救われない未来に絶望して、泣き続ける女の子のお話
―――許せない
ゆるせないゆるせないゆるせないゆるせないゆるせないゆるせないゆるせないゆるせないゆるせないゆるせないゆるせないゆるせないゆるせないゆるせないゆるせないゆるせないゆるせないゆるせないゆるせないゆるせないゆるせないゆるせないゆるせないゆるせないゆるせないゆるせないゆるせないゆるせないゆるせないゆるせない
―――あの人を殺した、櫛原水希が許せない
誰かに呼ばれた気がして、目が覚めた。
「ん……ぁ……」
そんなはずもないのに、こうして起きてしまうことが時々ある。
こんな時は大抵目覚めは最悪で、今日もやっぱりそうだった。
「起きちゃった…しかもまだ19時じゃない…三時間しか経ってないわよ…」
枕元に置かれた目覚まし時計を確認すると、時計の針は7と8の中間を差し示していた。
記憶が確かなら16時に寝付いたはずだから、まだ全然寝られていない。
もっともその前も眠りについたのが朝の8時だったから、一日分の睡眠時間と考えれば十分取っているとは言えるのだけど。
「本当に最悪…今日も祥真に会えなかった」
そう言って私は目を閉じる。勿論眠るためだ。ここ最近は、起きている時間のほうがよほど短い。
理由は言うまでもないと思う。それでも敢えて口にするならば、そのほうが楽だからだ。夢の中なら彼に会える。そしてなにより。
「しょうがないよね。だってこうしないと、もう私が私でいられないんだから」
自分自身を保つために。
私は、誰も聞いていない言い訳を、すえた臭いの漂う暗い部屋の中で呟いた。
幼馴染の後を追おうとして窓に手をかけてから、もう二週間は経っただろうか。
あの時、私は死ねなかった。死ぬ勇気を、私は持っていなかったのだ。
弱い自分を恥じながら、泣いて泣いて泣き続けて。目元も喉も真っ赤に腫らして。
どうしようもない現実に打ちのめされながらも、最後に出した結論が、この辛すぎる現実から逃げ出すこと。
すなわち夢への逃避だった。罪だと知りながらも、私は結局目をそらすことを選んだのだ。最低のことで、祥真に対する裏切りであることは分かってる。
でも、でもでも!私にだって言い分はある!
だってこれは、仕方ないことなのよ。
誰も私を責めようとしない。誰も私が犯した罪に気付かないんだ。
そして私は、私の罪を皆に告げる勇気がない。死ぬこともできない。
これは罪であると同時に、私にとって詰みでもあった。
私はこの十字架を一生背負い続けて生きていくしかない。
逃げ場なんてもう、どこにもなかった。
なら、もうどうしようもないじゃない。
幼馴染であり、好きな人でもあった祥真のことを想いながら、これからただ死人のように生きることが私の罰であるというなら、もうそれを受け入れる。
受け入れたうえで、私は最後に残った選択肢を選んだだけ。
現実を受け入れたうえで、そこから少しだけでも楽になりたいと思うことが、そんなに悪いことだというの?だいたい、周りだって同罪だ。
私が祥真を殺した事実に誰も気づかず、誰も裁いてくれないことに対する良心の呵責によるストレスは日増しにドンドンと重さを増しているのを実感している。
もう押し潰されていて、限界で。ただ呼吸することすら、心臓が張り裂けそうな痛みが走る。
そんな苦しみを唯一和らげてくれるのが、夢の中を彷徨うことだった。
少なくとも眠っている間だけは、この苦しみから逃れられる。目を背けることができていた。
それに気付いてからは、こうして一日の大半を眠るために費やしている。
ベッドの上から起き上がることもほとんどせず、仰向けになりながら天井を見上げるだけの灰色の日々こそが、私にとっての贖罪だった。
あの優しかった祥真がこんなことを望んでいるかは分からないけど、少なくとも今の私は彼と同じ境遇に置かれていることは間違いない。
誰とも話すことなく、ただひとりで苦しみを抱え込んで、自分の運命と間違いをただ呪う。
どんなに望んでもあの楽しかった日々がもう帰ってこないことを嘆いて、涙と吐瀉物で布団を濡らすだけの毎日だ。
この状態が生きているなんて、到底言えたものではないだろう。
両親も廃人のような生活を送る私を心配してか、最近はそろそろ学校に行ったほうがいいんじゃないかとか、外に出てみたほうが元気になれるとか言うけれど、大きなお世話だった。
家庭教師を雇うなんて話も聞かされたけど、それも丁重にお断りさせてもらっていた。
「こんな状態で、誰に会えっていうのよ…」
自分の頬を軽く撫でる。
それだけで、指先になにか糸のようなものが絡まる感触があった。
私は目を開けて、眼前に掲げた指になにがまとわりついているのか垣間見る。
細くて黒い、幾筋の線。髪の毛だ。
汗ばみ、不快な感触をともなった私の髪が、べっとりと手のひらの上に張り付いている。
ストレスから抜け落ちたものであることはとっくに分かっているけれど、未だに止まることなくこうして止めどなく抜け落ちていた。
そして掲げた指先もひどく白い。不健康で、まるで病人のものであるかのよう。
上半身を起こして横目で鏡で見れば、頬も大分やつれている。ほとんど幽鬼のような表情に思わず苦笑してしまうが、それもまた引きつったような、なんとも歪な笑みだった。
「これがあの櫛原水希だと言って、いったい何人が信じるのかしら」
これでも私はつい数ヶ月前、祥真も健在で、まだ一緒に学校に通っていたときは、実はかなりモテていた。
男子から告白されることはしょっちゅうだったし、クラスでは性別問わず多くの人に囲まれていた。
皆は私のことが好きで、多くの人間から好かれる私は特別な人間であるのだと、心の底から信じていたのだ。
だから、そんな私が恋した男子もまた特別であるのは当然のことだった。
幼馴染である長谷川祥真という男の子は、口数こそ少なかったけどとても美形のイケメン男子で、入学したばかりの頃は女子からは注目の的だったのだ。
そんな祥真と接点を持ちたがる子は多かった。まるで飢えたハイエナのように彼に群がろうとする女子のことを、あの当時は心底侮蔑し、陰でよく嘲笑ったものだ。
だってそうでしょう?祥真は私のものであり、他の女なんかに目移りするはずもないんだから。
だというのに、そんなことにも気付かないで私の祥真に近づこうとするなんて、愚かにも程がある。
いくら媚を売ろうが彼女達がアイツと付き合える可能性なんて万が一に有り得ない。
だからまぁ、彼女達が断られることは最初からわかっていたけど、それでも優しい祥真のことだ。自分から拒絶するのも難しいだろう。
そう考えた私は、仕方なく助け舟を出すことにした。
本当は男らしくきっぱりと自分には水希がいるからと宣言してくれたほうがいいのは確かではあるのだけど、それでもまだ諦めずに祥真にまとわりつこうとする薄汚い泥棒猫が出てくる可能性はゼロじゃない。
そんな可能性は残らず潰してあげたほうが両者のためであるはずだ。
そう結論づけた私は、祥真に近づく女子を徹底的に遠ざけた。
そこに例外なんてない。最初は好意を持ってなくても、祥真の優しさに触れればいつ好きになってもおかしくないからだ。
狡猾な子なら、男子をダシに会話に混ざろうとするかもしれないから、男子も同じように距離を取らせた。
結果、祥真の周りには誰もいなくなったのは、まさに計画通りと言っていいだろう。
全てが私の思うがまま、私の思い通りの理想の世界がそこにあった。
私は本当に幸せだったのだ。あの頃の私は、私が世界の中心にいると信じて疑うこともしなかった。
だから、周りの誰が私をどんな目で見ようが大して気にしたこともなかった。
クラスは完全に掌握してたから変な動きをするやつがいればすぐに叩きのめすことができたし、それこそ、私を陰で恨めしそうな目で見ていた子が何人もいたことだって知っている。
だけど、直接文句も言ってこないということは、そいつが私よりも弱いからだ。
私よりも下の存在が歯向かったところで、何の意味もない。そのことが分かっている利口な子ばかりであったから、とても過ごしやすいクラスであったこともまた確か。
ああ、でもそういえば。ひとりだけ。
ひとりだけ、私にずっと反抗的で、気付けば恨みがましい目で見てくる女子がいたような―――
ブ、ブ、ブ………
そこまでぼんやりと考えていたところで、不意に短い振動の音が耳に届いた。
なんだと思い、音がしたほうへと目を向けると、そこにはスマホがある。
考えるまでもなく、誰かが懲りずに連絡を入れてきたのだろう。この時間なら、学校はとっくに終わってる。最近は返信も面倒だから放置していたのに、まだ諦めの悪いやつがいるようだ。
「うっとおしい…」
短くため息を吐くと、スマホへと手を伸ばす。
学校になど、もう行く気はサラサラない。行ったところで、周りには馬鹿しかいなんだ。
私が祥真を殺したことにも気付かず、気を遣っている振りをして、おべっかを使うどうしようもないやつら。
ある意味では、私以上に救いようがないグズ共だ。両親もそう。
誰も私の罪に気付いてくれない。本当の私を誰も知らない。知っているのは、もういない私が愛した祥真だけ。
今は私はこんなに苦しんでるのに、ただ見せかけだけの優しい言葉で理解しようとする、脳みそがお花畑でできてる連中しかいない。
完全犯罪をやってのけた悪女がここにいるのに、それに気付かず同情するような顔を向けるのだ。
大変だったね、辛かったね、話を聞いてあげるから
優しい美麗字句を囁いて、私を救おうとしてくる。
推理小説の犯人なら、こんな言葉を聞かされたら内心高笑いのひとつでもしていることだろう。
結局、誰も私を理解なんてしてくれない。
本当の意味で救ってなんてくれないんだ。私の犯した罪に気付きもしないやつらのことが、今はただただ憎たらしい。
もう誰でもいいから気付いてよ。そして、私を裁いて頂戴。
そうすれば、きっと私は、こんな生き地獄から―――
「…………ん?」
そんなことを考えながら、スマホを操作しているときだった。
いつもと違う違和感。クラスのチャットアプリに私を心配する字面が連なっているのはいつものことだが、今日は少し様子が違った。
目についたのは1件の連絡通知。新しいチャットルームへの招待を知らせるものだった。
それを見て、私は思わず訝しむ。
(個別チャット?今さら?しかもこれ、捨てアドからじゃない。怪しいことこの上ないわ…)
誰が見ても怪しい通知だ。スパムの類が回ってきたのかもしれないけど、こんなものに引っかかるほど馬鹿じゃない。
だからスルーするべきなのだろうけど…送られてきたルーム名を見た瞬間、心臓がドクンと飛び跳ねた。
『お前の罪を知っている』
短くそれだけが書かれた題名。ただのイタズラだというなら、無視をすればそれで済む。
だけど、私にはそれができない。自然と息が荒んでいくのを、抑えることができなかった。
罪。罪。罪。私の、罪。
心当たりがないなんて言えない。今日までずっと、頭から離れた瞬間なんてまるでなかった。
それが私自身をここまで苦しめているんだ。自責の念に駆られて死にたいと何度思ったことか。
裁かれたいとも思っていた。だけど誰も私が犯したことに気付かず、この生き地獄を彷徨うことになるんだと思ってて、救いなんてどこにもないと諦めていたのに…
(こいつ…)
知っているのか。私が、なにをしたのかを。
だと、したら。
「…………」
私は画面をタップした。入室確認の表示がでるけど、構わずOK。即入室する。
質の悪いイタズラならそれでいい。だけど、そうではないというのなら…なんにせよ、確かめる必要があるだろう。
そんな覚悟をして入ったルーム内。だけどその中は拍子抜けするものだった。
あんな強い言葉を使ってきたのだから、てっきり私を罵る言葉のひとつでも書き込まれているんじゃないかと思っていたけど、実際にあったのはたったひとつの呟きだけ。
それもどこかのURLテキストがただ貼り付けられただけのもの。送り主からのメッセージがあるわけでもなかった。
……いや、普通に考えるならこれがそうだ。
このURLの先に、きっと何らかの形で伝えたいものがあるのだろう。
なら、見るしかない。見たくないけど、見ないことには始まらないのだ。
そうでなければ、対処のひとつも出来やしない。
「すぅー…」
大きく息を吸う。吐く。
それを何度か繰り返して、覚悟を決める。
震えそうになる指先を押さえつけ、私はテキストを押した。
僅かな時間、間が空いて。
やがて画面が切り替わる。
その先にあったのは暗い画面。
動画ではなく、ただの音声ファイルのようだ。
これがおそらく本命なのだろう。
なら、聞くしかない。数瞬だけ迷った後、私は再生を開始した。
『………アンタ、本当に分かってる?』
まず流れてきたのは女性の声。
口調がなんだか刺々しい。どうやら怒っているようだが、なんだか聞き覚えがあるような声である気がするのは気のせいだろうか。
『うん…ごめん…』
『ごめんじゃないでしょ。なに他の女と勝手に話してるわけ?』
次に聞こえてきたのは男性のものだった。
短い頷きの声だったけど、私はその声を聞いたことがある。
いや、間違えようがあるはずないじゃない。だって、それは―――
「祥真…!?」
もうこの世にいない私の幼馴染、長谷川祥真のものだったのだから。
なら、話し相手の女の子は必然―――
『アンタはね、他の女と話したりなんかしちゃいけないの。そんな資格なんてないのよ、この愚図!』
私だ。この声の持ち主は、私なんだ。
「うぇっ……!」
瞬間、吐き気がこみ上げる。
祥真を責め立てる声に、嫌悪感が掻き立てられたのだ。
それでも、過去の私は止まらない。
『祥真!アンタ、自分がどんな人間か分かってる?』
やめて
『アンタはね、ダメなやつなの。ただ話してるだけで人をイラつかせる天才。そんなやつが、私以外と親しくなんてしてみなさい。あっという間に本性知られて、嫌われて終わりよ』
やめてやめて
『今も私、祥真と話しててイライラしてたまらないもの。ほんと最悪…!ああ、もう!アンタなんかね!』
やめてよぉ…もうやめてよ!私!
『死んじゃえばいいのよ!!!』
「うっ…げぇぇぇぇぇっ!」
吐いた。これ以上、耐えられなかった。
「う、ぇぇぇ…な、なに!なんなのよ、なんなのよこれ!」」
口元を拭いながら、私はスマホに向かって怒鳴りつける。
いつ録音したのか分からないけど、こんなのただの盗聴で、立派な犯罪行為だ。許されるはずもない。
普段学校ではボロを出さないよう気を遣っていたのだから、これを録ったタイミングは限られているに違いなかった。後でもつけてたっていうの?なんて陰湿さだ。キモい、とにかく気持ち悪い。
そしてなにより、これを送りつけてきたやつは間違いなく私に悪意を持っている。
そうでなければ、わざわざこんな、祥真を傷つける発言をした音声を送ってきたりなんか……!
そこまで考えたところで、スマホがブルリと震えた。
なんなの?今?送ったやつ、空気読めよ…!
怒りに身を任せ、スマホを手に取っていっそ壁に投げつけようとしたところで、ふと手が止まる。
ディスプレイに表示された文字が、目に入ってしまったからだ。
―――理解しましたか?自分の罪を
「っつ……」
短く書かれた文字は、熱くなった私の頭に冷水を浴びせかける。
こいつだ。こいつが、私にあんな嫌がらせを…!
怒りに任せてスマホを叩く。指が震えて上手く入力できなくて、それがさらにイラつきを増加させていた。
―――なんなの、あれ!盗み撮りなんて勝手にして!早く消せ、このクズ!
打ち込んだ文字を送信すると、すぐに既読がついた。
どうやら話す気はあるらしい。こんな陰湿なことをしてくるやつだから、どんなことを言ってくるかも分からないけど、だからといって引く気もなかった。
興奮冷めやらぬなか、すぐに次の文章が表示される。
―――まだ元気があるようですね。学校もずっと休んでいるというのに、反省の色もまるでなし。やっぱり人殺しは違いますね。頭の構造が違うみたい
ギリッと、私は砕けるくらいに歯噛みした。なんて嫌味ったらしい。こいつは相当に性格が悪いに違いなかった。だけど、同時に理解する。
この送り主の意図、そしてあのタイトルの意味を。
こいつ、理解ってる。
私が祥真を追い込んで殺したことに、気付いてる。
これは脅しだ。明確に、私のことを脅迫しようとしているんだ。
―――なにが目的なわけ?
それに気付いてしまったら、強気には出れなかった。
音声データがあれ一つきりとは限らない。あれがいじめの証拠まで至るかは分からないけど、仮に周りにばらまかれようものなら、私は、私は―――
―――今夜21時。学校近くの公園まで
返事はすぐに返ってきた。
そこには時間と場所が指定された言葉が短く綴られている。
…………直接会って話をつけようってわけか、いい度胸してるじゃないの
時刻を確認すると、現在は20時半を過ぎていた。
私の家から学校までは20分とかからない。時間の余裕はある。着替えの時間はさほどないけど、贅沢も言っていられなかった。
ベッドから跳ね起きると、素早くパジャマを脱ぎ捨て、着替えていく。
その際足元がふらついたけど、それがどうした。あんなことをしてくるやつに、私は負けるわけにはいかないんだ。
そうやって気丈に自分を保とうとしたけれど、それでも気付かないうちに、私の身体は震えていた。
まるで絞首台に向かう、死刑囚のように。
「ハァ…ハァ…」
あれから20分と少し経ち、私は指定された公園にたどり着いていた。
とはいえ、もう息も絶えだえだ。自分の身体は思っていた以上に体力が落ちていたらしく、軽く走っただけで額に脂汗が浮かんでいる。
もう秋も近いというのに、背中を伝う汗の感触が気持ち悪い。
だけど、弱音を吐くわけにもいかないんだ。負けるわけにいかない。
あの行為は私だけでなく、祥真も侮辱する行為にほかならない。
向こうに行ってしまった祥真だって、あんな音声がこの世に残っていると知ったら、きっと恥ずかしくてたまらないはずだ。彼の名誉のためにも、なんとしても回収しなくては。
そう自分を奮い立たせて、私は薄暗い公園の敷地内へと足を進めた。
「……約束通り来たわよ。どこにいるの」
周囲を見渡しながら、私は軽く声を張り上げた。あの送り主はもうとっくに来ているという、妙な確信があったからだ。
連絡手段はあるのだから、スマホで確認を取ればいいのだろうけど、そいつが見ている前でそんなことをするのは、なんとなく負けてしまう気がしたのだ。
途端、近くの茂みからガサリと揺れる音がした。反射的にそちらを向く。
それほど広くない公園で、人の隠れられる場所は多くない。
だから隠れてるとしたら、遊具の中か林の中くらいと当たりはつけていたのだが、どうやらビンゴのようだった。
「そこにいたの。隠れてコソコソするのが好きなようね」
敢えて皮肉をたっぷりのせて言い放つ。弱気になったらつけ込まれる。長年の経験から、それは学んでいた。
「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ。櫛原さん」
聞こえてきたのは女の声。若い。
わかっていたけど、やはり同年代であるらしい。
やがてゆっくりと姿を見せたのだが、距離の遠さと薄暗い公園の電灯が相まって、ハッキリと顔を判別することはできなかった。
「私のこと、知っているんだ。やっぱり同じ学校の生徒?」
「そんなこと、どうでもいいでしょう。もう学校にも来ていない貴女には関係ないことなんですから」
探りを入れようとしたけどにべもない。
憮然とした態度からは、こちらに対して友好的ではないことがまるわかりだ。
「そう。ねぇ、アンタさ、あんなことして、楽しかった?こっちの気分は最悪よ。亡くなった祥真にも悪いと思わないのかしら?さっさとデータを渡して…」
ならばとさらに強気に出たのだが、次の瞬間、私はたじろぐことになる。
「…………お前が長谷川くんの名前を口にするなっっっっ!!!!!」
「っつ!」
私の言葉を聞いた瞬間目の前の女から、急速に怒気が膨らんだからだ。
大声を張り上げる彼女からは、さっきまでの冷静さがまるで感じ取れない。
「お前!お前分かってるのか!!お前が長谷川くんを殺したんだ!!お前がいなければ長谷川くんは死なずに済んだ!だっていうのに、お前はぁっ!」
「ひっ…」
明らかに女は激高していた。
全身から怒りを発するあまりの気迫に、私は完全にひるんでしまった。
「私は、ずっと見てたんだ!お前が陰で気づかれないよう、ずっと長谷川くんをいじめてるのを!彼の居場所を奪って、嬉しそうにしている悪魔のようなお前の姿をね!だっていうのに、なんなの?彼がいなくなったら途端に引きこもって、悲劇のお姫様気取り!学校のやつらも、みんなお前の心配しかしない!誰も長谷川くんのことを気にかけない!」
そのまま吐き捨てるかのように、彼女は言葉を次々に口にした。
それは私を責めるのが目的というよりも、この世全てに呪詛を撒き散らしているかのようだった。
だけど、その目だけはハッキリと、私をだけを見据えていた。
「長谷川くんは死んだんだ…もう、誰の記憶からもいなくなっちゃったんだ。この意味が、アンタに分かる?誰にも覚えてもらえてないんだよ!!アンタがなにもかも奪って、本当の意味で彼のことを殺したんだ!」
「え…あ…」
「この、人殺し!!!!!!!」
ああ、そうか。
ここに来て、私はようやく気付いてしまった。
これが憎まれるということだと。今私は、罪を暴かれている最中なのだと。
心の底から誰かからの断罪を望んでいたはずなのに、それは正面から受け止めるにはあまりに強烈で、痛烈なものだった。
剥き出しの悪意が、私を捉えて離さない。足元が崩れ落ちるかのような恐怖が、全身を駆け巡っていた。
「ち、ちが…私、私殺す気なんて…」
咄嗟に出た言葉は、言い訳だった。
受け入れようと思っていたはずの裁きを、私は否定することで身を守ろうとしていたのだ。
だけど、そんなの所詮付け焼刃の鎧だ。正当性などあるはずもない。
「じゃあなんだっていうのよ…!アンタのこと以外で、自殺なんてするはずがないでしょ……!ずっと長谷川くんを束縛していた、櫛原水希。アンタ以外のことでぇ…!!」
「それ、はぁ…」
即座に否定され、さらに切り込まれていく。
歯をむき出し、怒りで般若のように目を吊り上げた断罪者に、私の言い訳は通じなかった。
「糞女…糞女糞女糞女!アンタさえ、アンタさえいなければ…!」
彼女の悪意は止まらない。ただ憎しみだけがそこにあった。
あまりの恐怖に、太ももの付け根からなにかが滴り落ちていく。自分でも分からないうちに、熱いなにかが漏れていた。
「ご、ごめんなさい…ごめんなさいごめんなさい!」
立ってなんていられなかった。
憎悪と怒りが混ざり合ったこの空間で、気丈に振る舞うことなんてもうできない。
その場にへたりこんだ私は蹲ると、謝罪の言葉を口にしていた。
「私が、私が全部悪かったの!祥真が欲しかった!誰にも渡したくなんてなかったの!だ、だから私のことだけ見ていて欲しくてぇ…ほ、ほんとうにごめんなさいぃぃぃぃぃ」
気付けばいつものように泣きじゃくっていた。
人前で子供のように泣き崩れる私を見て、目の前の女がどう思うかなんてことすら気が回らないほど、ただただ私は謝り続けた。
でも、こんなことくらいで許されるほど、私の罪は軽くない。
「やめろ…!私に謝ったところで、あの人はもう帰ってこない…!そんなの、アンタの自己満足でしょ!見苦しいのよ!」
「ひぃっ!」
女は私の後悔を一蹴する。そんなものは無意味だと、全て否定されてしまった。
「でも、でもぉっ!なら、どうすればいいっていうのよぉっ!もう謝ることなんてできないじゃないぃぃぃぃぃ!!!私には祥真が必要だったのにぃぃぃぃっぃ」
本当に、どうすればいいのか分からない。これまでずっと祥真が守ってくれて、前に立って道を示してくれていたのに、もう彼はいないのだ。
償う方法が分からないからこうも苦しんでいるというのに、女はただただ否定することしかしない。こんなのってひどすぎる。
赦しが欲しかったわけじゃないけど、せめて道筋くらいは示してくれてもいいじゃない…!
「……醜い。そして、なんて愚か。こんなやつに、あの人はずっと…」
頭を掻き毟りながら絶叫する私を、女が冷めた目で見ていたことにも気づけなかった。
怒りが通り過ぎたのか、能面のような表情に切り替ったことも、私には分からない。
そんな余裕は、どこにもなかった。いつだって私は、自分のことで必死だったのだ。
「……もういいです。よく分かりました。これを持って、さっさと私の前から消えてください」
疲れたような声を絞り出すかのように出した彼女は、同時になにかを足元に向かって放り投げた。反射的に目を向けると、小さなプラスチック片が落ちているのが月明かりで僅かに見えた。
「音声データの入った、SDカードです。これが貴女の欲しかったものでしょう?」
「あ、あああ!」
女が言葉を言い終わる前に、私はそれに飛びついていた。
これだ!これがあれば、私はもう責められなくて済む。聞きたくない言葉に耳を塞ぐことができるんだ。
この女にももう二度と会わなくていい。断罪は救済だなんて大嘘だった。
裁かれたところで、結局どうすればいいのかまるで分からず、どこに向かえばいいのかすら分からない。
こんなことに意味はなかった。だからもう、早くこれを抱えて家に駆け込み、そして眠ってしまおう。
そうすれば、辛いことから目を背けることができる。もうそれしか、私に残された救いなんて―――!
「―――本当に、よく分かりましたよ。櫛原水希。貴女の薄汚い本性を、よぉくね」
そうしてカードに手を伸ばした時、頭の上からそんな言葉が降ってきた。
「―――ぇ」
とても冷たい声だとゾッとした。それに気を取られ、伸ばされたまま硬直してしまった手の上に、黒いなにかが落ちてくる。
それが彼女が振り上げた足だと気付いた時には、既に遅く。
次の瞬間、私の右手は文字通り、彼女に踏み潰されていた。
ガンッ
メキリと、内側からなにかが折れる音を、私の耳は確かに捉えた。
「―――ぃ、あ、うああああああああぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
「自分本位で自己中心。さらにどんなに口先だけは悲しんでいても、土壇場で見せるは自己保身。怪物ですよ、貴女。犠牲になった長谷川くんが、可愛そうで仕方ありません」
女がなにかを言っているが、聞こえない。
痛みが身体を駆け巡り、さっきまでとは質の違う叫びを喉の奥から張り上げていたからだ。それにかき消され、見下すような侮蔑の視線も、蔑みの言葉も届かなかったのは、あるいは幸運だったのだろうか。
だけどそんなことは、伝わる痛みでのたうち回る今の私にとって、まるで知ったことじゃない。
踏まれた手から女の足を引き剥がそうと、もう片方の手を伸ばしたところで、
彼女が再び動きを見せた。
「結局自分が一番大事。それが貴女という人間の本性なんです。そんな人間が罪を償うなどと、思い上がりも甚だしい…!」
でもそれはこの場から動いたわけじゃない。ただほんの少しだけ、足を捻り回しただけだった。
歩く方向を変えるとき、誰しもが地面に対して無意識のうちにやる行為。
ただ角度を変えるだけの所作を繰り返し、ただぐりぐりとその場を踏みつけるだけのそれは、だけど今の私にとっては地獄の痛みへと様変わりする。
「い、があああああぁぁぁぁ!!!」
「本当にこんな…こんな、こんな女のために…!こんなクズのためにぃ…!」
死ぬと思った。こんな痛みは経験がなかった。
そもそも他人に暴力を振るわれたのもこれが初めてで、心の底から痛くて怖くて心臓がもう張り裂けそう。
止めどなく流れる涙と鼻水で、私の顔はもう見れたものじゃなかったと思う。
「聞きなさい、櫛原水希。最低最悪の糞女」
「いぎっ!」
だけど、見ようとする人物はその場にいた。
踏みつけていた足を止めると女は私の髪を掴み、強引に自分のほうへと顔を向けさせたのだ。
またも襲ってくる痛みで、またポロポロと涙を流す。
心はもう、とっくの昔に折れていた。
「貴女は救われない。これから先、絶対に救われることも、幸せになることも許さない。そうなろうとしたなら、私はすぐにこれをバラまく。お前の傍にいる人間にお前の本性を吹き込んで、その幸せを奪ってやる」
そう言って女は胸のポケットから、一枚のSDカードを取り出した。
さっき投げ捨てたものと全く一緒のそれを見て、私は目を見開いた。
「え、なんで…」
「あんなのコピーに決まってるでしょ。アンタじゃないんだ。そんな馬鹿なことはしない。なにも考えず彼を傷つけることしかしなかったお前には、分からなかったんだろうけどね」
女は鼻で笑った後、ぐっと顔を近寄せ、私の耳元まで顔を寄せた。
生ぬるい吐息が、耳に吹きかかる。クスリと小さく笑う声すら拾い上げてしまい、背筋が思わず総毛立つ。
そして小さく息を吸うと、ゆっくり囁きを寄せてきた。
「―――お前はもう、幸せなんてなれない。一生怯えて暮らし続ければいいんだ。ざまあみろ、糞女」
それは呪詛だった。まさしく私を呪うためだけに紡がれた、ありったけの悪意を込めた悪魔の囁き。
聞かされた言葉の意味を理解できず、呆然と涙を流し続ける私の顔を一瞥すると、女はゆっくりと立ち上がる。
見下されている。そう感じ取ってはいても、私の身体は動かなかった。
一生。幸せ。無理。そんな単語が断続的に脳裏を駆け巡る。
この女は、私の未来を阻むという。そんな、そんな―――
「ま、待って!そんなのやめて!」
「やめない。絶対にやめるはずなんてない」
痛みを訴え続ける右手を抑えながら、私は女に救いを求めるも、立ち止まることはなかった。
追いすがろうにも、身体がまるで言うことを聞かない。そうしているうちに、名前も知らない女は公園から出ていこうとする。
「やめてぇぇぇぇぇぇ!!!いやだ!そんなの無理!絶対無理なのぉっ!耐えられない!私壊れちゃうよぉぉぉぉっっっ!!!」
「勝手に壊れればいいでしょ。でもどうせ無理よ、アンタには。どこまでも自分が大好きなアンタにはね」
だからせいぜい苦しみなさいと言葉を遺し、彼女はこの場所から去っていく。
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
私はどこまでも苦しまないといけないのだろうか。
なにひとつ救いのない終わりに、私はただ叫び続けた。
「―――救われない。誰も彼も、救われない」
これで償えたなんて思わない。あの女は自分だけが苦しむと思っているようだけど、私だって同じだ。
あの女をこれから生涯かけて探らないといけないかと思うと、私にだって救いはない。
彼を助けられなかった自分への罰だと言い聞かせても、それでも涙がこぼれ落ちるのを抑えきれそうになかった。
「ごめんなさい、長谷川くん…」
せめて、時を巻き戻せたのなら。
絶対あんな結末を迎えさせることなんてしなかったのに。
止まらない嗚咽はただ、秋の夜闇に消えていった。
僕をいじめていた幼馴染が取り返しがつかなくなり絶望して、ただ泣きじゃくるだけのお話 くろねこどらごん @dragon1250
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