16.後月餘,就禮於盧氏。傷情感物,鬱鬱不樂。




「小玉、聞いて欲しい」


 人々が戸惑い狼狽える中、僕は千年前の中国の男、官僚で詩の名手で、希代の裏切者の顔と心を作って、口を開いた。


「せ、先輩、な、何するつもりなんですか!?」


「余計なお喋りをするな、本番中だ」


 役の抜けた衣装を軽くいなすと、一人以外の部員達は口を閉じて様子を見守る。

 一方、その残りの一人、部長=小玉は依然として李益を、=僕を、怒りと恨みに満ちた眼をしていた。


 僕は怒り狂う女を正面から見つめ返す。


「君との誓いを裏切ったこと、甚く君を傷付けたと思う。君はきっとこれから死んでしまうほど苦しんだのだろう」


 僕はその後周囲の人間達を見回した。


「お集まりの皆さまにも、ずっと不快な思いをさせてきたろう」


 それから彼女に改めて向き直り、背筋を伸ばしたまま、告げる。


「だが、僕は今も後悔していない。だから謝りもしない。僕は君を捨て、盧氏の娘を娶り、働き、詩を詠んで生き続ける。君が恨み呪い、他の誰かが蔑み呪い、その分だけ僕の命は長らえるだろう。僕はそれでいいと思う、そうやって生きようと思うんだ。君に伝えたかったのはそれだけだ」


 色めき立ったのは小玉では無かった。

 その場に居合わせた人々や、観客まで僕に怒りを抱いたろう。


 しかし、小玉は違った。

 吊り上がった眦には、大粒の涙が沸き上がっている。


 そのうち彼女の白んだ唇が開かれ、絹を引き裂いたような音が出てきた。

 音は次の瞬間には莫大にボリュームを増大させ、屋敷全体を、長安の街を、震わせんばかりに包み込んだ。

 そんな大号泣を始めた小玉はやがて机に突っ伏すと、全身を何度か捩って更に大きく泣き、それから、動きを止める。


 母親が駆け寄り、息を確かめ、首を振った。







 周りの人々が肩を落とし、それぞれの悲しみを表す中、僕は立ち上がって大きく息を吸い、宣言する。



「さあ、女が死んだぞ! 次のシーンだっ!」



 すると奚琴が掻き鳴らされ、工具を抱えた舞監の友達二名が舞台に駆け込んできた。

 そいつらは瞬く間に僕ら役者を外に出すと、霍小玉の屋敷を解体し、整地し始める。


 それが終わると、今度は角材のレールと丸太のコロで新しい屋敷が曳かれてきた。

 その頃は李益の任地となる鄭県にある自邸、次の舞台である。


「さて、次のシーンだが……僕は李益のまま、嫁の盧氏は演出助手にやってもらおう。台詞は入ってるな?」


「え、え」


 まだ混乱している役者達の内から演出助手の右手を掴んで引っ張り出した。

 そのまま屋敷の門をくぐると、夏夜のヒンヤリとした空気が頬を撫ぜる。

 いつの間にか辺りは真っ暗で、太陽でなく銀色の月が昇っていた。


 上手い繋ぎなんて思いつかないので、そのままあらすじを喋ることにする。


「霍小玉が死んで数か月が経った。その間に盧氏との婚礼も済んで、任地での仕事が新婚生活が始まった。しかし、李益は小玉のことを引き摺って鬱々として楽しまず、浮かない顔で日々を過ごしていた……次のシーンはそこから始まる。それでどうするかだが」


「離してくださいっ!」


 中庭を抜け、夫婦が住む正房に入ろうとしたところで、演出助手が手を振り解いてきた。

 ようやく状況に頭が追いついてきたたらしい。


「さっきのは何なんです!? ぼくの役を奪うなり原作にも台本にも無いことを言い出して、どう辻褄を合わせるつもりですか!? 大体もう演出でもないアンタの指図は受けない!」


 威勢のいいことを言っているが、僕を睨む彼女の目はいつもの怯えが隠し切れていなかった。

 全く、この意気地無しめ。

 僕は演出助手に向き直り、溜め息を吐きながら誤解を訂正することにした。


「そうだよ、僕はもう演出じゃない。だから辻褄を合わせるのも、次のシーンをどうするかもお前が考えるんだろうが」


 そう言うと、奴はアホみたいに半口を開けて黙りこくる。

 ……本当にわかってないのか?


「おいおい、しっかりしてくれ。演出が降板したんなら、劇をまとめるのは演出助手のお前の役目だろ?」


 演出助手は悄然とした様子で首を振る。


「え、え、いや、そ、そんなの、ぼくには……」


 できないです……とか森の妖精みたいに小さな声で言い出すので、ほとほと泣けてきた。

 だが、諦めるわけにはいかない。


「もう後少しなんだ、頑張ってくれよ。李益の役も代わってやったし、それにさっきの台詞で後の道筋はつけたつもりだ」


「わ、わからないです……」


 演出助手はブルっちまったまま俯くだけ。

 どうしたらいいかわからないなりに、僕はなるべく彼女が怯えないよう腰を落とし、目を合わせながら喋ることにした。

 そう言えば今まで叱るだけだったので、こんな些細な努力さえ今日初めてやっている。


「聞いてくれ、僕はやっとこの劇の意味に気付いたんだ。比喩だったんだよ、僕らが『霍小玉伝』を演じるのに足りなかったものは。散々教えてきただろう、洗練された比喩を使いこなせば――」


「そ、それなら、先輩がやればいいじゃないですか!」


 両目をギュッと瞑り、両手の拳を下で握りしめ、必死の抵抗。

 ……ほーんと、仕方ないんだから。


 僕は叱りつける時の発声で、力いっぱい彼女の名を呼ぶ。


「演出助手!!」


「な……何ですか……」


 反射で後輩はいつも通り、僕を下目遣いに見てきた。

 息を深ーく吸い、すごーく嫌な顔をして、言ってやる。


「僕は楽しく演劇がしたかったお前の期待を裏切り、お前のことを散々苦しめてきたから演出を降ろされたが、今も悪いことをしたとは一切思っていない! だから後悔してもなければ、これから先一生お前に謝りもしない!」


 それを受けて演出助手の目に怒りが、憎悪が、戻ってきた。


「それに、謝ったところでお前は僕を許さないし、傷付いたお前の心は癒されもしないだろう! ざまあみろ! お前は一生僕のことを夢に見て苦しみ続けるんだろうな!」


「このクソ野郎……!」


 また殴りかかってきそうなほど握り拳に力が入ってきたのを見届けてから、表情を崩し、切り出す。


「――でも、この構図、と同じだと思わないか?」


 ピタリと彼女の動きが止まった。


「霍小玉がどんなに強く呪っても李益は結局官僚を生涯勤め上げたし、詩人としての名声は死後も変わらなかった。彼女の心は救われなかったんだよ!」


 僕の言葉に閃くものがあったのだろう、演出助手は目を見開いて考え込んでいる。


「だが、この物語ならそんなクソ野郎を未来永劫呪って苦しめられる。この物語を演じることで、を――を、呪って封じ込めるんだ。そうして初めてお前の心を救うことができるだろう」


 『嫌いなもの』、そう言った時、演出助手と僕の間にあった蟠りが、ほんの少し、ほぐれていくのを感じた。ほんの少しでもその影響は甚大で、何しろ見下しと憎しみ、一方通行の感情しかなかった僕らに、共感の温かさが巡っているのだもの。

 やっぱり人が結束するには共通の悪役を作るのが一番なのだ。


「そして、その為の布石はもう十分撒いてある。僕がこの劇を何の為に書いたのか、お前がこの劇に何をしてきたのか……もうわかったろう? むしろ――」


「『むしろ洗練された比喩を使いこなせば、表現はかえって脚本や演技の文脈を越えた鋭さを持ち』――」


「そうだ、やってくれるな?」


「……やってやる」


 何を、偉そうに。

 でも、僕は彼女に微笑み、教えを請う。


「この次のシーン。どうすればいいか、指示を頼む」


 彼女はそれでもまだ自信の無い様子で、それでも夫婦の寝室に向け歩きながら喋り出した。


「……こ、この場面では、李益が妻を誑かす男の幻覚を見て狂い始めます。原作では……地の文だけで台詞は無し。だから先輩の台本では最低限状況を伝えるオリジナルの台詞だけ。そ、それでは新しい解釈が加えられないので、ここから先は即興で作っていきましょう……でも、李益が幻覚を見て、妻を詰問する。そ、その筋だけは守ってくださいね」


「わかった。何か特別にしなければならないことはあるか?」


 閨に着き、衣装が渡す上等な羅衣に着替えながら演出助手は、眉間にしわを寄せて答える。


「どこかで『写情しゃじょう』の詩を詠んでください」


「いいけど、どう使う?」


「わ、わかりません。でも……あれは史実の李益が残した強い強い未練です。必ずどこかで使いどころがあるはず、やりながら考えます」


「行き当たりばったりかよ。芝居は段取りって何度も何度も教えてきたはずだったんだがな」


「か、必ず間に合わせますので!」


 サッと額に汗を浮かべる演出助手に、手を振って安心させる。


「いいよいいよ。それがお前のやりたい劇ならな」


 それからは二人とも無言で、とばりを開けて、竹蓆ちくせき(竹でできた莚、夏の寝具)に共寝する。

 灯りは枕元の灯籠だけ。外では夏の虫がサワサワ怪しく鳴いている。


「それじゃ、行きまーす、よーい、はい」


 僕は天上をぼんやり見ながら、両手を掲げ、静かに手を合わせた。




 パン。







「旦那様、旦那様」


 盧氏は自分の横で、上体を起こしたまま顔を険しくしている夫に呼びかける。


「どうなさいました? 何か考えてらっしゃるんですか?」


 良家の娘らしく丁寧な言葉遣いだが、神経質で僅かに棘を感じさせる言いぶり。

 そんな妻に目を遣ることも無く、僕=李益は一言だけ答える。


「考え事」


「だからその考え事の中身を聞いています。もう夜も遅うございます。油も勿体ないので明日にできることなら、明日にしてくださいまし」


 ピシャリと言われて、李益は不快げに唇をへの字にした。

 しかしすぐに意地悪をしたい気持ちになって、唇の端を吊り上げる。


「詩を考えていたのだ。ちょうどいいのが一つできたところよ」


 すると、妻の頬が綻んだ。


「まあ! 旦那様の詩でしたら大歓迎ですわ! 聞かせてくださいな」


 僕は心得たとばかりに少し顎を上げ、竹蓆に両手を付き、朗々と謳い上げる。


水紋珍箪すいもんちんてん思悠悠おもひはゆうゆう千里佳期せんりのかき一夕休いっせきにしてやむ

 従此これより、無心愛良夜よきよをあいするこころなし任他さもあらばあれ、明月下西楼めいげつせいろうをくだるを


 そうすると盧氏は一気に顔を顰めた。


「今の詩は『女にフラれて激萎え』って詠ってるだけに聞こえたんですけど!? 一体誰の事を詠ってるんですの!?」


「ははは! 冗談だ、そんな相手、こんな田舎にはいないし、甲斐性もないよ! すまんな、揶揄いたくなっただけだ。もう寝る」


「もう!」


 と、新妻は頬を膨らまして夫に背を向けた。

 一頻り笑い終えると、僕は灯籠の火を吹き消して横になる。


 夜闇が部屋の中に満ちていき、虫や鳥の声が大きくなった気分。

 心の中で落ち着かない気持ちを膨らましていき、それを段々体に反映させていく。

 最初は足の指、次に尻、目蓋、手の指先……。

 ついにまた半身を起こし、ぼんやり帳に目をやった。


 人影。

 帳の向こうに誰か立っていた。

 原作では若い男。痩せててイケメン、そんなのが嫁の盧氏を手招きして誘っている。

 この幻を見て以来、李益は自分の妻に対して強い猜疑心を抱くようになるのだ。


(……ん?)


 しかし、現在僕が目にしている人影は、確かに細身だが、どこか違和感、

 シルエットに腰元で著しいくびれ、胸元に膨らみ、髪は背中まで届く長さ。

 そんな人影がフルフルと横に揺れている。


「ん、あれ、あれ?」


 ここで僕は帳を出て周囲を見回さなければならないのだが、この異様さに足が竦んだ。

 そーっと盧氏の方を窺うと、彼女も『こんなの知らない』と首を振ってくる。


 そのまま沈黙を守っていると、やがて待ち兼ねたのか帳を突き破って、鈍い銀色の刃が伸びてきた!



 バリーッ!



 帳をかっ裂いて中に入ってきた女の正体に、僕は驚愕に目を見開く。


「しょ、小玉!?」


 両手で斧を構えた霍小玉=部長は僕を睨みつけ、白い顔に青筋を浮かべて叫んだ。



「李益、この恨み晴らさでおくべきか!!!」



 何この展開!?




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