17.生自此心懷疑惡,猜忌萬端,夫妻之間,無聊生矣。




「李益……覚悟!」


 高らかに掲げられた斧が僕目掛けて振り下ろされる。


 ザクーッ!!


 一瞬前まで僕がいた辺りの竹蓆が叩き割られた。

 僕は、と言えば咄嗟に飛び退って無事。


「ひ、ひいっ!」


 あまりの凶行に恐れ戦いた盧氏が逃げていく。

 小玉は斧を引き抜くと、ゆらりと構え直して僕を睨んだ。


 ふ……ふざけろ!


「お前、お前、お前! 何してくれんだよ、せっかく演出助手もやる気になってどうにか回り出したところだったのに!」


 役も芝居も忘れて突っ込む。


「早くその斧を下ろして、どっか行け! 『霍小玉伝』はスラッシャー映画じゃねーんだよ!」


「黙れ!」


 だが、無慈悲な二撃目が僕を襲う。


 ヒュオゥッ!

 

 肉厚な斧の刃は僕の目に強烈な残像を残して、空を切った。


 ふむ……動作が大振りなので避けるのは難しくはない。

 霍小玉、というか部長も女の細腕だし、慣れていないのだろう、既に息が上がっている。


 最初こそ奇襲に焦ったが、それさえ凌げば怖いことは無いな。

 決着は着いたも同然。

 部長だってわかっているはずなのに、それでも彼女は斧を振りかざす。


「もうよせ、何がしたいんだよお前」


「うるっ、さい!」


 バキーンッ!


 三撃目は今までのよりずっと弱弱しく、しかし壁に深くめり込んで抜けなくなった。


「くううっ」


 小玉は着物も気にせず壁に足をつけ何とか刃を引っこ抜こうと唸るが、果たせない。


「止めろって。お前にジェイソンは無理だ、原作に戻ろう」


 僕の言葉を聞くや否や、彼女はこちらに詰め寄ってきて怒鳴る。


「私は認めない!」


 何だか奇妙な感じ。

 目の前の女の顔は真っ赤で、小玉らしくも部長らしくも無かった。


「認めないって、何を?」


「……演出を降ろされたお前が! 今更この劇に何かしようなどと一ミリたりとも認められないと言っているのだ!」


「何かするのは演出助手ね。僕はただの代役」


「お前が唆しただけだろう。結局お前の思い通りになろうとしている、そうはさせん!」


 いや、まあそうなんだけど……。


「演出助手も一応、自分の意志で動いているわけだし……」


「流され易い子だ、お前の誘導でいかようにもできる。何よりお前が考えた新しい解釈も認められない!」


「どこがだよ!?」


「全部だ!!」


「言ってみろ!」


「部外者のお前に言う必要はない!!」


 ……クソッ何だか知らんが、どうにも分が悪い。

 よし、論点をすり返るぞ!


「でも、お前は何にもしなかったろう! 演出助手に続きを考えさせることも、台詞に詰まった時のフォローもせず、ただ自分の役を演じていただけ。部長の責任はどうしたんだよ!?」


「ぐっ」


 部長は言葉を詰まらせる。

 変だな、これぐらいでへこたれる奴じゃないのに。


「おいおい、もう終わりか、体調不良? 大体お前、今日ずっとおかしいぞ? 劇にトラブルがあった時はちゃんと対応してきたし、僕に気に入らないことがあれば事前に言ってきたはずだろ。お前さ、どうしちゃったの、何にそんなに怒ってんの?」


「べ、別に怒ってない!」


「いや怒ってんじゃん。あれでしょ、お前の期待を裏切ってつまんない劇を作っちゃったからなんだろうけど」


 彼女は肩をいからせて吠えた。


「違う、そんなことはどうでもいい!」


「えっ違うの?」


 言うつもりじゃなかったのだろう、彼女はハッと顔を強張らせ、ばつの悪そうに言葉を続ける。


「でも……結局、お前の所為だ……お前が……こんなザマだから……」


「……何それ?」


 しかし、それきり黙りこくって、肘を擦るのみ。


 僕の所為?

 全然心当たりがない。

 なので、反論も思いつかない。


 膠着状態に入ってしまうかと思われたが、そこで助け舟が来る。


「あの……」


 戸口からそろそろと顔を出すのは演出助手だ。


「何?」


「あの……部長が怒ってるの、ぼく、あの、何となくわかるっていうか……暴露のネタ集めてみんなのことを覗き見してたから……その……」


「はっきり言えよ」


 と、言っては見たが、直後演出助手は凍り付くように停止。

 『止めろ』と部長が凄まじい眼力で彼女を睨みつけているのだ。

 仕方ないな~僕も睨みつけよ。


 バチバチバチバチ!


 お互いの“圧”が拮抗してようやく演出助手が動き出した。


「え、えと、あの、う……」


 頑張れ、演出助手!

 しかし散々目を泳がせた後、彼女は急に両手を上げて口を開いた。


「前の公演の後、後日反省会をした後、みんな解散してから二人で教室に残って話している時です、後はお二人でエチュードしてください!」


「はあ!?」



「行きます、よーーーーーーーーーーーーーー」


 僕が何か言おうとするのを制して、彼女はキュー出しを始める。



 ドカーン!



 と大きな音がして、音源を見れば隣の部屋の壁がぶっ壊れて、夕暮れの二〇一教室の白い引き戸が現れていた。またチカの友達らが運んできたのだろう、衣装が部長にジャージを渡しているのも見える。


 もうやるしかない。

 僕は引き戸を開け、部長と二〇一教室に、僕らの普段の活動場所へ移った。

 他の部員達も戸口から覗く中、エチュードが始まる。


「ーーーーーーーーーーーい、はい!」



 パン!







 この日、何を話したんだっけ?

 僕は一つも何も覚えていなかった。


 反省会はまた後輩達を念入りに吊るし上げて、辞める部員達には何か感じのいいことを言って別れたはずだ。(辞めた子達にはその後しっかりLINEブロックされた)

 それで部員達を見送ってから……部長と残った、いつも通りに。


 稽古の後、本番の後、反省会の後、いつも二人で残って今日や明日のことを話しあってきた。

 それは実は演出と部長になる前からで、平の部員だった頃、何なら新入生説明会でこの教室で初めてこの部活の説明を受けた日からそう。


 お互い少し離れた机のもたれて向かい合い、所在無げに“開始”を待つ。


 それで、いつも焦れた僕が第一声を出すのだ。


「お、お疲れ~」


 大体これ。

 あいつは僕が『お疲れ』と言うまで仏頂面でずうっと黙っている。


「……また部員が減ったぞ、お前の所為だ」


 それで口を開けばこれ。

 僕に辛辣な言葉をぶつけてくる。


「天寿だよ、天寿。あの子達は元々手伝いのつもりで入ったのに、半年も続けてこられたのは僕のお陰だ」


「ろくでなし、どうして私以外の部員とは上手くやれないんだ」


 肘を擦りながら彼女は溜め息を吐いた。


「みんなはお前に比べて包容力が足りないんだよ。僕ってクール系だから? やっぱ誤解されやすいんだよね、怖そうに見られちゃうっていうか」


「ろくでなし」


 繰り返し罵られるが、その声はどこか喜色を帯びている。

 そうだ、僕はずっと軽薄に振舞うし彼女はずっと痛烈だったが、この時間はいつも心地よかった。

 友達のように遊んだことは一度も無かったが、僕達は友達より親密な時間を過ごしてきた……そう思っていたのに。


「お前、そんな傲慢でどうするんだ。大学の劇団に入ったらまた後輩から始めるんだぞ、わかっているのか?」


 部長は僕の感傷など気にせず説教臭いこと言い出した。


「ふっ」


 意表を突かれて僕は笑ってしまう。


「何言ってるんだよ、演劇なんてもうしないから」


「――え?」


 部長が愕然と体を震わせるのがわかった。

 あの日も僕はそう答えたが、その時は……様子を見たりはしなかったはず。


「どうして、お前……だって、信大シンダイの文学部に入って、学生劇団に入るんじゃ……」


 彼女は動揺を隠そうと俯いて、口元を抑えつつ、それでもガタガタ崩れた言葉を吐き出した。

 ……僕はあの時全然気にせず、闇に沈んでいく中庭とその向こうの校舎を眺めていたっけ。


「いや、確かに文系だけど、東京トーキョーのどっか私大受ける予定。入るとしても文芸サークルとかかな」


「そ、そんな、でも……私は……演劇は……?」


「僕はもういいよ、高校だけで十分。向いてなかったんだろうね、やること全部上手くいかないし、みんなからは嫌われるだけだし、もううんざり」


 この時、一瞬だけ彼女の方を向き、苦笑いをして見せた。

 彼女も同じ表情だと思っていたので、ちょっと驚いた気がする。


「……ていうか、信大行くとか進路の話なんて今までしたことあった?」


 三秒か、四秒の合間。

 稽古だったら台詞が飛んだと思って怒鳴りつけるような、みぐさい沈黙。


 やがて、呻吟の末、部長は一言絞り出した。


「いや、私の勘違いだった……」







 パン。




 終了のキュー。

 だが、部長は真っすぐ立ち上がり、僕を真っすぐ見つめた。


「お前は、李益と霍小玉の関係を、高校演劇と自分の関係性に当てはめようと思っている……。その関係を、その愛憎をこの物語の中に、この劇の中に呪い封じ込めて、置いていこうとしている。だが、間違いだ。間違った解釈は認められない」


 ?


「あの悪いけど、その宣言と今のエチュードの関連性が見えてこないんだけど……。僕の解釈のどこが違うって言うんだ?」


 彼女は瞳をカッと細め、唇を曲げ、ほとんど泣き出す前の子どもみたいな表情で問う。


「本当にわからないのか?」


 首を横に振った僕に、彼女は僕の元に歩み寄り、僕の両手を握った。


のは誰だと思ってるの?」


 ぽかんとする僕に、握ってくる手の熱っぽさがじんわり伝わってくる。

 インフルエンザの患者のようなその熱さに驚いて動きを止めている間に部長は、深く息を吸い、お腹の方に溜め、発声を始めた。


「呪われたのはの方!」


 その巨大な大声に、その目に灯った強大な意志の光に、その熱に気圧される。


「ち、違う、呪われたのは」


「違う、貴方!」


 彼女の目を直視していると見る見るうちに自信が無くなっていく。でも、負けられない。僕は必死になって、メチャクチャになった舞台のどこかにある、黒板を、そこに書かれた字を思い浮かべた。


「違う、僕じゃない……呪われたのは李益だ! 僕は李益を演じているだけで、僕じゃない!」


「違う、違う!!」


 彼女は頭ごなしに大声で否定し、眼光の鋭さを強める。

 それで、ようやく彼女の意志が、感情がわかった。


「違う――李益は私だ!」


 妄執、狂気。

 そんな表情で彼女は僕の手を離し、二〇一教室の外に駆け出していく。


 衣装が投げ渡した袍服ほうぶくと頭巾を身に纏い、部長=李益は自分の屋敷に戻った。

 そして、彼女の一人芝居が始まる。







「盧氏! 盧氏! 盧氏! どこへ行ったんだ!?」


 男は自分の閨の中を見回して叫んでいた。


「説明しろ! あの若い男は誰だ!? ――私の幻覚? そんなわけがないだろう!?」


 寝具の下や、帳の向こう、襖を開けては騒いで回る。


「盧氏、この間投げ込まれた犀角さいかくの箱の中身はなんだ!? 相思子からあずきが二粒、叩頭蟲こうとうちゅうが一匹、發殺觜はっさつしが一個に驢駒媚ろくびが少し! 相思子は相思相愛を託け、後は全て媚薬ではないか! 言え! 貴様、誰と通じておるのだ!? 早く答えよ! 盧氏、どこへ行ったのだ!」


 男がどれだけ探し求めても誰も現れない。

 それでも李益は止まらなかった。


「盧氏、離縁など許さぬぞ! ――おい、えい十一娘じゅういちじょうと言ったなお前。お前を嫁に貰う前に言っておくことがある」


 李益は衣の袖に手を突っ込んで鋭い短剣を取り出して、誰へともなく振り回す。


「私はこの前にも何とかという所で何とかという女を身請けしたが、何とかということをして何とかという方法で殺してしまったのだ! おい、お前……何とかと言ったな!!」


 ビュッ。


 短剣が手からすっぽ抜けて襖に刺さる。


「おい、聞いているのか、盧氏! 聞いているのか、おい――霍小玉!」


 答える者は一人も居ない。

 座り込んだボロボロの竹蓆、何処からか奚琴の音色。

 彼は舞いながら、独り詠う。


波間のような竹蓆の上水紋珍箪とくとくと思いを巡らす思悠悠

 あの誓いも千里佳期一晩で水泡に帰す一夕休

 この先には従此夜を楽しむ心は最早持て無いだろう無心愛良夜

 もうどうでもいい任他あの月が西楼を下ろうと明月下西楼








「もう十分だ!」




 僕は背中から李益を羽交い絞めにして、その狂気を止めようとする。

 が、そんなことで止まる訳がない。


「聞いているのか、おい!」


「はいはい、今度は誰だよ!」


「……ずっとお前に言っているんだ、私は!」


 もがくのを止めた部長は、それでも狂奔をうねらせながら喋り続ける。


「高校演劇に呪われたのはお前の方だ。かつてお前は実直で才能に溢れていた。今まで私が会ったことない程の知識と発想で光り輝くように見えたよ。誰にでも物怖じせず自分の考えを話し、自分のやりたいことを根気よく実現させる熱意を持っていた。それが今はどうだ!」


 不意に胸が苦しくなってきた。

 表情は見えないが、彼女が僕に向ける思いが伝わってくる。


「理想と現実の狭間で磨り潰され、自信を失い、仲間を失い、逃げることもできず、誰かに助けを求めることもできず。覚えたのは恫喝と小狡くその場を切り抜ける事だけ、呆れる程小さく情けなくなってしまった。遂には『もう演劇はしない』なんて、『もうどうでもいい』なんて……高校演劇がそうさせたんだ、違うか!? 高校演劇さえ無ければ――お前は私とずっと演劇ができたはずなのに!」


「僕と、お前が?」


 彼女の熱っぽさの質が変わったと感じた。

 怒りから――希望に、待望に。


「そうだ! 信大シンダイに行って学生劇団に入って、その後はプロでも市民劇団でも自分達で作ってもいい。どこへでも行って、私はお前の作る劇を一番の役で演じられるはずだった――それが、こんなところで終わるなんて私には耐えられないっ!」


「そんなこと……」


 そんなこと、今まで一度だって言ったことなかったろ……。

 思ってもいなかったことに拘束が緩み、彼女は僕の手を振り解いて向き直る。


「だからお前を演出から降ろしたんだ! 高校演劇はもう止め。仕切り直して大学からやり直そう! 別に信大でなくても、東京でもどこでもいい!」


 その目の輝きは、眩しくて、危うくて……。


「な、この二年間はお前にとっては苦痛だったろうが、私にとってはこんなに楽しい日々は無かったんだ。こんなに煌めく時間はお前との間にしか無いんだよ……頼む!」


 僕が何かする機先を制し、部長は閨の外――部員達が固まっている方を向いた。


「舞監! もう一度霍小玉の屋敷を用意しろ!」


「はいやで」


 呼ばれたもう一人の三年は神妙な表情で頷き、指を一つ打ち鳴らす。

 その途端、屋敷の床がスコーンと抜け、僕と部長はストーンと落下した。







 僕らが落ちた先は、卓を囲んでそれぞれ椅子の上だった。

 テーブルの上には色とりどりの料理の乗った皿と壺、盃。


 これは先程やった、霍小玉と李益が再会する場面。


 部長は落下の間に着替えと化粧を済ませ、美しく微笑んでいる。

 他の部員達も次々飛び降りてそれぞれ酒宴の席に着き、固唾を呑んで僕らの様子を見守った。


 衆目の中、霍小玉=部長は上品な手付きで、二杯の盃に壺から中身を汲む。

 甘い甘い匂いのする薄茶色の液体で満たされたそれらのうち、一方を僕に渡し、もう一方を摘まんで顎の辺りに掲げた。


 耳が痛くなるほどの静寂。


 もう今日何度目か、みんなの視線を集める中、僕の頭の中では色々なことが巡っていた。

 部長との思い出、今の部員達との思い出、辞めていった部員達との思い出、今回の公演に至るまでの稽古。

 新入生歓迎公演『霍小玉伝』のこと、この劇に相応しいラスト。


 霍小玉は薄い笑みを浮かべたまま、李益に告げた。


「さあ、旦那様、誓いの盃です。再び永遠の愛を誓い合い、永遠の呪いを掛け合い、共に生き続けましょう」




 僕は。



 背筋は真っすぐ。

 目は小玉から離さず。

 鼻から腹に深く息を込め。

 唇を開け、喉を震わす刹那に。


 盃を傾け、中身を地面に広がるままにした。



太公たいこうみず一盆ひとぼんりてかたむけ、をしてみずおさめしむ。どろるのみ――」


 それを聞いた霍小玉はかっと顔を赤く染め、自分の盃を僕に向けて投げつける。

 僕はそれを避けないで、正面から受け止めた。




 盃の中身、リプトンのミルクティーが僕の頭から全身にぶっかけられる――。




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