18.大凡生所見婦人,輒加猜忌,至於三娶,率皆如初焉。(終)




 ヴヴッ。


 鼻に入ったミルクティーが詰まって変な音が出た。

 甘ったるい匂いがプンプンして、ベットリ濡れて不快で、目に沁みて痛い。


 部長の鞄の中身の気持ちがよくわかった。


「小玉、聞いて欲しい」


 僕は頭に盃を乗せたまま、ミルクティー浸しのまま、口を開く。


「僕は君を裏切った。僕は君を傷付けた。僕は……君を置いていく。もう二度とここには戻らない」


 この言葉が小玉に届いているかはわからない。

 彼女は今、号泣していた。

 両手で顔を覆って、ジブリのヒロインみたいに体を震わせ泣いている。


「でも、それは君といた二年間が幸せだったからだ。嫌なこともまああったけど、これから先の人生にこれより上は無いんじゃないかと空恐ろしくなる程、最高の時間だった。だから……僕はもう満足してしまったんだ。この先には君とは行けない。本当は行きたいが、この先にもうこれ以上の喜びが無いんじゃないかと思うと、足が動かないんだ。君の気持ちを聞いた今も本当に辛いよ。この未練を抱えて生きていくことが呪いなんだろう、それは僕を強く苦しめていくんだろう」


 僕の言葉は小玉にとって何の意味も無かった。

 何人なんぴとも泣き続ける霍小玉に寄り添うことはできない。

 僕らを取り囲む後輩達も、ただ顔を俯けて悲しみに暮れている。


 この世の誰にも彼女を慰めることは不可能だ。

 ただ、わかっていることが一つ。


 それは、もうすぐ終幕の時間だということ。


「舞台監督」


 僕は、ただじっとこちらを見ている最後の三年に声を掛けた。


「なんや?」


「もういいよ。舞台を片付けてくれ」


 すると、彼女は珍しく、ちょっと眉根を寄せて、心配するような表情を作ってみせる。


「本当に、もうええんか?」


「ああ、悪かったな、色々用意してくれて。お陰で僕達は大切な時間を過ごすことができた」


「ううん、ええんよ。がウチの担当やからね」


 彼女ははにかんで、何でもない様子で答えた。

 それから、右手を高らかに上げ、指を打ち鳴らす。


 ドガガガッ、と遠くから猛烈な破壊音。

 舞監の友達らが“片付け”を始めたのだろう。


 その振動で頭の上の盃が落ちて、カランと床に転がった。

 さ、しょげてる場合じゃないぞ!


 僕は立ち上がり、後輩達の元に向かった。


「よし、演出助手。ここからどうするか考えてくれ」


 顔を上げた演出助手は唇を変な形に歪めつつ僕に問う。


「せ、先輩は、これで、良いんですか?」


「良いも悪いもない。『霍小玉伝』は呪いの物語だ。こうしなきゃ終われない」


「そ、それは、違うと、思います!」


 演出助手は椅子から立ち上がり、どもりながらも毅然として言い張った。


 お。


「初めて真っ向から否定してきたな。何が違う、言ってみろ」


「今の先輩と、ぶ、部長を見ていて思ったんです。『霍小玉伝』は呪いの物語だけど……やっぱり愛の物語でもあったんだと。僕は、高校演劇のこと嫌いです。でも……今日のこの時になっても離れられなかった。これは呪いかもしれない、でもそれだけじゃない、それを伝えないと」


 それから言葉を切って、少し人の悪い笑みを作る。


「それに……このまま終わったら一年の子達が入ってくれないでしょう?」


 それは確かに。

 少しはらしくなってきたじゃないか。


「お前の言う通りにしよう。だが、具体的にどうする?」


 ところがそう聞くと、演出助手は固まってしまった。

 その横をチカの友達らがあらゆるものを壊しては瓦礫を抱えて通り過ぎていく。


「あ、あ、えーと……」


 そうして彼女は片付けの轟音に合わせて揺れるばかり。


 このガキ、この期に及んで!


 しかし、僕が何かするより先に業を煮やしたのは衣装の方だった。


「しっかりしてよ! 時間が無いんだからね!」


「あ、で、でも……」


「何でもいいから思いつくものやってさ、後はやりながら考えたら?」


 照明も口を挟んでくる。


「いや、そんな軽率な事は……」


「いいじゃない、ボク達もフォローするからさ」


 音響が安心させるように演出助手の肩に手を置いた。


「……いいのかな」


「良いとか悪いとかじゃなくてやるの! あんたの役目でしょ! それに……」


 衣装は音・照と目を合わせて頷き合い、言葉を続ける。


「あんたの考える『霍小玉伝』の終わりの方が、先輩のより面白い気がするから。やってみてよ」


 そこまで言われても演出助手は困り顔。

 こちらの表情を窺ってくるので、僕は仕方なく口を開いた。


「……最初にキューはCUEシー・ユー・イーと書くと言ったけど、本当はアルファベットのキューでもあると思うんだ」


「えと、あの、何の話ですか?」


 質問には答えず、話を続ける。


「全てのキューは台本から次々現れる問題Question、演劇はそれを僕らの頭と、身体で解いていく過程。つまり演劇は問いキューでできている。お前が演出だとしてこの問いは、この劇はどうやって解く? みんなお前の答えを待っているんだ、僕の答えじゃなくな」


 大したことない言葉遊びだったが、言っているうちに演出助手の覚悟が決まっていくのが見えた。

 僕の言葉はほとんど関係無くて、同期からの信頼がそうさせている。

 僕にもこんな頃があった。


 演出助手は頷き、喋り出す。


「事ここに至っては役者は先輩と部長だけで決着をつけてもらいます。ただし暗い終わり方は無しで」


 そう言われたので僕は、部長の元に向かい、その肩を叩く。

 身を起こした彼女はいつの間にか泣き止んでいて、目は赤かったが、いつもの無表情に戻っていた。

 僕は彼女の手を掴んで立たせる。


「何か希望が持てるものが見たいんです。それがお二人の将来に無いのなら……」


 続きは言わなくてもわかった。

 二人で顔を見合わせ、頷き合う。


 いつの間にか舞台はすっかり片付いて、地歴公民教室のフローリングと板張りの壁が戻っていた。スタッフ達はブース席に戻って、照明が点き、何かエモい感じのBGMで場を繋ぐ。

 僕は衣装からタオルを渡されて全身のミルクティーを拭い、部長は黙々と渡されたジャージに着替えていった。


「……あの日のエチュードをしてください。お二人が初めて出会った日、部活説明会の後、お互いどんな演劇がしたいか話し合ったあの夕暮れの日から!」


 あの日のことは、昨日のようによく覚えている。


 僕はまだ全然猫を被っていて、陰キャっぽく見られないよう眼鏡も外していた。

 部長も今とは違って、僕と同じぐらい髪が短かったっけ。


 そう思っていたら、部長がスッと手を上げた。

 すると、舞監がジャージのポケットから何かを取り出し、衣装に投げ渡す。

 おっかなびっくり受け取った衣装は、部長にそっと忍び寄り、跪いた。

 そして、厳かな手付きで、大きな裁ち鋏を渡す。


 部長は無造作に左手でガッと長い髪を掴むと、鋏で首元の辺りで切り裂いた。

 艶やかな毛の一本一本がハラハラと散っていく。


 それじゃあ、とばかりにこちらも眼鏡を外した。

 ぼやけて少し滲んだ視界。


 泣くな、僕。

 今泣いたら何にも見えなくなっちゃうから。


 舞台上に残った大道具は机と椅子が二つずつ。

 その二つの机にそれぞれ腰掛け、僕は演出助手を見た。


「さあ、キューを出してくれ」


 後輩は両手を掲げる。


「行きます、よーい、はい!」




 パン。







 照明は片側のレベルを強くして夕陽風。

 音響はチャイムのSEを入れて放課後っぽさを添加。


「お、お疲れ……様です?」


 僕はキョロキョロと相手の顔色を窺いながら話しかけた。

 今でさえ何を考えているかわからないのに、初対面の時の印象は本当に謎の美少女。


「……どうも」


 彼女はボソッと答え、軽く会釈。

 うひ~付き合い辛そう~、なーんて思ってたな。


「僕は二組の宮下です。そっちは……」


「四組の野里」


 左の肘を右で擦りつつ、端的な返事。

 やりにくっ。

 でも、この日の僕はまだ入学したてでガッツに溢れていた。


「率直に聞くけど……この部、入ります? 僕は入るつもりなんだけど」


「入るよ。 ……役者がやってみたくて」


 ここで僕はホッとする。

 彼女、喋り方とかあまりに異質で、仲良くできないタイプかと思っていたから、演劇に興味があるとわかってやっと『仲間』に見えてきたんだ。


「えー、そうなんだ! 僕も当面は役者かな、よろしくね!」


「当面? どういうこと?」


 小首を傾げて、ざんばら髪が揺れる。

 それで、僕は今思えば無謀にも程がある野望を披露したのだ。


「うん。実はね、演出やりたいんだ。自分で台本書いてさ、十人も二十人もたくさん役者を動かして、観た人が全員笑えるような、泣けるような演劇を作ってみたいんだ!」


「へえ、凄い、私は御免だ。そんな厄介な事ととてもとてもできそうにない」


「僕も今すぐにできるとは思ってないよ。しばらくは役者か、スタッフでもいいから演劇のこと学ぼうと思ってる」


「そうか。じゃあ何時かは君の書いた劇を演じる日が来るかもしれないわけだ。楽しみだ」


 そこで初めて彼女は唇を綻ばせる。

 その笑みと言ったら西日を浴びて儚くて、夢か幻みたいに綺麗だった。

 この子と友達になりたい、そうぼんやり考えている僕に彼女はふと問い掛ける。


「それで、具体的にはどんな劇が作りたいんだ?」


 どんな劇……。


 その答えを、僕は言えなかった。

 何しろ当時は演劇未経験、観た回数だって片手で数えられる程度。

 しどろもどろになって、適当に話題を切り替えちゃったんだな。


 あの時何か言えていれば、今とは全然違う将来もあったのだろうか、そう思いながら僕は口を開く。


「そうだな、唐代伝奇なんてどうだろう?」


「とうだい、でんき?」


 彼女は眉を八の字にして鸚鵡返しした。


「そう、中国の昔話ね。中でも『霍小玉伝』って言うのがお気に入りなんだ」


 僕は机から離れ、拳を掲げ、演技っぽく喋り出す。


「筋はこうだ。将来有望で詩の名人の男が、美人だけど身分の低い女と付き合うんだけど、家の都合で捨てる。女は病んで男を呪って死ぬ。呪われた男は狂って異様に嫉妬深くなって、以降三回嫁を貰うけど全部上手くいかない、以上」


「……酷い話だ」


 鼻白む彼女に向かって僕は二ヤリと笑ってみせた。


「そう、酷い話。でもね、面白いのはさ、女は死んだ後、後悔して泣き叫ぶ男の前に霊となって現れるシーンがあるんだ。 ――ちょっとってみない?」


「えっ」


「いいからいいから」!


 戸惑う彼女に駆け寄ってその手を掴んで、机を引き剥がす。


 僕らは舞台の中央に立ち、すぐ傍で向かい合う。


「僕が男をやろう。今日は女の埋葬の日、ここで跪いてメソメソ泣いている」


 実際にやってみせる。


「うお~! 小玉、何で死んでしまっただ~!」


 それはもうヘタクソに、でも楽しそうに。

 実際に楽しかった。

 これぐらい気楽に演劇をやろうとしたことは今まで一度も無かった。


「それで君が女ね。君は女の遺体を囲む帳の向こうから現れる。あるていでね、お願い」


「はいはい……」


 僕の大袈裟な身振り手振りに苦笑しながらも彼女は指示に従う。

 彼女もどこか楽しそうだった。


 こうやっていれば誰も傷付かずに済んだのかもしれない。

 彼女とももっと親しく、それこそ友達になれていたかもしれない。

 どうだろうか。

 やってみなければわからないが、僕はそうしなかったし、これから試す機会ももう無い。


「その後、君は驚く僕に向かってこう告げるんだ、ごめ――」


「ごめんなさい、貴方に」


 彼女は唇を緩やかに撓め、僕の台詞を食って喋り出す。


「――貴方にまだ私を見送ってくださるような情が残っているなんて思いもしませんでした。幽世かくりよからお礼の言葉を申し上げます――」


 そして深々と頭を下げた。


「あ……」


 僕が二の句を告げない内に彼女はまた頭を上げる。

 まだ彼女は笑っていた。


「こんな感じ?」


 その笑顔に負けないよう、僕も笑い返す。


「そ、そうだよ、そう! 幽霊になった女はまるで男の裏切りを許したかのように振舞うんだ。その後しっかり呪いもやってくるんだけどね! だから僕は思うんだ、男に掛けられた女の呪いは愛と同じものだったんじゃないかって。愛していたから他の女と結ばれないようにして、男もその愛を受け容れたから狂った。倒錯した解釈かもしれないけど、面白いと思わない?」


「……うん、面白い。もっと聞かせて、その原作からどんな劇にするの?」


「ああ、いいよ!」


 そうやって二人で笑い合いながら、僕は考えていた。


 部長は僕を許してはくれないし、友達になることも一生無いんだろうな、って。







 パン。




 終了のキューと同時に照明がアウト。

 まあ、妥当なタイミングだろうと僕も思う。


 僕と部長は立ち上がり、客席の方を向いた。

 スタッフを除いた他の部員達が集まって横一列に並ぶ。


 僕は暗闇に目を凝らし、教壇を組んで作った客席をそっと見やった。


 今回の観客は十三人、その内一年生は八人。 

 一年の内、四人は『なんか凄いものを見たぞ』と興奮していて、残りの四人は『なんだよこれ』って退屈しきった顔をしている。


 ま、こんなもんかな。

 散々あった割には上出来。


 僕は将来の部員候補達に向けて微笑みの表情を作る。


 僕の二年間はこんなもんだったよ。

 君達の二年間はどうかな?



 と、そうしているうちに暗転から七秒カウントして、照明と音響のキュー。


 カーテンコールだ。





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新入生歓迎公演『霍小玉伝』 しのびかに黒髪の子の泣く音きこゆる @hailingwang

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