「あなたはこの手紙の何を読んでいるのですか。ご友人の最後のお願いはカリンバを一生懸命に練習して、暗号を読み解いてほしいということですよ。あなたの手を見れば、どれほどの時間カリンバを演奏していたか分かります。あなたは友人としての責務を果たしたのではありませんか?」


 なんて優しいことを言ってくれるのだろう。もう出す水分なんて無いのにまた目頭が熱くなる。私は何もしていないんだ。死んでしまってからでは、何もかもが遅すぎる。


「ありがとうございます。」


 時間は巻き戻らない公理。今日の私がどれだけ尽くしたって恵美には届かない。けれど、当面は恵美の願いを叶えたと思ってもいいだろうか。私は何時間ぶりかに地に足を付けた。秋の夜空にはベガが光っていた。


「いえ、こちらこそ出過ぎた真似をしました。」


 男性も立ち上がって深々とお辞儀をした。私こそ行き詰っていたところを救ってくれた男性には感謝をしきれない。声を掛けられていなければ今だって、訳も分からずカリンバを弾き続けていたかもしれないのだ。


「いえいえ、大変お世話になりました。」


 色々と憑きものが落ちた私はリュックサックを背負ってカリンバを片手に来た道を戻ろうとしたが、


「あの、どちらから来たのですか?」


 と男性に引き留められた。振り返って向き合うと男性が二枚目な顔立ちをしていることに気づく。


「大阪からです。普通電車を乗り継いできました。」


 片道八千円くらいだった。バイト代を引き出したら二万円ほどだったので足りると思ってここまで来たのだ。


「それなら終電はとっくに行ってしまったと思いますけど、宿泊されるのですか?」

「えー!」


 急な思い付きで来たのに宿泊予定なんてあるはずない。お金だってないじゃないか。仕方がないから24時間営業のファストフード店で夜を過ごそうか。


「親切にありがとうございます。始発まで適当に時間を潰します。」


 あからさまに傷心して、突発的に来たような女子高生が下調べなどしているはずがないと思って教えてくれたのだろう。


「そうだと思いました。良ければこちら、受け取ってください。」


 あまりの的中具合が面白かったのか、男性は表情を崩さない程度に笑いながら財布から一万円札を2枚差し出してきた。


「え、受け取れません! 大丈夫ですよ。」


 あまりの大金だ。受け取れるはずがない。


「お疲れでしょう? これで松山駅前のビジネスホテルにでも泊まって休んでください。何処かで倒れられてしまっては寝覚めが悪いですから。」


 たとえ私が道中で倒れようと、男性がそれを知る術すらないはずなのに、優しさが身に染みる。今朝からの長旅では一切食事も摂っていないのだから正直疲労困憊である。


「でも。」


 私の貯金額相当の金額に気が引ける。そこで、機転をきかせた男性はあくまでも貸し出しという体裁にしてくれたのだった。


「それなら、高校を卒業したら返しに来てください。今住所を渡しますから。」


 胸元からメモ帳を取り出してサラサラと住所を書いて切り離し、二万円に添えて差し出した。


「ありがとうございます。」


 私は素直に受け取ることにした。現実逃避の旅先で人のぬくもりに感動をして、立ち直らせてくれた海の近いこの町に感謝をして、やっと駅に向かって歩き出した。


「待っていますね。」


 背後から男性が言った。大切な支えを失った私の残りの高校生活は苦難が絶えないだろう。だけど私はこの言葉を道標にして確かに踏み進むことにした。

 勿論、カリンバを片手に。

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カリンバを片手に 鎌上礼羽 @sea-squart

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