15.我為女子,薄命如斯!君是丈夫,負心若此!
◆
霍小玉は目覚めると荒く息を吐いた。
「はあっ……はあっ……」
「小玉、小玉! 目覚めたの!?」
傍らにいた浄持が娘の肩を揺さぶりながら問う。
側に控える桂子も燭台を片手、蝋燭の光がチリチリと青白い顔に揺れていた。
「桂子がひどくうなされる貴方の声を聞きつけたわ。昨日までは声も出ない程弱っていたのに、一体どうしたの、身体は大丈夫?」
ふっふっ。
しばらく息を整えてから、小玉は虚ろな瞳に急に意志を点眼して染め上げる。
「夢を見たの、お母さん」
「どういうこと?」
小玉は自力で立ち上がり、確かな足取りで、板張りの床を一歩、二歩。
戸を開けて薄明の庭園に目を遣りながら口を開く。
「もうすぐ、あの人がこの屋敷に来る」
「な、何を言っているの?」
「夢を見たの。今日、浅黄色の麻の衣を羽織った男の人があの人を抱えてここに来て、椅子に座らせる。そして、その男の人は私に彼の
動揺する母を置き、娘は右のこめかみに右手を当て、コツコツと叩きながら訥々と喋り出した。
「
「小玉……貴方が何を言っているのかわからないわ」
「お母さん、私の髪を梳いてお化粧をして頂戴」
霍小玉はやつれた細面に薄い笑みを浮かべ、母親を見やる。
「今日、あの人と会って私は死にます」
◆
そのまま霍母娘が装いを整えるのを眺めながら僕はぼうっとしていた。
今、客席にいる。
ジャージのポッケに両手を突っ込み、だらりと椅子にもたれていた。
座っているのは普通の教室にある木と金属パイプの椅子。
常々思っていたが、集中しているとケツが痛くなって芝居を観るのに向いていない。
少し座り位置をズラすと、パイプが軋み音を立てて更に不快な気持ちになる。
舞台上ではノロノロと小玉の髪に櫛が当てられていた。
朝陽を浴びた彼女の長い髪が黒々と光っている。
テンポが悪いよ~。
ここはマイムでサクッと飛ばして、再会のシーンに繋げるところだったじゃん~。
だけど、それを指摘することはできない。
もう僕はこの劇から降ろされてしまったのだから。
もうこの劇は僕のものではないのだから。
演出でなくなれば最早この芝居も他人事にしか感じられない。客席と舞台の間は遠く、さながら二千六百五十二キロメートル、諏訪市と
それでも頭の中ではひたすら今回の反省をしている。
今回も自分の仕事を果たしたつもりだった。
『霍小玉伝』と部活紹介の組み合わせの不味さについては次第に後者が小池とその架空の先輩の恋愛物語にスライドしていくことで誤魔化す。それで一見悪ノリで無軌道に進めたか思えば、最終的に呪われたバッドエンドの李益と呪いを振り切ったハッピーエンドの小池という対比のあるエンディングを作り出し、高校演劇のプロじゃなく学生が肩肘張らずに自由に演じる魅力を伝える、というプラン。
我ながら上手くまとめたと思っていたし、これを説明した時にもみんなからも異論は無かった。
ただ、全力で取り組まなかったのも事実。
正直、自分の芝居を作る演出としての役目はもう終わっていて、後は後輩達に渡す為の芝居のまとめ役をすればいいと考えていた。
演出助手には手を焼いていたし、そろそろ進路も考えないといけなかったし。
その結果がこれ。
後輩の育成も新入部員の獲得も、劇としての出来も全部しくじった。
後輩達どころか、部長からすら見放される。
自信もプライドもベコベコ。
とはいえ、その傷もアホみたいに長くなったシーンのお陰で段々癒えてきた。
正確にはどうでもよくなってきた。
演出助手に言ったように、僕も今は高校演劇が大嫌い。
初めは演劇がしたいから入ったけど、入ったら想像と違ったので。
演劇と高校演劇は別物で、具体的には高校演劇は部活だったのだ。
先輩がいて後輩がいて同期がいて、みんな高校生。うんざりする程幼稚で、感情的で、子どもで――つまらない。知識も無く、ユーモアも無く、見た目も悪く、演技力は猿回しの猿以下。稽古中すぐ泣き出し、精神的にキツいとか勉強がどうとかですぐ辞める。そんなしょうもない奴らを何か月も必死に叩いて、締め上げて。それでようやくできるのは、力の入り過ぎた不細工な動作と濁って音が潰れた大声で一時間前後騒ぐことだけ。
高校演劇は最悪だ。
それでも。
それでも僕なら、努力すれば、ひたすら頑張れば……掃き溜めの中でただ一人美しく演技ができたあいつとならば!
なんて思っていたのも、今はどうでもいい。
いや、本当はもうずっと前から、二年掛けてどうでもよくなってしまったのだろう。
◆
「李益ガ来タ! 李益ガ来タ!」
庭園の籠の中の鸚鵡が騒ぎ出して、物思いから急激に引き戻された。
見れば、お日さまはすっかり青空に浮かび、燦燦と光っている。
小玉は化粧と髪結いを終え、帯をした襦裙の上から最後の衣を羽織るところ。
真っ白な、死人の着るみたいな着物だ。
「霍小玉さーん、亭主のお帰りやで!」
もう三度目になるか、豪士の威勢のいい声。
浅黄色の麻の衣を身に纏い、今度こそ男を連れて門を越えて屋敷に入ってくる。
「まさか……!?」
母親はそれに気付くと目を見開いた。
今までのことは娘の狂気に付き合っているつもりだったのだ。
それでフラリと夫の元に向かおうとする小玉の袖を引き留める。
「小玉、落ち着きなさい。わかっているの、貴方は唯でさえ体を病んで今日まで起き上がることもできなかったのよ。それもこれもあの人に恋焦がれ、食事もせず、碌に眠れもしなかったせい。今更顔を合わせたら、貴方が言った通り死んでしまうわ!」
しかし、娘は微笑を浮かべたまま彼女の手を振り払った。
「もういいの、母さん。それでいいの」
それから確かな足取りで歩き出す。
その狂気と美しさを兼ね備えた姿を見ては、母親も召使もハッと息を呑むばかり。
最早何人も止めることはできず、ついに彼女は、李益が座して待つ部屋に辿り着く。
再会した二人の間に会話は無かった。
椅子に座らされたままの男は胡乱に目をパチクリさせるだけ。
一方の立ち尽くす女は怒りを帯びた瞳で凝視し続ける。
沈黙のうち、洗持や桂子、または李益と卓を共にするその友人達と豪士は涙を禁じ得なかった。小玉のその病んだ姿や、偶に袖で涙を拭いそれでもまだ李益を見続ける彼女の心持ちには同情せざるを得ない。今の小玉にはその凄みがあった。
まもなく、外から酒壺や料理の乗った皿が次々運ばれてくる。
驚く人々が運んできた者に問うと、豪士がこの日の為に頼んでいたのだと答えた。
かくして、悪夢のような宴が始まる。
相変わらず男と女の間に会話は無い。
当たり前だが他の人間も口を開けず、湯気を放っていた饂飩は冷めていき、瑞々しい光沢の膾も乾いていく。
痛いほどの気まずさの中で、どこか遠くで奚琴が激しく掻き鳴らされていた。
やがて、立ったままだった小玉が李益の対面の席に座った。
顔を背けたまま、流し目に男を見続けていたが、その時間も最後には終わる。
小玉は手近な酒壺から盃に一杯汲んで取り上げると、中身を全て床に撒いた。
それから堰を切ったように言葉が溢れる。
「私は女で、こんなにも薄命! 貴方は男で、こんなにも薄情! うら若い私は恨みを飲んで死んでいく。母親に孝行することもできず、綺麗な服や麗しい音楽も今日でお仕舞。それもこれも全部貴方の所為。李益! 李益! 今が永訣の時。死後は必ず鬼になって貴方の妻や妾を
「小玉っ、それは……!」
妻の今際の際の言葉に夫が決死の気持ちで口を開く。
だが、続く言葉は無い。
そのまま時が止まったような静寂が訪れる。
小玉は無表情に黙るだけで、李益は顔を青くして目をキョドらせるだけ。
◆
何が起きたかというと、李益が盛大にミスった。
本来ならさっきの長ゼリの後、霍小玉は泣き叫んで死ぬはず。
それを台本に無い台詞が止めてしまった。
霍小玉が本当に死んでしまうのでは、とでも思ったのだろう。
演出助手は部長の演技に呑まれてしまったのだ。
周りも誰もフォローできずに固まっていて、情けない限り。
あれ程演劇は段取りだと教えてきたのに、愚か者共め。
これじゃ客も興冷めだろう、と左右を見て回る。
すると、一つ空席を挟んで右隣の一年生と目が合った。
(ひどいもんだろ? でもみんなこれで精一杯なんだよ)
僕はその子に何となくそう伝えたい気持ちで苦笑して見せる。
相手は色の薄い虹彩をニ、三度瞬かせ、こう言った気がした。
(そうだね、幾ら物が揃っても役者がこれじゃあね。それに台詞も相変わらず原作をなぞるだけで空疎。見てて感じるものが無いって言うかさ、何を伝えたいかわからないままで、うんざりする)
結構言うじゃねーかよ。
まあもう反論する立場でも無いし、どうでもいいけどね。
でも、『そりゃ悪かった』と頭を下げようとしたところで、その一年の顔がまだ何か言っていることに気付いた。
(それで、この劇はこれからどう面白くなるの?)
そいつの瞳はキラキラとしていて、頬を紅潮させ、唇は興奮して声が出ないように必死に引き結ばれている。
正確に何を言っているかわからないけど、どんなことを考えているかは手に取るようにわかった。
期待している。
これまでこの劇を見てきて、まだ面白くなると本気で期待している。
でも、それはきっと僕がこの部活に入る前、新入生歓迎公演を見ていた時と同じ期待で、入部した後初めて役者をやって舞台に立った時と同じ期待で、演出になって部長と思いのまま芝居を作り始めた時と同じ期待で。
この期待だ。この期待があったから、今日までこの部活を続けてきたのだ。
部長も、演出助手も、他の部員達も、この期待の為に、今日まで。
この期待に何度裏切られても、次の公演こそは、次の練習こそは、次の瞬間こそは、と期待してきたのに。
何度裏切られても、この期待を裏切ってはいけなかったのに!
それがわかった瞬間、視界が真っ赤に染まって――
――気付くと、霍小玉の屋敷に立っていた。
何の為にここに来たのか、どうすればいいのか、そんなことは一つもわからない。
だが、身体は勝手に動き出した。
手を拱いて微動だに出来ない奴らを余所に僕は歩き、一人の男の背後に立って、口を開く。
「おい」
「え?」
「その役、僕と代われ」
僕は驚く李益の肩を押しやって椅子に座った。
◆
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